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私に「君を愛することはない」と言う夫には理由がある

掲載日:2026/07/16

「俺は、君を愛することはない」


 滾るような熱情を色にしたような深い紅の瞳が、ローゼマリーへと向けられる。その眼差しは暗く空虚で、温かさも冷たさもない。例えるなら、木の(うろ)に似ていた。


 この二年間、夫のリモニスからこの言葉を繰り返し言われてきている。最初は悲しかったが、今はだいぶ受け流せるようになってきた。

 

「えぇ、全てわかってますよ。それでも私を、あなたの傍に置いてください」

「君に何一つ利益はない」

「それでも良いのです」


 二年変わらないやりとり。変わらない温度感。リモニスに、ローゼマリーに対する負の感情はなく、かといって良い感情があるわけでもなく、それでいて無関心というわけでもない。リモニスがローゼマリーに向けているものは、彼の性格や人格から生じた『責任』と『義務』だけなのだろう。


 素っ気なく背を向けたリモニスに、胸の奥が小さく軋む。二年で慣れたと思っていても、やはり愛する人から想いが返ってこないのは少し寂しい。


『ローゼマリー、俺を選んでくれてありがとう。俺の生涯を捧げて、君を大切にすると誓う』


 婚礼の日の夜、想いを伝えてくれたときのリモニスの温かく深い“青の瞳”は、今も鮮明に覚えている。磨かれた宝石のように澄んでいて、煌めいていた。



 かつてのリモニスは、確かにローゼマリーを深く愛していた……はずだった。



 全ての始まりは、いや……終わりは二年前まで遡る。貴族同士の社交を目的とした特別変わったところのない夜会に、ローゼマリーはリモニスと共に参加していた。


 夜会が始まって会場の空気も温まってきた頃、一人の令嬢が二人へと挨拶に来た。ローゼマリーより少し年下と思しき令嬢は丁寧に一礼すると、リモニスを見た。


「私、ルピーナ・スタントンと申します。今日もお会いできて嬉しいです、リモニス様」

「ルピーナ……スタントン……」


 愛らしく微笑むルピーナの名を、リモニスは丁寧になぞるように復唱した。いつもなら礼儀正しくあっさりと挨拶を返す彼が呆けたように小さく口を開き、じっと視線を結ぶように見つめ続けている。


 リモニスの瞳の深い青が炎のように揺らめいたかと思うと、塗り潰すように紅へと移ろう。やがて抑えきれないほどの熱情を宿して、小さな炎は燃え盛るように爛々とした輝きに満ちる。


「君を、守らなくては」


 え、リモニス……何を言ってるの?

 目の色まで、なんなのこれは……


「君は繊細な花のような方だ。見守っていなくては、簡単に手折られてしまう。どうか俺の傍に……」

「まぁ……そんなふうに言っていただけるなんて、恥ずかしい……」


 何、この空気。


 まるで付き合い始めたばかりの恋人同士のような、甘やかなやり取り。ローゼマリーという妻が隣にいながら、ルピーナは「困りましたわ」と言いたげな顔で頬を染め、潤んだ瞳でリモニスだけを見つめている。リモニスはリモニスで、どこか虚ろで蕩けたような甘ったるい声だ。彼が珍しく甘えてくるときですら、こんなにもふにゃふにゃはしていない。


「俺が、君を──」


 軽率にルピーナに手を伸ばしかけたリモニスの腕を、ローゼマリーはとっさに制した。男性が女性に、それも未婚の彼女に軽率に触れていいわけがない。それをリモニスも理解しているはずなのになぜ、とローゼマリーは戸惑っていた。


「リモニス、どうしたんですか?」


 リモニスに声をかけると、ハッと弾かれたように顔を上げる。その瞬間、霧散するように瞳の紅が消え、元の青へと戻っていた。


「お前、俺に何をした……!」


 いつも穏やかで優しいリモニスが、見たこともない形相でルピーナを睨みつけて声を荒らげる。響いた怒声は和やかな空気を一気に引き裂き、会場中の視線を集めていた。


「大きな声で怒らないで……リモニス様、怖い……」


 ルピーナはギュッと肩を窄めて、怯えた眼差しを向ける。するとまた、リモニスの瞳がぼんやりと紅に灯り、表情までが蕩けていく。


「申し訳なかった。俺は誰より君を守らなければならないのに」


 夜会参加者たちも、リモニスの様子のおかしさに気づいたらしい。困惑の滲むざわめきが、少しずつ広がっていく。


 国王にも認められる英雄リモニスの求婚と、ローゼマリーへの一途な思い。その馴れ初めは、国中でも有名な話だった。


 リモニスは孤児で、孤児院を訪問したローゼマリーに恋をした。それから彼は騎士を目指し、騎士になってからは戦果をあげ、その功績が認められて国王から爵位を賜った。


 全ては、伯爵令嬢であったローゼマリーに求婚するために、少しでも釣り合う人になれるようにという彼の一途な努力の結果だった。


 貴族の娘なら、政略結婚は当たり前。愛してくれる人に嫁げるなんて、これほど幸運なことはないとローゼマリーも求婚を受け入れた。彼との結婚生活は伯爵家にいた頃よりも素朴だったが、何もかもが満ち足りていて幸せだった。


