2コマ目 見覚えのない森と孤独
チチチチッ
チチチチチッ
何かが鳴く音が聞こえる。鳥か何かだろうか。
それに続いてギューワッ、ギューワッと少し五月蠅い音が有の耳に差し込んできた。
(なんだ?蝉、かな?・・・蝉?)
頭を掠める違和感に、有は重い瞼をゆっくりと開けた。
徐々に広がる視界の先には、薄暗い緑が広がっていた。
「え?」
一気に頭が覚醒する。
瞠目して起き上がり辺りを見渡すが、そこら一帯には木が生い茂り、蔦や雑草、苔といったものが無秩序に生えているだけであった。
ところどころ木々の隙間から明かりが漏れてはいるが、全体的に遮光されているせいか薄暗く、少し不気味な雰囲気を醸し出している。
(・・・どこ、ここ)
有はおぼろげな頭で記憶を辿るが、こんな場所に来た記憶は一切ない。
(俺、確か塾から帰って、あれ?その後、どうしたんだっけ・・・)
なぜか記憶がそこで途切れてしまって、思い出せないでいた。
そして思考するうちに、先ほどの違和感がより一層顕著になる。
「今、2月末だよな・・・?」
確かにそのはずだった。それなのに有を包むのはジメッとした蒸し暑さ。
防寒対策の為の厚着には、あまりに厳しいその気温。
有はとりあえず来ていたコートとセーターを脱ぎ、脇に抱え、さらにシャツの袖をまくりあげた。
「どこだ、ここ・・・?」
先ほどより強い違和感を孕んだその言葉は、小さく森に木霊し、その先に続く闇の奥深くへと消えていった。
それから何時間か経ったが、有はまだ森の中にいた。
当初、なんとか状況を探ろうと携帯電話を探した有だが、どうやら身一つでこの森に来てしまったようで、持ち物は何一つ身に着けていなかった。
そんな手詰まりな状況であったが、「歩けばどこかに出るだろう」と、有は軽い気持ちでその足を踏み出した。
今では、その時の安易な自分を殴り飛ばしたい気持ちでいっぱいだった。
なぜなら、歩いても歩いても、森の出口が見つからないからだ。
それどころか、より森の奥深くに迷い込んでいるのではないかという嫌な感覚がじわじわと有を襲う。
その上でジメジメとした暑さと、人の手の加わっていない道なき道が容赦なく体力を削りにきた。
ぽたり、と米神から顎を伝って汗が垂れる。
最初にいた場所から動かない方がよかったのか。
遭難、という二文字がちらちらと有の頭を掠めていく。
しかし有はそれを打ち消そうと思い切り首を横に振った。
(・・・大丈夫、目印か何かがが見つかる、はず)
どこか道路にでも出られればそこから辿ればいいし、もしかしたら看板や建物が見つかるかもしれない。
だから大丈夫、そう自分に言い聞かせるも、不安が拭われる事はなかった。
(リングワンダリング・・・とか言うのがあったっけ・・・)
どんどんと思考が不安に染まっていく。と、その時。
ガサッ
不意に、近くの草木が不自然に揺れる音が聞こえた。
驚きで心臓が止まりそうになりながらも、有は音のする方向に頭を動かした。
ガサ、ガササッ
見上げた樹の先、生い茂った木の葉の一角が揺れている。
そしてその揺れは次第に大きくなっていく。
ガサッ、ガサッ、ガサッ
(鳥?いや、猿か何かでもいるのか?)
