第18話 魔女を断罪
数日後。
私はいつものように北門をくぐりながら、どこか胸の奥にざらついた不安を抱えていた。
今日の行き先は、前線近くの仮設治療テントだ。
……前線近くの、である。
(ほんと、急よね)
今までは、聖女たちの仕事は町の治療院の中で完結していた。
負傷兵は前線から運び込まれ、そこでお姉様とミネルヴァが癒す――それが当たり前の形だった。
なのに、今朝になって突然、「聖女御一行、前線近くの仮設治療所へ」という指示が降ってきたのだ。
「……本当に行くのね」
私がお姉様に思わずそう言った。
お姉様は笑って答える。
「ええ、前線までは行きません、と説明を受けたわ。安全圏だと」
「ええ、前線のすぐ後ろ、ですね」
私はわざと、言葉に力を込める。
「『すぐ後ろ』って時点で、あまり安全じゃないと思うんですけれど」
「で、ですよね……?」
お姉様が困ったように笑った。
その隣で、ミネルヴァは相変わらず完璧な微笑を浮かべている。
「でも、負傷兵の治療をより早く行うためには、仕方がありませんわ」
涼しい顔でそう言う。
(……あなたがそれを言うのね)
危険な目に遭いたくないのは、間違いなくミネルヴァの方だと思っていた。
だからてっきり「貴重な聖女がそんなところに行くのは……」と言って反対するかと思ったのに、何も言わない。
それどころか、最初から「わたくしも行きますわ」と、妙に素直に頷いていた。
(……何か考えてる、わよね)
お姉様は純粋に「前線の兵士を早く癒したい」という気持ちしかないのだろうが。
「おい、おしゃべりはそのくらいにしておけ」
前を歩いていたヴァルト様が、肩越しに振り返った。
「仮設治療所までは、すぐだ。今のところ魔物の気配は薄いが、油断はするなよ」
「承知しておりますわ、師匠」
「レイナも、あまり前に出ちゃだめよ?」
お姉様が心配そうにこちらを見る。
「お姉様こそ、あまり外に出ないでね。今日の主役は聖女なんだから」
「ふふ、そうかしら?」
他愛ないやりとりを続けながら歩いていると、やがて前線の地形が見えてきた。
以前来たときと同じように、土嚢と木柵でかろうじて守られた拠点があり、その一歩後ろに、白い布で作られた大きな仮設テントが幾つも並んでいる。
「こちらが、治療用のテントになります」
案内役の兵士が、汗を拭いながら振り返った。
「今は魔物討伐の方もひと段落ついておりまして……しばらくは大量に押し寄せることもない、との報告です」
(そういう「しばらくは」が、一番信用ならないのよね)
内心で毒づきながら、私はテントの入口を見上げた。
中に入れば、いつも通り――血の匂いと、薬草の匂い、包帯と呻き声。
前線が近いぶん、治療院よりもう少し荒い空気だ。
けれど、それでもお姉様の光があれば、きっと少しは穏やかになる。
「エリシア様、ミネルヴァ様。こちらで重傷者から優先的に診ていただければ」
兵士が頭を下げる。
「はい、わかりました」
お姉様が一歩前に出て微笑んだ。
「ミネルヴァ様、こちらの列をお願いできますか?」
「ええ、もちろんですわ。神の御心のままに」
ミネルヴァは、宝玉付きの杖を軽く掲げて見せる。
聖女二人がテント内に入っていくのを見届けてから、ヴァルト様がこちらを向いた。
「レイナ、お前はどうする?」
「本当なら、お姉様の近くにいたいところですが……今は外の方がよさそうですわね」
前線は落ち着いていると言われているが、魔物は気まぐれだ。
さっきまで静かだった場所が、次の瞬間には血の海になっていることだってある。
「俺と一緒に外で見張るか。多少は気楽だぞ」
「師匠の隣が気楽かどうかは、置いておきますわ」
そう言いながら、私はお姉様に軽く会釈をしてテントの外に出た。
前線の空気は、やはり重たい。
焼け焦げた土と、風に運ばれてくる血の匂いが、薄く鼻を刺す。
兵士たちも、ひとまず武器を研いだり、鎧を整えたりしているだけだ。
今は嵐の前の静けさ――もしくはただの小休止か。
私は治療テントの壁布に背を預けながら、ぼんやりと空気を吸い込んだ。
(……?)
その瞬間、鼻の奥に、妙な違和感が走った。
甘い匂い。
花のような、果実酒のような、どこか生ぬるい甘さ。
(なに、これ)
ここは前線近くだ。
咲き誇る花畑があるわけでもないし、上等な酒樽が転がっているわけでもない。
鼻先でまとわりつき、じっとりと粘るような、妙な甘さ。
(……嫌な感じ)
思わず、意識を闇に沈める。
『感覚鋭化』――五感を研ぎ澄ませる闇魔法を、こっそりと使った。
すると、その甘さの輪郭がはっきりする。
(香草……? いや、違う。もっと別の何か……しかもこれ、仮設治療テント内からする?)
