初めての小さな冒険
神官のエノクは家に着いて、扉を開けると、温かな匂いが流れてきた。
「おかえりなさい、エノク——」
振り返った妻のクラリスの言葉が、途中で止まる。
彼の腕の中にあるものに気づいたからだ。
「……その子、どうしたの?」
静かな声だった。
驚きはあっても、取り乱してはいない。
エノクは少しだけ視線を落とし、赤子を抱き直す。
「神殿に、現れた」
「現れた……?」
「母親はいない。気配もなかった」
短く、事実だけを告げる。
クラリスの表情が、わずかに曇った。
「……それって」
「ああ」
エノクは頷く。
「普通じゃない」
少しの沈黙。
暖炉の火が、小さくはぜる音だけが響いた。
「それで?」
クラリスは、ゆっくりと尋ねる。
「あなたは、その子をどうするつもり?」
試すような声音ではない。
ただ、確かめるように。
エノクは迷わなかった。
「……連れてきた」
それが、答えだった。
「このまま神殿に置いておけば、いずれ“調べられる”」
「最悪の場合——処分されるかもしれない」
そこまで言って、言葉を切る。
クラリスは何も言わず、ゆっくりと近づいてきた。
そして、エノクの腕の中を覗き込む。
小さな赤子。
静かな寝息。
——その瞬間。
エリスの指が、かすかに動いた。
「……あ」
クラリスの服の端を、きゅ、と掴む。
本当に、弱々しい力で。
それだけだった。
それだけなのに——
クラリスは、目を細めた。
「……この子」
そっと、エリスの手に触れる。
温かい。
不思議なくらい、安心する温もり。
「怖く、ないのか」
エノクが小さく問う。
「さっき神殿で起きた現象を見れば——普通は」
「ええ、怖いわね」
クラリスはあっさりと頷いた。
「とても」
その言葉に、エノクの表情がわずかに曇る。
だが——
「でも」
クラリスは、優しく微笑んだ。
「この子は、ただの赤ちゃんよ」
迷いのない声だった。
「理由は分からないけど、ここに来た」
「それなら——迎えてあげるべきじゃない?」
エノクは、しばらく何も言わなかった。
そして、ふっと息を吐く。
「……そうだな」
その肩から、少しだけ力が抜けた。
クラリスは、そっと手を差し出す。
「抱いてもいい?」
エノクは静かに頷き、赤子を渡す。
エリスは目を覚まさないまま、クラリスの腕に収まった。
その様子を見て、クラリスは小さく息をつく。
「この子の名前は?」
「……エリス」
「そう」
クラリスは、その名をゆっくりと繰り返す。
「エリス」
まるで確かめるように。
「今日から、あなたはこの家の子よ」
その言葉は、静かに。
けれど、確かに世界を変えた。
————月日は流れて3年後
「エリス、こっちへおいで」
柔らかな声に呼ばれ、私は顔を上げた。
陽の光が差し込む小さな家。
木の床と、少し古びた家具。
——魔界の玉座とは、あまりにも違う場所。
それでも、不思議と落ち着いた。
「転ぶわよ」
クラリスが苦笑しながら手を差し出す。
私は少しだけ迷ってから、その手を取った。
温かい。
……こんな感覚は、知らない。
最初は、戸惑いばかりだった。
食事を囲むことも。
名前を呼ばれることも。
誰かが、当たり前のように隣にいることも。
けれど——
「おはよう、エリス」
その一言を、毎日向けられるうちに。
私の中で何かが、少しずつほどけていった。
「またやったのか……」
エノクが額を押さえる。
目の前では、割れていたはずの皿が元通りになっていた。
いや、それだけではない。
その隣にあった枯れた花が、今は跡形もなく消えている。
「……エリス、これはあなたが?」
問われて、私は小さく首を振る。
「……わからない」
本当に、分からなかった。
ただ、直したいと思っただけ。
それだけで——こうなる。
クラリスは、そっと私の頭を撫でた。
「大丈夫よ」
その声は、驚くほど優しかった。
「少し不思議なだけ。エリスは、エリスでしょう?」
……責めないの?
……怖く、ないの?
