第2話 回帰し、最愛の姉に会う
――次に私が感じたのは、ふかふかとした柔らかい感触だった。
背中と頬に伝わる、馴染みのある布の感触。
(……なに、これ)
重たかったはずの身体が、嘘みたいに軽い。
瞼をゆっくりと持ち上げると、視界いっぱいに、見慣れた天蓋が広がっていた。
白いレースと淡い水色の布で飾られた、天蓋付きのベッド。
そこは、幼い頃からずっと過ごしてきた――私の、自室だった。
「…………え?」
喉から、間の抜けた声が漏れる。
頭がうまく働かない。
(処刑……された、はずよね、私)
あの刃の冷たさも、首筋に走った感覚も、鮮明に覚えている。
あれが夢や幻覚だったとは、とても思えない。
なのに、今、私は。
自分のベッドの上で、パジャマ姿で、仰向けになっている。
慌てて上体を起こすと、布団がばさりと音を立てた。
身体に痛みはない。
首筋を触ってみても、傷ひとつない。
「なんなのよ……これ……」
呟きながら、ベッドの端に足を下ろす。
死後の世界とか、天国とかなのかとも思うが、自分の部屋で普通の光景すぎる。
(じゃあ、これは……)
混乱する頭を抱え込もうとした、そのとき。
――コン、コン、と。
扉を叩く軽いノックの音が、部屋に響いた。
心臓が、嫌な意味で跳ね上がる。
このノックのリズムを、私は知っている。
何度も、何度も、聞いてきた。
そして、聞けなくなった音だ。
「レイナ?」
扉越しに聞こえた声に、思考が真っ白になった。
あまりにも懐かしい声。
あまりにも、恋しかった声。
扉の前まで行くこともできず、私はベッドの端に座り込んだまま、ただ固まっていた。
「入るわね?」
がちゃり、とドアノブが回る音。
扉が開き、光が差し込んで――。
「おはよう、レイナ。体調はどう?」
そこに立っていたのは。
もう二度と戻らないはずだった。
私の姉、エリシア・モランテスだった。
「……お、ねえ、さま……?」
掠れた声が、自分の喉から零れた。
エリシアお姉様は、少し驚いたように目を瞬かせ、それから小首を傾げる。
「どうしたの、そんな顔して。具合が悪いの?」
いつもの柔らかな淡金色の髪。
優しげに垂れた瞳。
ふんわりとした部屋着姿で、そこにいる。
そこに、生きている。
私は、理解が追いつかなかった。
現実感が、ぐらぐらと揺れる。
でも、ひとつだけはっきりしている。
目の前にいるのは、息をし、瞬きをし、私の名を呼ぶ――私の、姉だ。
「レイナ?」
心配そうに呼ばれた瞬間、張り詰めていた何かがぷつんと切れた。
思考より先に、身体が動いていた。
私はベッドから飛び降りるように立ち上がり、そのまま勢いよく姉に抱きついていた。
「――っ!」
柔らかい身体の感触。
胸元に顔を埋めると、ふわりと優しい香りがした。
涙が、勝手に溢れ出す。
腕を回して、ぎゅっと抱きしめる。
抱きしめた腕の下で感じる、確かな鼓動。
(あたたかい……鼓動してる……)
夢じゃない、と断言できるほどの現実感。
もしこれが夢だとしたら、こんなに温かくて、こんなに苦しい夢を誰が考えたのか教えてほしい。
「レイナ? どうしたの、急に……?」
戸惑ったような声が、頭の上から降ってくる。
それでも私は、離れられなかった。
「……ごめん、なさいっ」
喉の奥から、自然と謝罪の言葉が零れた。
自分でも、何に対して謝っているのか整理できていない。
けれど――。
(あのとき、神殿に行くのを止めていれば)
『大丈夫よ、レイナ。今日の夜にはちゃんと帰ってくるから』
あの日の朝の笑顔が、頭の中で鮮やかに蘇る。
あの時、もっと強く引き止めていれば。
腕を掴んででも、「行かないで」と言っていれば。
(あの処刑の日、私は何もできなかった)
姉はひとりで神殿に行き、ひとりで告発され、ひとりで処刑された。
国中から「偽聖女」と罵られながら。