『ローゼマリーがこんなふうに隣にいてくれるなんて。君が、俺のたった一つの願いを叶えてくれたんだよ』


 結婚したら当然のことでも、小さな奇跡みたいに嬉しそうにはにかんで。素朴で誠実で、温かな人柄に惹かれていって。ローゼマリーがリモニスを愛するようになるのに、さほど時間はかからなかった。


 けれどその彼が今、恋人を見るような甘い眼差しをして、目の前の令嬢にうつつを抜かしている。


「これは……魅了の呪い? すぐに彼女を捕らえなさい!」


 会場の衆人の中から鋭い声が飛ぶ。警護の騎士たちと共に現れたのは宮廷魔術師の一人だった。ルピーナはすぐに騎士に取り押さえられ、床へと押しつけられる。


「痛い! 酷い……やめて! 私は何もしてません……本当に何も……!」

「無駄な足掻きはよしなさい。呪いは目に見えないからバレないと思ったのでしょうが、さすがに宮廷魔術師の目はごまかせませんよ」


 ローゼマリーにはわからないが、宮廷魔術師の彼には何か確信があるらしい。ルピーナの主張に一切耳を傾けることなく、一蹴した。


「待ってくれ! その人を解放してくれ」

「リモニス殿、惑わされてはなりま──」

「リモニス様……! あなただけは信じてくださるのね……嬉しい……!」


 なんなの、これは……


 縋るようにルピーナの解放を嘆願するリモニス。リモニスを止め、説得しようとする宮廷魔術師。そしてその言葉を遮り、感激の声を上げるルピーナ。何が起きているのかわからない。魅了の呪い……意味はわかっても何がどうなっているのかわからず、頭の中がぐちゃぐちゃと掻き乱されていく。


 怖い。


 リモニスが、何か得体の知れないものへと塗り替えられていく。ローゼマリーの知っているリモニスは消え、知らない誰かになってしまいそうで、冷えた指先がカタカタと震えた。


「リモニス……」


 無意識に、彼の名前が口から零れ落ちる。自分でも驚くほどに、行かないで、消えないでと追い縋るような弱々しい声だった。


 その瞬間、リモニスはぎゅうっと固く目を閉じ、何度も頭を振って唸り声を上げる。


「いや、解放しなくていい! ルピーナ嬢、俺の魅了を解け!」

「リモニス殿、残念ながら魅了の呪いを解く方法は見つかっておりません。だから禁忌とされているのに……早くコイツを退席させなさい!」


 リモニスの叫びは、「魅了を解く方法はない」という宮廷魔術師の言葉によって虚しく希望を絶たれてしまった。騎士に引きずられていくルピーナは、ずっと無実を“リモニスに”訴え続ける。


 彼女の声で「リモニス」と呼ばれる度に、青い瞳の中で紅が狂ったように燃え盛って暴れる。リモニスはなんとか正気を保とうと頭を押さえ、肩で息をしていた。


「リモニス、私が傍にいます。大丈夫ですから」


 ローゼマリーはリモニスの手を両手で握りしめ、揺らぎ続ける彼の瞳を覗く。定まらず彷徨う彼の視線が、ようやく止まり木を見つけた渡り鳥のようにローゼマリーへと注がれる。彼は安堵したように微かに息を漏らし、悲しげに目を細めた。


「ローゼ、マリー……こんなものに惑わされて、情けないところ見せて……ごめん」

「謝らないで。あなたの意思でないことはもうわかってますから」

「ローゼマリー、ローゼマリー……」


 刻み付けるようにローゼマリーの名を呼びながら、リモニスはローゼマリーを抱きしめる。抱き竦めると言えるくらい強い力は、まるで溺れかけた人が水面に浮いた木材にしがみつくような必死さだ。怯えているのか、彼の体は小さく震えていた。


 落ち着かせるように背中をさすっても、苦しそうな様子は変わらない。彼は「もう、これ以上は無理だ」と荒い息混じりに小さく呟くと、抱きしめる腕が気力を失ったようにローゼマリーの体を滑り落ちる。それからすぐに立ち上がったリモニスは、一直線に給仕の一人へと近づいた。


