3コマ目 幸せな時間と老夫婦
有の家は5人家族だった。
父と母と弟妹。
とりわけ裕福という家庭でもなかったが、十分に満たされた生活を送っていた。
家族の仲も良く、いつも笑い声が溢れる家庭だった。
そんな中、ただ一度だけ父親と大喧嘩をした事があった。
それは高校1年の冬、有が両親に初めて塾講師に成りたいと明かした時のことだった。
有は自分の夢を笑顔で受け入れてもらえると思っていた。
しかし、父親はそうではなかった。
真面目で安定した職に付いている父親にとって、塾講師というものはどうしても不安定な地に足のつかない職業だと思われていたのだ。
塾講師になるぐらいなら教師になれ、というのが父親の言い分だった。
有の将来を心配して厳しく言っているのだと、後になって思い至ったが、その時は自分の夢を否定されたことが悲しかった。
近所迷惑な激しい口論の末、有は家を飛び出した。
何も考えず飛び出した結果、財布も何も持っていなかった有は友人の家に無理を言って数日泊めてもらった。
冬休みという事もあり、学校に行く必要もなかった為、友人と遊びながらその数日を過ごした。
そして6日後、熱も冷め、そろそろ帰るかと帰宅した有を待っていたのは涙を流した母親の痛烈な張り手だった。
喧嘩したまま、6日も音信不通になった有を探そうと、ついには警察に捜索願が出されたところだった。
頬の熱さと、少し憔悴した父親と、気丈な母親がボロボロと泣く姿に、その時初めて大きな心配と迷惑を掛けてしまったのだと悟った。
「ごめん、・・・なさい」
「・・・お前が無事なら、よかった。・・・・・・ムキになって悪かった」
そう謝った後足早に去っていく父親に、有はもう二度と両親に迷惑を掛けないと誓った。
その後、大学に通い教育免許という保険だけは取るという条件の下、有は夢に向けて進むことを許された。
それから有はただ夢に向けて努力を続けた。
塾から採用の通知が届いたその日、有の頑張りを見てきた母親は盛大にパーティーを開いてくた。
そしてその次の日、眼が覚めた有の枕元に置かれていたのは、父親からの祝いの黒皮のシックな腕時計と白・ピンク・赤の綺麗な石の3つ付いた2つ合わせのネクタイピンだった。
柔らかい。
それにいい匂いがする。
あの日も、こんなスープのいい匂いがした。
朝食は和食と決まっていた実家では珍しく、前日のパーティーのスープと料理が出てきたのだ。
その匂いに釣られて起き上がったところで、手に当たったのが父親からのプレゼントだった。
「・・・あの時は嬉しかったな」
有は幸せな気分に浸りながらゆっくりと目を開け、ぼやけた頭で匂いの元を見渡した。
見覚えのない、落ち着いた雰囲気の部屋だった。
ここ数日過ごしていた泉ではない。
『おお、眼が覚めたのかい?』
年老いた男性が、此方の顔を覗き込んだ。
『お腹が空いているだろう。ちょっとスープを持ってくるから待っていなさい、母さん、母さんや』
そのままベッドから離れていく男性は、何かを呼びかけながら部屋から出て行った。
ボーっとしている頭は、何を話しかけられているのかさっぱり理解していなかった。
有は身体を起こし、真っ白な頭で男性の出て行った扉を見つめていた。
少しすると部屋の扉が再び開き、今度は男性と共に年老いた女性が入ってきた。
その手にはお盆を持っており、カップのようなものが載っていた。
『気分はどうだい?ささ、これをお飲み』
女性はお盆を置いて、カップを有に手渡した。
カップからは湯気が立ち、おいしそうな匂いが漂ってくる。
有はその匂いに誘われ、そっとカップに口をつけた。
「・・・おいしい」
身体が温まっていくのと共に、有の頭も次第に明瞭になっていった。
ここはきっとこの老夫婦の家なのだろう。
ということは、この人たちに助けられたという事だ。
有は慌てて老夫婦にお礼を言おうとした。
「あ、あの、ありが、アツッ!」
慌てたことにより有の持っていたスープが跳ね、手に掛かった。
それを見た女性が、ゆっくり背中を撫でながら優しい声で話しかけた。
『慌てないで、ゆっくりお飲み。話はそれを飲んでからでいいのよ』
有を落ち着かせようと配慮したそれは、逆に有を驚かせる結果になった。
言葉が、分らない。
女性の話す言葉は、日本語でも英語でもなかった。
その事実に有は眩暈がしそうになった。
その事に気付いていない老夫婦はニコニコと有を見つめてくる。
それを横目に、内心焦りながら、有はまだ半分は残っているスープを啜った。
・・・どうしよう。
有はカップを空にして暫く逡巡した後、深呼吸をした。
そして意を決して口を開いた。
「あの・・・助けて下さってありがとうございました、とてもおいしかったです」
間違いなく伝わってはいないだろうが、それでも精一杯の感謝の気持ちを伝えたくて頭を下げた。
言葉が返ってこないので頭を上げると、眼をぱちくりと開いた男性と、小首を傾げた女性が目に入った。
少し間をおいて困惑した表情で老夫婦は言葉を交わし合った。
『あなた、今、彼が何と言ったか分かったかしら』
女性が男性の方を見ると、男性は小さく首を振る。
『いや、分らなかった。・・・私たちの言葉ではないようだ』
男性は思案するように、眉間の辺りを親指と人差し指の腹で摘まんだ。
『それじゃあ、いったい・・・』
『・・・彼は異流者ではないだろうか』
その言葉に女性は驚いたように目を開いた。
『まあ・・・では彼はこの世界の人ではないの?』
『確証は持てないがおそらく・・・』
『そう、それがほんとなら可哀そうに・・・』
女性の憐れみを含んだ眼が有の眼を捕える。
もしかして、不審者としてどこかに突き出されるのだろうか。
有の不安を余所に、夫婦は再び言葉を交わした。
『ねぇ、あなた。彼に此処に住んでもらってはどうかしら。帰る場所もない、知り合いもいないのではあまりに可哀そうよ』
『・・・そうだな。息子のこの部屋も空いているし、彼が良ければそうしよう』
何かに頷く男性と、嬉しそうにする女性。
険悪な雰囲気ではない事に、有は思わず胸を撫で下ろした。
『しかし・・・どう伝えればいいのか』
『そうねぇ・・・』
うーんと悩む二人に、先ほどから何の話がなされているのかも分っていない有はどうしていいのかもわからない。
何かを悩んでいる二人をじっと見る。
有が分かるのは、二人を悩ませているのはきっと、いや確実に自分の存在だろうということ。
それならばすぐにこの家を出た方が、この親切な二人に迷惑が掛からないのではないか。
そう結論を出した有はベッドから立ち上がり、おそらく家の玄関だと思われる方に向かった。
慌てて後を追ってきた二人に、扉の前でお辞儀をした。
「お世話になりました!」
そう笑顔で部屋から出ようとした有は、ガッと男性に腕を掴まれた。
吃驚して男性を見ると、面前で思いっきり手を振っている。
違う、違うと何かを弁解しているようだった。
何が起こっているのか、頭の上に?マークを浮かべる有の背を女性はゆっくり押して、リビングらしき場所の椅子に座らせた。
これはもしかして、もっとゆっくりしていけばいいと言うことなのか。
目の前に出される飲み物に、有はおそらくそういう事だろうと納得し、二人の好意に甘える事にした。
そしてその後、数日間に渡って同じようなことを繰り返され、その度に身体で何かを伝えようとしてくる二人に、ようやく「この家に居ていい」と言ってくれている事に気が付いたのだった。