歴代最高の聖女だったはずの人間が、あんな最期を迎えていいはずがないのに。
何より。
たった一人の、世界で一番大好きなお姉様を。
私は、たったひとりで死なせてしまった。
(何よりも、嫌だった)
寒くて、暗くて、冷たい処刑台の上。
少なくとも私は、姉のそばにいてあげたかった。
泣いて縋ってでも、手を伸ばしてでも。
それなのに。
私がしてあげられたのは、あとから「真相」を暴いて、復讐を誓って、暴走した末に自分も処刑されることだけ。
「ごめんなさい……ごめんなさい、お姉様……っ」
気づけば、何度も謝罪の言葉を繰り返していた。
姉の部屋着の胸元を握りしめ、子供みたいに声を上げて泣いていた。
エリシアお姉様は、最初こそ困惑していたようだが――やがて、そっと両腕を回して、私を抱きしめ返してくれた。
「レイナ……どうしちゃったの?」
優しい手が、背中をぽんぽんと撫でる。
くすぐったくて、懐かしい感触。
「ごめんなさい、ごめんなさい……一人で……一人で行かせて、ごめんなさい……っ」
「一人で……? なにか、怖い夢でも見たの?」
姉の声は、いつも通り穏やかで、どこまでも優しい。
私の言葉の意味は、おそらく半分も伝わっていないはずなのに。
それでも、否定しない。
責めもしない。
ただ、泣きじゃくる私を、子供の頃と同じように抱きしめてくれる。
エリシアお姉様が処刑されてから――私の感覚では、もう一年近くが経っていた。
久方ぶりに感じる、姉の温もりと、声と、匂いと、優しさ。
(夢でも、天国でも……なんでもいい)
たとえここが死後の世界でもいい。
どうせ私は、処刑された身だ。
でもそれよりも何よりも、今は――。
生きているお姉様の温もりに縋りついていたかった。
どれくらい泣いていたのかはわからない。
時間の感覚が、ぐちゃぐちゃになっていた。
しばらくしてようやく嗚咽が収まり、私はぐしぐしと目元を拭った。
顔を上げると、姉が心配そうに覗き込んでいた。
「……落ち着いた?」
「……うん」
声が少し掠れている。
自覚はないが、きっとひどい顔をしているだろう。
「ごめんなさい、お姉様。いきなり……泣いて抱きついたりして」
羞恥心が遅れて押し寄せてきて、思わず視線を逸らす。
こんなにみっともない姿を見せるつもりじゃ、なかったのに。
エリシアお姉様は、小さく首を横に振った。
「いいのよ。……でも、本当に大丈夫? 体調が悪いとか、どこか痛いところはない?」
何も聞かず、私の心配をしてくれる。
その優しさに、また涙が滲みそうになる。
(だめ。ここでまた泣いたら、本当に子供みたいじゃない)
私はぐっと唇を噛み、深呼吸をひとつ置いてから、無理やり笑みの形に口角を引き上げた。
「……大丈夫。身体は、なんともないわ」
「そう? ならよかったわ」
ほっとしたように微笑む姉を見ていると、胸がぎゅっと締め付けられる。
「さっきは……その……変な夢を見て。びっくりして、つい……」
「ふふ。そうだったのね」
エリシアお姉様は、くすりと柔らかく笑った。
「でも、レイナがあんなふうに甘えてきてくれたの、ずいぶん久しぶりだったから……私は、ちょっと嬉しかったわ」
「――っ!」
顔が一気に熱くなるのを感じた。
「べ、別に……! 甘えたくて甘えたわけじゃないわよ。ただ、その、びっくりしただけで……」
「そうなの?」
くす、と喉の奥で笑う音。
私がどれだけ取り繕っても、姉には全部お見通しなのだろう。
わかっていても、恥ずかしいものは恥ずかしい。
「もう、からかわないで。……子供じゃないんだから」
「ごめんなさい。レイナが可愛かったから、つい」
「かわっ――」
言葉が喉でつかえて、私はそれ以上何も言えなくなった。
視線を逸らし、頬に手を当てて熱を誤魔化す。