聞けなかった。
代わりに、私はその手をぎゅっと掴んだ。
夜。
小さなベッドの中で、私は目を閉じる。
微かに残る記憶の断片。
玉座。
血。
そして——裏切り。
「……エリス?」
扉の向こうから、エノクの声がした。
「眠れないのか」
静かに部屋へ入ってきて、ベッドのそばに腰を下ろす。
「怖い夢でも見たか?」
私は、少しだけ迷ってから——頷いた。
「そうか」
エノクはそれ以上、何も聞かなかった。
ただ、私の頭に手を置いて。
「ここには、もう何も来ない」
「私とクラリスがいる」
それだけを、ゆっくりと告げた。
——その言葉は、不思議なくらい真っ直ぐで。
私は、初めて思った。
(……ここに、いてもいいのかもしれない)
それは、魔界の女王ではなく。
“エリス”としての、最初の願いだった。
———夜が明けて、日が変わり
エリスが暮らす街は、小さくて静かな場所だった。
石畳の道がゆるやかに続き、道の両側には素朴な家々が並んでいる。
朝になればパンの焼ける香りが漂い、昼には子どもたちの笑い声が響く。
特別なものは何もない。
けれど——それが心地よかった。
街の外れには、豊かな森が広がっている。
季節ごとに表情を変えるその森は、人々に恵みを与える場所だった。
薬草や木の実、薪となる枝。
そして、ときおり——人ならざるものも。
そんな街の中心に、ひときわ目を引く建物がある。
白い石で造られた、小さな教会。
尖塔は高くはないが、どこからでも見えるその姿は、街の象徴のようだった。
人々はそこに祈りを捧げ、日々の無事を願う。
——そして。
エリスが、この世界に現れた場所でもあった。
けれど、そんな特別な場所の近くにありながら。
エリスの暮らす家は、ごく普通のものだった。
木でできた壁と、小さな窓。
雨が降れば屋根を打つ音が響き、冬になれば暖炉の火が部屋を温める。
そこで暮らすのは、神官エノクと、その妻クラリス。
そして——エリス。
「エリス、出かけるなら日が高いうちに帰ってくるのよ」
クラリスの声が、背中にかかる。
「うん、マリンと遊びに行ってくるね」
振り返って頷くと、自然と笑みがこぼれた。
ここは、特別な場所ではない。
けれど——
今の私にとっては、何よりも大切な場所だった。
だからこのときの私は、まだ知らなかった。
この穏やかな日常が、ほんの少しのきっかけで揺らぎ始めることを。
家を出たエリスはマリンの家に行ってドアを叩いた。
「おはよう、マリン、今日は何をして遊ぼうか?」
「ねえ、エリス、一緒に森に行こうよ!」
元気いっぱいに手を振るのは、村の同い年の女の子、マリン。
マリンはエリスにとって初めて出来た友達だった。
魔界の女王だった頃は孤独で、友と呼べる者はいなかった。
それだけに、エリスにとってマリンはかけがえのない存在。
エリスはマリンの小さな手を取り、私は少し緊張しながら頷いた。
「うん、行こう」
森へ続く小道は、朝の光でキラキラしていた。
木々の間を風が通り抜け、葉がささやく。
足元には小さな花や草が揺れる。
「わあ、きれい……」
マリンが歓声を上げる。
その声に、私は少しだけ笑った。
——この感情は、魔界では感じたことがない。
「あそこ見て!」
マリンが指さした先には、小さな小川が光を反射して輝いている。
「きれい……」
私も、そっと呟く。
小川に近づくと、水が足首に触れ、ひんやりと冷たい。
「触ってみて!」
マリンに促され、私は手を水に入れる。
水の感触が、心まで柔らかくしてくれるようだった。
森の奥で、二人は小さな木の枝を拾ったり、葉っぱの模様を比べたりして遊んだ。
その間も、私は心の中で思う。
(……こんな風に、ただ誰かと一緒に笑うこともできるんだ……)
「エリス、あそこの花を見て!」
マリンの手を取り、私はそっと花に触れる。
目が合うと、二人は自然と笑いあった。
森の中に小さな笑い声が響く。
それは、私が魔界で過ごしていた孤独とは違う——
安らぎと、温もりに満ちた時間だった。
それから、二人は手を取りながら森の奥へと進んでいった。
森の奥は、思っていたよりも静かだった。
風の音も、鳥のさえずりも、少し遠い。
「……あれ?」
マリンが足を止める。
「さっきまで、もっと音がしてたよね?」
私も、同じ違和感を感じていた。
——静かすぎる。
そのとき。
ガサリ、と茂みが揺れた。
「……っ!」
飛び出してきたのは、小型のウサギにも似た魔獣ミストバニーだった。
体は小さいが、目は濁り、理性のない光を宿している。
「な、なにあれ……」
マリンの声が震える。
魔獣が低く唸り、じりじりと距離を詰めてくる。
逃げなきゃ。
頭では分かっているのに、足が動かない。
——その瞬間。
魔獣が跳びかかった。
「きゃっ!」
マリンが転ぶ。
間に合わない。
——そう思った。
体が、勝手に動いた。
「……だめ」
声にならない声が、喉から漏れる。
ただ一つ。
(守らなきゃ)
それだけを、強く願った。
次の瞬間。
光が、弾けた。
それは優しい光のはずだった。
けれど——
「……え?」
音もなく、魔獣の姿が“消えていた”。
そこには、何も残っていない。
血も、影も。
まるで最初から存在しなかったかのように。
「……エリス?」
マリンが、震える声で名前を呼ぶ。
私は、自分の手を見つめていた。
何もしていない。
ただ、守りたいと思っただけ。
それなのに——
「……今の、なに……?」
小さく呟く。
胸の奥が、ざわつく。
——知っている。
この感覚を。
「エリス……すごい……」
マリンが、ゆっくりと立ち上がる。
怖がっている様子はない。
ただ、驚いているだけで。
「助けてくれたんだよね……?」
その言葉に、私ははっとする。
「……うん」
迷いながら、頷いた。
そうだ。
守れた。
それで、いいはずなのに。
(……でも)
さっきの光は——
優しいだけのものじゃなかった。
森に、再び音が戻る。
鳥の声。
風の音。
まるで、何事もなかったかのように。
けれど——
私の中で、何かが確かに目を覚ましていた。
呆然と自分の手を見ていたとき
「また、一緒に来ようね!」
マリンが手を取りながら言ってくれた。
私も、自然と頷いた。
「うん、約束」
小さな友情の芽が、森の光とともに、私の胸に静かに根付いた。
その後、二人は家路につき、無事に帰ることができた
最後まで読んで頂きありがとうございます
初めての作品なので試行錯誤しながらの状態です
次回の更新は3月24日18時を予定しています