「すまない、拝借する……!」

「はっ、はいぃっ!」


 給仕は突然自分に向かってきたリモニスに戸惑い、萎縮する。彼は奪い取るようにフォークを握るとそのまま振りかぶり、躊躇(ためら)うことなく一気に腕へと突き刺した。


「リモニス……!」


 会場中で悲鳴が上がる中、ローゼマリーは叫ぶと同時に走り出していた。フォークを刺して正気を取り戻したのか、彼の瞳で暴れる紅が消える。


「心から、君を愛してる」

 

 リモニスは苦しそうに眉間にシワを寄せながら、ローゼマリーを見て泣きそう顔で微笑んでいた。その笑みに、追いつかない。手を伸ばしても、指先はまだ遠い。


「君を愛した俺を、忘れないで……ローゼマリー……」


 自身の胸に手を当てたリモニスを、魔術の淡い光が包む。彼の瞳が緩やかに青から紅へと染まりゆく中、ローゼマリーへと向けられた微笑みが色褪せるように失われていく。やがて魔術の光が収束すると、そこには静かな木の洞のような紅の瞳と無表情のリモニスだけが残っていた。


 彼は魔術で、魅了の呪いに蝕まれる心ごと感情を封じてしまった。魅了の呪いによって乱される感情ごと、ローゼマリーへの愛情まで巻き込んで。


 全てはローゼマリーを裏切って傷つけることのないように、と。


 魅了の呪いに抗い、愛する妻のために自分の感情を捧げたリモニス。この日のことは貴族の間で、真実の愛を貫いた悲劇の純愛として、今なお語られている──




 リモニスが感情を封じてしまったあと、ルピーナを宮廷魔術師たちが調査し、魅了の呪いを使用したことが確定した。禁忌を犯した罪で処刑されてもおかしくはないが、呪いを解く方法を見つけるための手がかりとして処刑はせずに投獄されることが決まったとの報告を受けた。


 感情を封じてしまったリモニスは、魅了の呪いをかけられたことに怒りを抱かず、報告も淡々と受け入れていた。ただ「異常な状態は不都合だから、呪いを解く方法は見つけてほしい」と、それだけしか言わなかった。


『ローゼマリー、部下から聞いた店で焼菓子を買ってきたんだ。一緒に食べよう』

『今度の休暇、遠乗りしないか?』

『いつもありがとう。俺と結婚したばっかりに、慣れない家事まで手伝わせてしまって……』


 その言葉の全てが、過去のものになった。最初の一年は、欠けたものを指折り数える一年だった。穏やかな笑顔は、人形のような無表情に。柔らかな声色は、起伏のない淡白なものに。優しい気遣いや労いの言葉の大半は、「助かる」という言葉に集約された。


 リモニス……あなたはまだ、私を愛してくれているんですよね?


 幾度となく、彼の背中に向かって心の中で問いかけた。あんなにも温かかった関係も、一瞬で空虚になってしまった。冷たくはない。冷たさを向ける感情すらリモニスにはないから。ただ空っぽになってしまった寂しさの温度だけが、いつもローゼマリーの背中に貼りついていた。


 二年経つ頃には、この淡々とした生活にも慣れ始め、もうなくなったものを追いかけるのはやめようと考えるようになっていた。それは傷つくことに疲れてしまっただけなのか、彼が魅了に抗うためには仕方ないと受け入れて諦めてしまったからなのかはわからない。


 ローゼマリーは、感情を封じる前と同じようにリモニスと接するようになった。関わる機会を積極的に増やしたおかげか、無表情、無感情の中からも微細な変化を拾えるようになっていった。


『私、お菓子作りに挑戦してみたの。食べてみてもらえたら嬉しいんだけど』

『中央広場で催しがあるみたいで、今度のお休みに一緒に行ってみない?』

『おかえりなさい、リモニス。今日も遅くまで、一日お疲れさま』


 感情を封じる前と同じ反応は返ってこない。それでも一時手を止めて話を聞いてくれたり、「ありがとう」と感謝を示したりしてくれるようになった。正確に言えば感謝の気持ちはないのだろうが、誠実な人格は変わっていない。ローゼマリーが愛した部分は、今も確かに息づいている。


「君を愛することはない」


 何度も繰り返されるその言葉も、彼の誠実な人格の表れだと感じる余裕ができた。リモニスは「君に利益がない」「ここに君がいる意味は薄い」とローゼマリーにいつも言う。それは裏を返せば、利益や意味のある場所へ行った方が良いと彼なりに考えてくれているからだろう。


 確かにリモニスと離縁して実家に戻れば、自分のことだけをしていればいい。新しい縁談を結べば、その先には別の形の幸せがあるのかもしれない。けれどそんなもの、ローゼマリーは望んでいなかった。