そんな私を見て、エリシアお姉様は、相変わらず優しい瞳で微笑んでいた。
「でも、その目……かなり腫れちゃってるわね」
「えっ」
慌てて鏡を覗き込むと、そこには見事な泣き腫らし顔の私がいた。
自分でも笑ってしまいそうになるくらい、ひどい。
「少し、じっとしていてくれる?」
正面に回り込み、両手で私の顔を包み込むように優しく触れた。
「目を閉じて」
「……うん」
言われるままに目を閉じると、瞼の上にほんのりとした温もりが降りた。
次の瞬間、淡い光の感触がじんわりと広がる。
聖女の癒しの力。
ひりひりしていた瞼の腫れが、すうっと引いていく。
先ほどまで熱を持っていたのが嘘みたいに、楽になる。
「はい、もういいわよ」
目を開けると、姉が満足そうに微笑んでいた。
「うん、治ったわ」
「……ありがとう、お姉様」
礼を言いながら――私は、そこでようやく、はっとした。
(……今の)
これは、紛れもなく聖女の癒しだ。
あの処刑のあと、決して見ることができなかったもの。
もしここが夢でも幻でもなく、本当に現実だとしたら。
(……過去に、戻ってる?)
そんな考えが、ようやく具体的な形を取り始める。
私が処刑されたのは、姉が殺されてからほぼ一年後だった。
あのときの自分は、確か十八歳。
今、自分の身体を見下ろすと、見慣れたパジャマも、成長具合も――しっくりくる。
幼すぎもしないが、処刑のときほどやつれてもいない。
確かめるべきものは、すぐそこにあった。
壁に貼られたカレンダーに記されている日付を見て、私は息を呑んだ。
私が処刑された日から、約二年前の日付。
つまり――。
姉が処刑される、ほぼ一年前。
そして、偽聖女ミネルヴァが神殿から発表される、およそ一ヶ月前の時点。
(……本当に、戻ってる?)
背筋に冷たいものが走ると同時に、身体の奥で熱い何かが燃え上がる。
「どうかした?」
不思議そうに首を傾げる姉に、私はもうひとつだけ確認した。
「ねえ、お姉様。今って……他に聖女は、出てないわよね?」
「他に?」
エリシアお姉様は少し考えるように目を細め、それから苦笑した。
「聖女は数世代に一人だから……少なくとも今代の聖女は、この国では私だけよ」
お姉様は少し気恥ずかしいと言ったような感じで答える。
自分が特別だと言うのが恥ずかしいのはお姉様らしい。
そんな謙虚なところも好き。
だが、あと一ヶ月ほどでひっくり返される未来を、私は知っている。
(ミネルヴァは偽物。……でも、神殿はそれを本物にする)
今ここにいない新たな聖女の姿が、脳裏に浮かぶ。
茶髪で、氷のような肌。青みがかった瞳。
カルディスの陰で、三日月の笑みを浮かべていた少女。
(今の時点では、まだ表舞台には出ていない。でも――)
不気味な確信があった。
あの神殿長の性格からして、もうすでに準備は整っているはずだ。
ミネルヴァは、すでにカルディスの養女として神殿で飼われている。
あとは、タイミングを見計らって、「新たな聖女」を発表し、姉を貶める布石を打つだけ。
未来と同じことが起こるなら――そうなる。
「レイナ?」
「あ、ううん。なんでもないわ」
考え込んでいた私に、姉が首を傾げる。
危ない、危ない。
ここで変に詮索するようなことを言えば、姉に余計な不安を与えてしまう。
私の中で、ひとつの事実だけははっきりしていた。
(私は、約二年前に戻ってきた。十七歳のときに)
目の前にいるお姉様は十八歳。
神殿と確執はあっても、国中から愛されている、本物の聖女。
「あ、そろそろ神殿に行かなきゃ。今日は午前中から施療院で診察の予定なの」
姉が壁時計に目をやり、立ち上がる。
さっきまで私を抱きしめていた腕が離れていくのが、少し名残惜しかった。
本当は一日中でも一緒にいたい。
でも、そんなことを言ったら、また子供みたいだ。
「じゃあ、行ってくるわね」
