第20話 辺境派遣の終わり
甘い匂いの正体。
魔誘花。
それが、ミネルヴァの荷物から出てきた。
さっきまで「魔女がいるから魔物が!」と叫んでいた神官たちの口が、ぴたりと止まる。
兵士たちの視線が、私から――ミネルヴァと眼鏡神官へと移る。
ミネルヴァの頬が引きつっている。
けれど彼女はすぐに、いつもの聖女の微笑みを貼り付けた。
そして、ゆっくりと一歩前に出る。
「……わ、わたくし、知りませんでした」
震える声。
涙を堪えるように、唇を噛む。
でも――その目は、泣いていない。
計算された、被害者の顔。
私は胸の奥が冷たくなるのを感じながら、彼女を見た。
「この方に……勧められたのです」
ミネルヴァは、私ではなく、眼鏡神官を見た。
まるで「助けを求める」ような目で。
けれど実際には、刃を突き立てる目で。
「良い匂いがして、人を安心させる効果があると……」
周囲がざわめく。
兵士たちが顔を見合わせる。
「負傷兵や神官たちの心を落ち着かせるためだと……その、香り袋として持っておくと良いと……」
一瞬、沈黙が落ちた。
眼鏡神官の顔が、みるみる白くなった。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
理解が追いつかないという顔。
「そ、そんな……ミネルヴァ様……? 私は……!」
震える声で言いかけた瞬間、ミネルヴァはすっと視線を逸らし、目を伏せた。
「わたくしも、被害者です……」
囁くような声。
泣いているふり。
でも、その唇の端だけが、わずかに上がったように見えた気がした。
(……切り捨てた)
あっさりと。
迷いもなく。
眼鏡神官は、口を開けたまま固まる。
さっきまで私を指さして演説していた男が、今はたった一言で「悪役」にされている。
周囲の空気が、次の瞬間に爆ぜた。
「安心? ふざけるな!」
兵士の一人が怒鳴り声を上げた。
顔が赤い。目が血走っている。
さっき、柵が弾けた瞬間に吹き飛ばされていた男だ。
「俺たちは魔物に食い殺されかけたんだぞ!!」
「そうだ!」
「こっちは盾で受け止めて、目の前まで魔物が襲ってきて、死ぬかと思ったんだ!」
怒号が連鎖する。
別の兵士が、唾を飛ばしながら叫ぶ。
「偽治療薬に続いて、今度は魔物誘引だと?」
「神官は俺たちを何だと思ってる!!」
ざわめきが、怒りに変わっていく。
皮膚がひりつくほどの熱。
私はその熱の中心に、眼鏡神官が追い立てられていくのを見た。
眼鏡神官が後ずさる。
足がもつれる。
杖を握る手が震えている。
「ち、違う……! 私は……私は命令されただけで……!」
その言葉は、火に油だった。
「命令?」
「誰の命令だ!」
兵士が詰め寄る。
「神殿か!?」
「神殿長か!? それとも、聖女か!?」
眼鏡神官の喉が、ひくりと動いた。
言えない。
言った瞬間、自分が終わるのを理解している顔だ。
(……私刑寸前ね)
兵士たちの手が伸びる。
眼鏡神官の胸倉を掴み、襟元を引き寄せる。
殴りかかろうと拳を握る者もいる。
眼鏡神官が、喉の奥から掠れた声を絞り出す。
「待っ……! 私は、神殿のために……!」
その瞬間。
「――おい」
低い声が、場を一刀両断した。
ヴァルト様だ。
静かな声なのに、誰も逆らえない圧がある。
兵士たちの拳が止まり、掴んだ手が硬直する。
空気が、凍りつく。
ヴァルト様は、眼鏡神官を睨みもしない。
ただ、淡々と、冷静に言い放った。
「こいつは連行する」
兵士たちが息を呑む。
「魔物誘引、戦場攪乱、治療テントへの危険誘導」
ヴァルト様は、指を折るように罪状を並べる。
「どれも軍法案件だ」
神殿の教義だの、禁忌だの。
曖昧で、恣意的で、都合のいい言葉じゃない。
明確な罪として、切り分ける言葉。
眼鏡神官の膝が崩れた。
「そ……そんな……」
床に落ちたように座り込む。
さっきまでの勢いが嘘のように、情けない声。
「私は……神殿のために……!」
その言葉を、ヴァルト様は鼻で笑った。
「神殿が戦場を弄ぶなら、軍が裁く。簡単な話だ」
冷たく言い捨てる。
そして、短く命じた。
「捕らえろ」
「はっ!」
兵士たちが動いた。
今度は私刑の拳ではなく、拘束の手として。
二人、三人と眼鏡神官を取り囲み、腕を捻り上げる。
眼鏡神官は抵抗できない。
杖が転がり、眼鏡がずれて、情けなく歪んだ顔が露わになる。
「や、やめろ……! 私は神官だぞ……! 神殿は……!」
「黙れ!」
兵士が怒鳴る。
「神官なら、俺たちを餌にするな!」
眼鏡神官は引きずられていく。
砂に膝を擦り、呻き声を漏らしながら。
その背中を見送る兵士たちの目は、怒りと、ほんの少しの虚しさで濁っていた。
私は、息をひとつ吐いた。
問題は、ミネルヴァだ。
彼女は助かった。
彼女は聖女の仮面を保ったまま、涙を拭う仕草をしている。
周囲に向けて、弱々しく言う。
「……わたくしも、怖かったのです。まさか、そのような危険な花だなんて……」
被害者の言葉。
それを完全に否定できる証拠は、まだない。
けれど――。
兵士たちの視線は、もう温かくはなかった。
「さっきまで黙ってたよな?」
誰かが小さく呟く。
その声は、槍より鋭く刺さる。
「本当に知らなかったのか?」
「聖女様の荷物に、そんなもん入ってたのに?」
「そ、それは……」
曖昧な返事になるミネルヴァ。
「……まあいい」
兵士達はミネルヴァから視線を外す。
表立って責める者はいない。
聖女を公然と疑えば、神殿との面倒が増える。
兵士たちは現実的だ。
だからこそ、余計に冷たい。
疑いは言葉にされず、目に宿る。
ミネルヴァの頬が、僅かに引きつった。
笑みを保とうとするが、目が泳ぐ。
(……削れたわね)
確実に。
眼鏡神官を切り捨て、自分は潔白のまま残った。
でも、それは「勝利」じゃない。
信頼が削れた。足元に亀裂が入った。
その亀裂は、いつか必ず広がる。
私は、まだ手の中にある魔誘花の袋を見下ろした。
甘い匂いが、しつこく鼻につく。
(……これで終わりじゃない)
眼鏡神官は、ただの末端だ。
本当にこの話を動かしているのは――神殿長カルディス。
そしてミネルヴァは、その神殿の駒でありながら、同時に自分の利益のために動く。
だから、厄介だ。
ふと視線を感じて顔を上げると、お姉様が立っていた。
血と土で汚れた場の中で、白いローブだけが眩しい。
心配そうな顔。
でも、私の目を見て、ちゃんと頷いてくれる顔。
(……大丈夫)
私は、胸の奥でそっと言った。
闇の手で、光を守る。
そのために――私は、ここにいる。
兵士たちが眼鏡神官を連行していく背中を見送りながら、私は薄く息を吸った。