 私はもう、一生分の愛を、あなたから受け取りました。

 これからは私が返す番……たとえ一生、届かないとしても。


 孤児だったリモニスが騎士になり、功績を築いて爵位を賜り、伯爵令嬢であったローゼマリーに求婚できるところまで登り詰めた。彼はあまり語らなかったが、そこに至るまでに途方もない努力があったことは疑いようがない。


 そして結婚後も、惜しみなく愛情を傾けてくれた。少しは気を緩めて安心してほしいのに、驕らず、慢心せず、大切にしてくれた。あの日だって、一番苦しんで傷ついて絶望したのは彼の方だったのに、最後の最後までローゼマリーを守ろうとした。


 リモニスは何も変わっていない。変わったのは感情と愛が失われたことだけ。いや、失われたわけではない。本物が胸の奥にあったからこそ、魅了の力に歪められることを拒み、自ら感情を封じたのだ。


 感情がないこと……それが最大の愛の証なのだと、ローゼマリーは信じている。



* * *



【リモニス視点】


 感情を封じてから、リモニスは主体性を失った。以前までは、ローゼマリーとあれをしたい、これを話したい、あそこへ行きたいと、やりたいことが尽きずあふれていた。感情を封じれば、当然それを起点にしていたものは全て機能停止してしまう。


 それに対して特に思うこともなかった。以前の自分の行動や態度と比較して、違いをただありのままに受け入れていた。


 幸い騎士の職務に支障は出ていない。元より命ぜられたことを命ぜられたままに、最短効率で遂行する仕事だ。部下たちはリモニスの変化に戸惑っているようではあったが、問題は起きていない。


 休日はやりたいこともなく、全て鍛錬に時間をあてている。騎士として責任を負っている以上、なすべきことはなさねばならない。そこに不足がないよう備えることは、最も有益な時間の使い方だ。


「今日も精が出ますね。冷えた紅茶とタオルを持ってきました」

「ありがとう」


 ローゼマリーが手にしているトレイには、紅茶が入っているグラスが二つ、折りたたまれたタオルが一枚乗っている。彼女は庭の隅に備えつけられたテーブルの上にトレイを置くと、椅子に腰かけた。グラスが二つあったのは、彼女もここで過ごすかららしい。


 ローゼマリーのことは、正直理解できない。なんの利益があって彼女はいまだにここに残っているのだろうか。彼女の両親でさえ、心配して実家に戻るよう手紙を寄越したというのに。


 リモニスを見て悲しそうにする顔も、こうして微笑んだ顔も、見ても何も感じなかった。かつての自分は、確かにローゼマリーを愛していた。その認識と記憶はある。ただそれを実感として思い出すことはできない。


 悲しい顔、微笑み、愛してる。それらはただ並べただけの文字列のように無味で、意味だけが辞書のように頭に残っているだけに過ぎなかった。


 それからしばらく鍛練を続けたあと、少し休憩をしようと持ってきてあったタオルへ手を伸ばす。その瞬間、代わりに取ろうとしたローゼマリーの手に自身の手が触れ、反射的に引っ込めていた。


 手の、肌の感触……


「あ……ごめんなさい。余計なこと、しましたね」


 ローゼマリーが眉尻を下げて、薄く笑う。あれは悲しいときの笑い方だと、過去の記憶が訴える。


 リモニスはほぼ無意識に、ローゼマリーの頬に触れていた。指先で撫でると、彼女の頬の柔らかな感触が過去の記憶の輪郭をなぞるように伝わってくる。


 ローゼマリー……触れたい。


 こんなふうになっても、いまだに見捨てずに傍にいてくれる人。じわりと染み出すような微かな愛おしさを塗り潰すように、ドクリと心臓が一つ、不快な感覚で体の内側に響く。


 発火するように体が熱を帯び、じっとりと冷や汗を背中にかき始めている。それはローゼマリーのせいではなく、頭の奥の方から響く、思考を蝕み体を喰い散らかしていくような嫌な声のせいだ。


 ルピーナは、投獄されて怯えて暮らしている。

 今もきっと、俺の助けを泣いて待っているはずだ。

 救わなければ……救わなければ、救わなければ救わなければ救わなければ──


 まずい、封印が解けかけてる。そう思ったときには、遅い。リモニスはうずくまりながら胸に手を当て、焦る心を抑えて魔力を集中させる。


 ローゼマリー、ごめん。

 こんなふうにしかまともでいられなくて、ごめん。


 いつもはもっと何日もかけて緩やかに心の封印が綻んでいき、その度に封印をかけ直して正気を保ってきた。ローゼマリーが冷たいリモニスに慣れ、以前のように温かく接してくるようになって、封印の綻びる速度も早くなっていった。