「……行ってらっしゃい、お姉様。ちゃんと、帰ってきてね」
「? ええ、もちろん」
エリシアお姉様は、軽く手を振って部屋を出て行った。
まだお姉様と話したいと思っていたが、それは我慢した。
残された部屋の中。
私はしばらくベッドの上に座り込み、深く息を吐いた。
「…………落ち着きなさい、レイナ」
自分に言い聞かせるように呟き、頬をぱしんと軽く叩く。
状況を整理しなければならない。
ここが、天国でも夢でもなく、現実であることはほぼ確定している。
触れるものすべてに、ちゃんとした重みと感触がある。
念のため、部屋の外にも出てみた。
廊下。階段。窓から見える庭。
屋敷の中をひととおり歩いて回る。
出会った使用人たちは皆、普通に私に頭を下げ、「おはようございます、お嬢様」と挨拶してきた。
誰も、私を処刑された魔女として扱っていない。
父も母も、まだあの日のことなど知らない顔で、食堂で朝食を取っていた。
父は書類を読み、母は貴婦人たちの噂話をしている。
(ここは、間違いなく現実。しかも――)
会話の中で出てくる日付や出来事も、壁のカレンダーと矛盾していない。
私は、あの処刑台から約二年前――偽聖女ミネルヴァが発表されるおよそ一ヶ月前の過去に戻っている。
(……なんで戻ったのかは、正直どうでもいい)
理由を考え始めれば、神だの運命だの輪廻だの、面倒な単語が頭に浮かぶ。
そんなものに構っている暇はない。
重要なのは――。
(もう一度、チャンスをもらったってことよね、これ)
廊下の窓から外を見下ろしながら、私は小さく笑った。
自嘲とも、決意ともつかない笑い。
未来と同じように放っておけば、きっと、同じことが起こる。
神殿長カルディスは、ミネルヴァを本物の聖女に仕立て上げ、姉を偽物として処刑する。
それが、この世界の既定路線だ。
だが。
(そんなの、認めるわけないでしょう)
私は、ここにいる。
処刑を経験し、復讐を誓い、闇魔法を手に入れた――未来の記憶を持ったまま。
屋敷を一周して自室に戻り、扉を閉める。
ベッドの縁に腰を下ろし、ぎゅっと拳を握りしめた。
「今度こそは、助ける……!」
小さく、けれどはっきりと声に出して誓う。
あの神殿長カルディスの、歪んだ笑み。
ミネルヴァの、三日月みたいに吊り上がった口元。
思い出すだけで、胃の中が煮え返る。
胸の奥から、黒い感情が噴き上がるのがわかった。
そのとき――足元の影が、ぼうっと揺らいだ。
「……っ」
私自身の影が、意思を持った生き物のように、床の上で蠢いている。
闇が、私の感情に呼応してざわめいているのが、はっきりとわかった。
(闇魔法……)
未来で身につけたはずの力が、ここでも確かに存在している。
手のひらを上に向け、意識を集中させる。
黒い霧のようなものが、うっすらと手の上に集まってきた。
けれど、それはすぐに形を保てなくなり、ぱちんと弾けて消える。
「……まだ、全然ダメね」
苦笑が漏れた。
未来で手探りで習得した闇魔法の感覚は確かに残っているけれど、この身体は十七歳の頃のものだ。
魔力量自体は変わらなくても、鍛錬の密度が違う。
(使えるけれど、練度は低い。……でも、ゼロじゃない)
それなら――鍛えればいい。
もう一度、一からやり直せばいい。
今度は、ただ復讐のためだけじゃない。
「姉様を守るため。……そして、復讐のために」
呟いた言葉が、部屋の中に溶けていく。
二度と、姉を失わない。
二度と、あんな寂しい最期を迎えさせない。
歴代最高の聖女が、偽聖女の茶番に踏みにじられるなんて、もう二度と許さない。
たった一人の、大好きなお姉様を――今度こそ、私が守る。
拳をぎゅっと握りしめると、足元の影が、先ほどよりも静かに、しかし確かに揺れた。
まるで、その決意に応えるように。