枝を揺する音がより激しくなる。
その正体を見極めようと目を凝らした矢先、何かが有の目の前に落下してきた。
「うわっ!?」、不意の出来事に、有は反射的に大きく仰け反った。
そしてその体勢のまま、目を開いて固まった。
「・・・は?」
ボトッという音と共に着地した“それ”。
一旦身を震わせ、此方を見てきた“それ”。
茶色い体毛とその上を走るような数本の焦げ茶のライン。
その姿はどこかで見たことある姿形だった。
「ウ、ウリボー・・・?」
形状は確かにそれに近かった。
それに近いのだが、有の記憶と激しく一致しない部分がある。
夢か幻かと思い、一度目を擦って見詰め直すが、そこに“それ”は確かにいる。
唖然としていると、ふと小さく羽ばたく音が耳に入った。
それと同時に眼前に広がった光景は、とても信じがたいものだった。
「ウリボーって・・・、飛べたっけ・・・」
パタパタと宙を舞う“それ”は、純粋な瞳を輝かせて此方を見つめていた。
「なんだろ、こいつ・・・」
有は自分のセーターの上に丸まっている生き物をずっと見ていた。
ぱっと見はウリボーを小さくしたような姿形だが、その背中には淡いピンクの羽が付いている。
その色がやけにファンタジーチックだった。
(・・・これがUMAっていうやつなのかな)
とりあえず有にとって害がなさそうなのは有難い事だった。
それにセーターの肌触りが気に行ったのか、毛糸に毛玉がすり寄っている姿はなんとも可愛らしかった。
人に対する警戒心もないようで、寧ろ向こうから寄ってくるぐらいだ。
不安でいっぱいだった心に、少しの余裕ができる。
感謝の気持ちでウリボーもどきの頭をぐりぐりと撫でてやると、ウリボーもどきは気持ち良さそうに鼻をひくひくと動かして、有が撫でくり回すのを甘受していた。
「よっし、そろそろ行くか」
30分ほど疲れた足を休めていた有は徐に立ち上がった。
その声に、セーターの上で瞼を閉じていたウリボーもどきがパチリと目を開け、パタパタと飛び上がった。
何度見ても不思議な光景だ。
心なしかふらふら飛んでいる姿に、まだ産まれたばかりでうまく飛べないのかもしれないと思い至る。
「なんだ?お前も付いてきてくれんのか?」
そう空中に浮かんでいるウリボーもどきに手を差し出した。
しかし、言葉が通じる訳もなく、ピーと鳴いてウリボーもどきは飛び去ってしまった。
「だよな・・・」
地面に置いていたセーターとコートを拾い上げ、パンパンと土を払う。
去ってしまったその背に切なくなりながら、有はまた一歩、一歩と足を踏み出していった。
「はっ、はっ・・・・、ふぅ」
あれから8日、有はいまだ森の出口も人も建物も見つけられないでいた。
この森で気が付いてから口にしたものは、水と偶々生き物が食べているのを見かけた梨のような果実だけ。
いい加減、有の疲労にも限界が来ていた。
ただ、この8日で得たものが1つある。
それは、ここが地球じゃないという確信だった。
初日は気が動転していて気付かなかった、いや、頭が処理しきれなかったのだろう。
ところどころに生える紫色の木。
枝からぶら下がるように生える青緑色のキノコの群れ。
宙を舞うイカのような、虫のような、何か。
近づこうとすると高速で逃げていくゴブリンのような生き物。
テレビでも図鑑でも見たことのないような光景は、嫌がおうにも有に現実を叩きつけた。
そんな異形の生き物の中には、凶暴で火を吐く獅子のような猛獣もいた。
怖くて、恐くて、ただひたすらに逃げて。
ついに足が動かなくなって倒れ込んだ先が、有が現在居座っている泉だった。
有はこの泉を見つけてから、泉を中心に円を描くように周囲を探索している。
なぜかといえば、水が確保できるという点が一つ。
そして有にとってもう一つ重要なのは、この泉にはそういった猛獣達が近づいてこないという点だった。逆にこの泉から遠く離れる決心が着かないのも、この理由に尽きる。
有は荒い息を吐きながら水面に顔を近づけると、ゴクッ、ゴクッと泉の水を勢いよく呑み始める。
「ぷはッ、はッ・・・」
少しして水面から顔を上げると、走ったことで乱れている呼吸を何とか落ち着かせようと心臓に手を当てた。ドクッ、ドクッと早く脈を打つ心臓に、まだ、生きているのだと自覚する。
有はそのまま草の上に仰向けに寝そべった。
「俺、このままここで死ぬのかな」
ははっ、と笑おうとした声は咳き込んだせいで途切れ、再び静寂が訪れる。
「どうしてこうなったんだろ・・・」
誰も答えてくれる人のいないその問は、森に吸い込まれるように消えていく。
有は現実から逃げる様に、思考の海へと沈んでいった。
(家族は、友人は、いなくなってからどうしているだろう。
また捜索願とか出ていて、いろんな人が探してくれているのかもしれない。
生徒たちはどうだろう。
ああ、塾にはものすごい迷惑をかけているな。
でも、受験後だったのが唯一の救いかもしれない。
授業の代わりは誰が担当しているだろ。
化学は講師が少ないからな・・・。
塾長がやってくれているのかもしれない。
そういえば新しく作ったテキストを部屋に置いたままだ)
記憶に残る、もはや懐かしく感じる人達の顔が、ぽつぽつと頭に浮かんでは消えていく。
(・・・ああ。会いたい、誰でもいい。
今この孤独から救ってくれるのなら、誰でも)
不意に零れ落ちそうになった涙を、瞳をきつく閉じることでなんとか耐えた。
疲れと空腹と孤独がどんどんと有を蝕んでいく。
(・・・ああ。眼が覚めたら、すべてが夢であればいいのに)
瞼を落とした有は、泉の横の草の上で泥のような眠りに就いた。
「・・・・!」
「・・・・~~~ッ!」
有の耳に誰かの声が届いた。
しかし遠くにいるのか、うまく聞き取れない。
身体を包む人の温もり。
これはきっと、夢。