 感情を封じたところで、本当の意味で消し去られているわけではない。池に張った氷の下には大量の水があるように、水は刺激を受ければ流動したり波打つ。それが表面上、薄氷によって動いていないように見えるように表面化しないだけなのだ。


「リモニス、大丈夫ですか!?」

「……問題ない。少し、封印が綻んだだけだ」


 割れた薄氷を修繕するように、心を封じる術をかけ直していく。魔力がスッと体に染み渡ると、嫌な火照りもすぐに落ち着き、また元の何も感じない自分へと戻っていく。もうそのときには、先ほどまで感じていたはずの『恐怖』『焦り』『罪悪感』は、全てただの文字列へと変化していた。


「ローゼマリー、俺は君を愛することはない」


 封印をかけ直すたびに、リモニスは同じ言葉を必ずローゼマリーへと向ける。それは『自由に生きて幸せになってほしいと願うリモニス』が頭の中に残していった、「愛せない俺を捨てて、君だけは幸せになって」と突き放すための、最後の願いの読み上げであった。




 心を封じ直し、また元通りの感情のない生活に戻っていくと思っていた。しかしリモニスにとってローゼマリーは、想像できないくらい大きな存在だったようだ。


 彼女の手に触れて以来、何度かけ直しても封印が不安定になっている。普段はこれまで通り何も感情は湧かないのだが、ふとした瞬間に暴風のように感情が爆発することがある。


 それはローゼマリーのことだったり、魅了の呪いによるルピーナのことだったり、まちまちだ。もしこれがローゼマリーのことだけなら、リモニスは封印をそのまま解いていただろう。けれどルピーナのことが混ざる状態で、封印を解くわけにもいかなかった。


 最近は力と神経を使いすぎているのか、かなり疲労が溜まっているのが自分でわかる。目を閉じても、横になって休んでも、睡眠をとっても頭や体が重くて怠さが抜けない。


「ため息なんて、珍しいですね。いえ……感情を封じてから初めてじゃないですか? 何かあれば頼ってくださいね。私はリモニスの妻ですから」


 ローゼマリーの笑みが、ふっと軽やかに花開く。感情を封じ、粛々と全てをこなしてきたリモニスにとって、耳馴れない言葉だった。「リモニスの妻」「頼って」という言葉が、甘やかに響いたと思った途端、不意に感情の嵐の前の予兆が、胸の奥をざわりと撫でた。


 優しいローゼマリー。

 こんな俺を想って、まだ支えようとしてくれるなんて。

 俺は君を悲しませてばかりなのに。


 感情を封じたことで、どれだけ彼女に寂しい思いをさせてきたことか。どれだけ落胆と失望を植えつけたことか。どれだけ傷つけ、一人で耐えさせてきたことか。


 胸の内で嵐が吹き荒れて、彼女を抱きしめて慰めたい衝動に駆られている。けれど一時的な慰めなど、かえって残酷であることも理解している。


 愛し抜くことができないのなら、中途半端な期待を持たせることは不誠実の極みだ。けれど、献身的に尽くし続けてくれるローゼマリーを、もう泣かせたくない。


 そんなローゼマリーへの想いを掻き消すように、魅了の呪いまでが同時に吹き荒れ始めていた。


 ルピーナを泣かせてはいけない。

 早く迎えにいって抱きしめてやらねば。

 それが俺の使命だ。


 自分ではない自分の声がローゼマリーへと想いを喰い破り、虫喰いの穴だらけにしていく。初めて魅了の呪いを認識したときもそうだった。声はどんどん大きくなって、確かにあったはずのローゼマリーへの想いが薄れていくようで、怖くてたまらなかった。


 リモニスは胸に手を当て、再度封印を施そうとした。けれどどれだけ魔力を使っても心が楽になることはなく、感情が引いていく様子もない。このまま魅了の呪いに屈し、本当の想いも消されてしまうのか。


 助けを求めるあてもないのに、何かに縋ろうと宙を掻いた右手を、柔らかな温もりが包む。顔を上げると、何も言わずじっとリモニスを見つめるローゼマリーがいた。彼女の青白い星のような瞳の色が、暗く底のない沼でもがいているリモニスに降り注ぐ。


 それまで感じたことのない安らぎが、そよ風のように心の中へと吹き込んでくる。彼女が懸命に、共に歩んでくれた二年間の思い出と共に。


 感情を封じたことでろくな反応をしないリモニスに、ローゼマリーは悲しそうにしながらも、話しかけることをやめなかった。一度だって、離縁を受け入れようとしなかった。


『リモニスと一緒に来られて良かった。楽しいってわからないのに、私のわがままに付き合ってくれてありがとう』


 ローゼマリーは段々と笑顔を向けてくれるようになり、欠片も笑わないリモニスを連れて街を散歩したり、催しに連れていってくれることもあった。揃って食べる食事、寝台の上に用意された服、夜に持ってきてくれるハーブティー、たまに失敗するお菓子。そして、「いってらっしゃい」と見送り、「おかえりなさい」と出迎えてくれる声。


 些細な、けれどどれも星の(またた)きに似た輝きを秘めた記憶がゆっくりと暗闇に沈む心を照らし出す。一つずつ丁寧に数えるごとに忌わしい魅了の呪いの声は霞んで小さくなっていく。気づけば何も聞こえなくなり、同時に感情そのものもほんの少し遠のき、まだうっすらと封印の効果が残っている感覚だけがあった。


「少し長いお休みをいただきませんか? 騎士になって、功績を築いて、爵位まで賜って、私と結婚してずっと大切にしてくれて。働きすぎですよ」

「そうは思わない」

「思わなくても、心を休めてください。私はずっとあなたの傍にいます。魅了の呪いで苦しいときも、私が必ず手を握ります。封印も、心が落ち着いたらまた元通りできるようになるかもしれませんし、それまで私と頑張って乗り越えましょう、ね?」


 封印を、また元通りに?


「封印を、またしてもいいと思ってるってこと? 感情がなければ、君は悲しむんじゃないのか?」

「リモニスがそれで楽になれるなら、構いません。私を愛してくれたあなたを、私は忘れていませんから」


──君を愛した俺を忘れないで……ローゼマリー……


 覚えていてくれたのか、と鼓動が小さく高鳴る。想いを丁寧に乗せることは叶わなかったが、潰れそうな恐怖と焦燥の中で必死に紡いだ。あれがきっと最後になるだろうと覚悟して、思いの丈を込めて、せめて愛していた事実だけでも遺そうとしたあの言葉を。


 ローゼマリーに片思いをして、釣り合うだけのものを手に入れて、求婚して、彼女は応えてくれた。暮らしの中で少しずつ信頼されていく感覚はあった。けれど心のどこかで、強引に娶ってしまったのではないか、こんな自分で愛してもらえるのだろうか、と自信がなかった。


 愛せなくなった二年間の、ローゼマリーの姿。彼女はリモニスが思っていたよりもずっと……ずっと深く愛してくれていた。


 何が、ルピーナを救わなければ、だ。

 これほど献身的に尽くしてくれた人を悲しませてまで救わなければならないものなんて、この世にあってたまるか。

 あるとすれば、精々陛下や王家に名を連ねる方々くらいしかいないんじゃないか。


 救わなければ……魅了の呪いに与えられたその感情がなんの感情なのか、リモニスはわからないままだ。けれど、それがどうしたという話だ。ローゼマリーには、一つの憂いもなく心の底から笑っていてほしい。


 魅了の呪いに蝕まれ、恋情も愛情も喰い潰されたそこには何も残っていないのかもしれない。ルピーナへの感情があふれて、目も当てられない悲惨な自分になり下がるかもしれない。


 けれど彼女が惜しみなく与えてくれた事実が消えることはない。感謝と恩を返さなければという責任感。感情を封じても『夫である限りはその機能を十全に果たす』という責任感は残っていた。魅了の呪いは、責任を履行し続けることで潰す。


 俺が選ぶのは……誰に何を言われても、ローゼマリーただ一人だ。


「ローゼマリー、俺は一度封印をかけ直すのをやめようと思う」

「え? それだと、リモニスが苦しい思いをするのではないですか?」

「たぶん、魅了の呪いに苛まれることにはなると思う。だから……傍にいて、支えてほしい。俺が、俺のままでいられるように」

「はい……!」


 ローゼマリーは力強く頷くと、両腕を伸ばしてリモニスを抱きしめた。久しく感じていなかった、ローゼマリーの温もりにじわりとまぶたが熱を持つ。


「必ず、私がリモニスを守ります。何があっても、私を信じていてくださいね」


 こらえていた涙が、一つ、二つと零れ落ちる。リモニスはローゼマリーの華奢な体を抱きしめ返し、目を閉じた。


 胸の奥が軋んで、痛い。けれどそれは悲しみや苦しみではなく、ようやくローゼマリーと共に感情を抱えながら生き、彼女を愛せる自分に戻れる希望が見えた喜びからだった。心にかけられていた封印もまた雪解けの季節を迎えるように、彼女の体温に柔らかく溶けて薄れていった。




 休むことをローゼマリーに勧められ、リモニスは呪いの療養の名目で長期の休暇を申請した。それまでの無感情の二年を埋め合わせるようにローゼマリーの隣で過ごしながらも、封印を失った心を魅了の呪いは容赦なく苛んだ。


 また、きた……


 ざわりと胸の奥底を不快な何かが撫でていく感覚。ゾクッとする奇妙な熱感と動悸。冷や汗がじっとりと滲み、呼吸が浅くなっていく。


 目を閉じるとルピーナの姿が見える。ほとんど面識もなかったのに、鮮明に、彼女が泣いているのが見えてしまう。


「ローゼ、マリー……」


 なんとかまぶたを押し上げ、ローゼマリーの姿を必死に視線で探す。こうして魅了の呪いの症状が出たときは、いつもローゼマリーが隣にいて、溺れてしまわないよう彼女にしがみついて嵐が去るのを待った。だが今は、そのローゼマリーの姿が見えない。


『リモニス様……助けて。リモニス様、私にはあなただけですのに……!』

 

 魅了の呪いによるルピーナのすすり泣く声が聞こえ、ぐっと頭が重くなる。痛むわけでもないのに、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられていくような気持ち悪さが、リモニスの思考を揺さぶる。


「黙れよ……勝手に、喋る、な……」


 耳を塞いでも消えない声。ローゼマリーがいないと気づいた瞬間、魅了の呪いの声は隙を突くようにより強く響き始める。彼女を呼ぼうとしても、声が掠れてまともに音にならない。鋭く息を吸ってもすぐに吐かされてしまう。


 ルピーナを見捨てて、自分だけ平穏に縋るのか卑怯者。

 心を偽っているのはどちらだ?

 これほどまでにルピーナへの想いを叫んでいる現実から目を逸らすな、心のままに動け。


 心を封じ直していた名残りで、気づけば胸元に手を当てていた。心を封じようと魔力を込めそうになる手に、もう片方の手で爪を立てる。


 傍にいなくても、屋敷の中のどこかにはいる。

 一人でも耐えられる……耐えなければ……


 ふらつく足でソファへ座ろうとして、目の前で床の上へ崩れる。とても体勢を保っていられず、そのまま突っ伏すように上半身をソファの座面へと乗せた。


 自身の荒い呼吸と、頭で響く気持ち悪い声に耳が塞がれていく。かなり汗をかいているのか、床から伝わってくる冷たさがリモニスの思考を少しだけ冷やす。できるだけ声に耳を傾けないよう、床の冷たい感触だけを追いかけていく。そうでなければ、今にも衝動で王宮の地下牢へ駆け出してしまいそうだった。


『リモニス、初めて遠乗りに連れて行ってくれたときのこと覚えてますか?』


 そうだ、ローゼマリーはいつも……


 魅了の呪いの声に苦しむリモニスを、ローゼマリーはいつも抱きしめる。そうしてこれまでの思い出を子守歌のように、こんなことがありましたね、あんなことがありましたねと聞かせてくれた。


『前に一度、紅茶を淹れようとしてティーセットを割っちゃったことがあったでしょう? 感情がないはずなのに、すぐ助けに来てくれてすごく嬉しかったんですよ』


 前にローゼマリーがしてくれた話を思い出す。彼女の語る思い出は、魅了の呪いによって虫喰いの穴だらけになっていくローゼマリーへの想いを、一つずつ埋めていく。魅了の呪いによって薄れていくはずの想いは、ローゼマリーとの関わりで新たに生まれる感情が重なってより厚みを増していった。


 少しだけ、魅了の呪いの嵐が凪いできた。忌わしくて煩わしい声が、ローゼマリーとの思い出によって少しずつ埋もれていく。


「リモニス、夕食の用意が……リモニス!?」


 ローゼマリーの気配がリモニスに駆け寄り、彼女の手が背中に触れる。その瞬間、息を深く吸い、ゆっくりと吐き出すことができた。汗で貼りついたシャツなど触りたくもないだろうに、彼女は構わず背中を優しくさすってくれた。


「ロー……ゼマリー……俺を、繋いでいて……くれ。俺の、体が、勝手に……どこにも行かないように」


 まだ上手く声にならない声で呼び、震える手で彼女の袖を握りしめる。そして願いに応えるように、ローゼマリーはリモニスの手を固く握りしめた。


 そこでようやくリモニスは「もう大丈夫だ」と安心できた。ローゼマリーと一緒なら、魅了の呪いに奪い尽くされるようなことはない、と。彼女を想うことで、魅了の呪いの嵐を乗り越えられたことは、リモニスの小さな自信となった。


「落ち着いてきましたか?」

「あぁ。ありがとう」


 しばらくして落ち着いてきた頃、ローゼマリーの手を借りてソファへと座る。夕食に呼びに来てくれたのに、彼女は急かすことなくそのままリモニスの隣に腰を下ろした。


 肩を寄せて座り、どちらからともなく絡め合った指先の温度が魅了の呪いの声の残滓を甘く淡く散らしていく。抱きしめられなければ耐えられなかったのに、こうして手と手で触れ合っているだけで乗り越えられるようになっていた。


 この日を境に、日を追うごとに魅了の呪いの声が聞こえる頻度が減った。その声の嵐のような強さも次第に霞み、囁きのように小さくなっていった。


 もしいつか、魅了の呪いの声が聞こえなくなったら、ローゼマリーを抱きしめて、もう一度声にして、言葉にして伝えたい。


──ローゼマリー……俺は今も変わらず、君を愛してる。



* * *



【ローゼマリー視点】


 この二年間で何度も封印が綻び、その度に封印し直していたことをローゼマリーは知らなかった。以前と変わらず接するようになって、時折感情を封じる前のリモニスの片鱗を感じることがあった。それはもしかしたら、封印が弱まったとき漏れたリモニスの感情の破片だったのかもしれない。


 封じていても、無意識の下に沈められた感情はずっと私を見ていてくれたんですね。


 それだけでギュッと胸が熱くなった。信じていて良かった、やっぱり愛情が消えてしまったわけではなかったのだと、ローゼマリーは確信できた。


 リモニスは魅了の呪いに耐え、ローゼマリーは傍で彼を支え続けた。魅了の呪いの象徴とも呼べる紅の瞳も、日ごと緩やかに紅が薄れ、本来の青が混ざり、今は紫水晶のような深い紫色になっている。


「あれ、今日のクッキー……いつもより少し茶色っぽいね」

「う……実は、焼いている間にティーセットの整理をしていたら、うっかり夢中になってしまって……」

「はは、それは本当にうっかりだね。言ってくれたら、俺も一緒にやるのに」


 少しだけ眉尻を下げながら、ふわりとリモニスが笑う。たったそれだけのことが、ローゼマリーには尊く感じられた。それが当たり前の日常みたいに、彼の笑顔が戻ってきている。


「うん、おいしいよ。香ばしくて、歯応えがあってこれはこれで」

「無理して褒めなくてもいいのに」


 感情を封じていた頃も、失敗したお菓子を彼は文句も言わずに食べてくれた。けれど優しい慰めの言葉をかけられると、本当に以前のリモニスが帰ってきたのだと強く実感する。


 心を封じれば、魅了の呪いに感情を乱されて惑わされることはない。それはある意味、病の進行を完全に止めたというだけで治せたというわけでもない状態でもある。そして魅了の呪いに抗うための感情さえも、完全に止めてしまっていた。


 今再び感情が動き出したことで、リモニスに巣食う魅了の呪いという病の進行が始まった。けれど同時にローゼマリーという薬の効果の浸透も始まっている。


 何よりリモニス自身が、魅了の呪いに屈したくないという固い意思を持ってくれている。彼の努力が、ようやく実を結び始めていた。


 心を封じて以降、リモニスから「愛してる」と言われたことはない。けれど、焦って「愛してる」と言わない誠実なリモニスだからこそ信じられる。


 リモニスは必ず、元の澄んだ青の瞳を取り戻す。魅了の呪いが解け、迷いが全て断ち切れるとき、きっと聞かせてくれるはずだ。だから、ローゼマリーは信じて待ち続けている。いつかリモニスの心の底からの「愛してる」が聞ける日を。


「リモニス」

「ん、何?」

「私は、あなたを愛してます」


 今、このときの想いを言葉にして伝える。あの日突然「愛してる」と言える日々を奪われてしまった。だから悔いのないように、もし自分が逆に魅了の呪いにかかっても、リモニスが「自分は愛されている」と信じられるように。


 私が、リモニスを信じ続けられたように。


【あとがき】

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。


魅了の力が登場する作品は数多くあるかと思いますが、本来の想いを歪められていく中での愛情や誠実さを書きたくて、本作を執筆しました。

なので、魅了の呪いを抱えたまま想いを貫いていく夫婦の話になりました。


悲恋短編にもできる内容ですが、私自身が「いろいろあったけど、良かったね」「きっとこれからは大丈夫かな」と思ってもらえるようなハッピーエンドに意地でも着地させたくなってしまう性分なので、ラストはこのような形になっています。

楽しんでいただけましたら嬉しいです。


もし良かったなと思うところがありましたら、評価やブクマなどいただけますと、とても励みになります!


現在新作(異世界恋愛)の準備を進めており、8月中に投稿できたらいいなと思っております。

これからも執筆を続けていきますので、また別作品でもご縁がありましたらよろしくお願いいたします。

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