思わずテントの方を振り返る。
「どうした?」
隣にいたヴァルト様が、じろりと私を見た。
「なんか……変な匂いがしますわ」
「変な、ね。どんな?」
「甘ったるいような、でも湿ったような……あまり嗅いだことのない感じです」
ヴァルト様も、少し目を細める。
「……俺には、まだそこまではわからねえな。だが、その特徴は――」
言いかけたときだった。
「魔物! 魔物の群れだ!!」
怒鳴り声が、前線の方角から響き渡った。
同時に、地面がかすかに震える。
どん、どん、どん――と、重い足音が連続する。
蹄の音、爪の音、肉の塊がぶつかり合う鈍い音。
「数が多い! 前線だけじゃ抑えきれません!」
斥候の兵士が、血相を変えて走ってくる。
「おいおい、またかよ」
ヴァルト様が、露骨に眉をひそめた。
「前の討伐で、かなり数を減らしたはずじゃねえのか」
「そ、それが……! なんか、魔物の奴ら、やけに興奮してやがるんです! 目が真っ赤で……!」
兵士の説明に、私はさっきの甘い匂いを思い出す。
(……誘導されてる?)
嫌な予感が、確信へと変わりそうだった。
「――来るぞ!」
ヴァルト様が、視線を一気に鋭くした。
丘の向こうから、黒い影がうねりを上げるように押し寄せてくる。
牙を剥き、涎を垂らし、目を血走らせた魔物たち。
狼型、猪型、人型、背に棘を生やしたもの、奇妙に膨らんだ体をしたもの――。
種も大きさも統一されていない雑多な群れが、ひとかたまりの獣のように迫ってきていた。
「テントから離れろ! 聖女様を守れ!」
兵士たちが叫ぶ。
けれど、魔物たちの進行方向はあまりにもわかりやすかった。
まっすぐに――治療テントに向かっている。
「……そう、よね」
思わず口から零れる。
ヴァルト様が短く舌打ちした。
「レイナ、テントの前から動くな。お前はここで門番だ」
「了解しました」
私はテントの正面に立ち、足元に落ちる影を踏みしめた。
兵士たちも慌てて盾を並べ、簡易の壁を作る。
魔術師たちも、前へ出て詠唱に入った。
「――《炎槍》」
ヴァルト様の低い声と共に、前線へ向けて炎の槍がいくつも飛ぶ。
先頭を走っていた狼型の何体かが、一瞬で焼き払われた。
だが、群れは止まらない。
前の個体が燃えようが、倒れようが、後ろから押し寄せる。
まるで何かに取り憑かれているように。
「くそっ、いつもより突っ込みが早え!」
「押し返されるな! 踏ん張れ!」
兵士たちの怒鳴り声が飛ぶ。
(なら、こっちはこっちでやるしかないわね)
魔物の影が、夕方の光で長く地面に伸びてくる。
「――『影縫い』」
迫ってきた猪型の魔物の四肢に、黒い糸が絡みつく。
影ごと地面に縫い付けられ、巨体が前につんのめった。
すかさず、別の影を踏み込む。
「『影槍』」
縫い付けられた影から黒い槍が伸び、腹と喉を一気に貫く。
血飛沫が土を濡らした。
横では、風魔法の刃が飛び、火球が弾けていた。
だが、それでも足りない。数が多すぎる。
「魔物の動きが……速い!」
「興奮してやがる、目がいかれてるぞ!」
兵士たちの焦りが、こちらにも伝わってくる。
魔物の体当たりを受け、木の柵がいくつか破壊された。
その隙間から、数体が突破してくる。
(やらせないわよ)
私は強く地面を踏み鳴らした。
「――『影杭』」
テントの手前に長く伸びる影が、杭のように立ち上がり、突進してくる魔物を串刺しにする。
黒い杭に身体を貫かれ、狼型が断末魔を上げて崩れ落ちる。
だが、その合間をすり抜けて駆けてくる個体もいた。
「ギャアアアアッ!」
背の高い人型の魔物が、獣のような爪を振りかざして跳びかかってくる。
狙いは――テント。
(させない)
私は、その影を踏み潰すようにして呟いた。
「『影縫い』」
魔物の影から伸びる黒い糸が、空中のその四肢をぴしりと縛り付ける。
そのまま地面に叩き落とし、連続して影槍を突き立てた。
じわじわと、魔物の数は減っている。
でも、安心するにはまだ早い。
「テントの側面! 守りが薄いぞ!」
兵士の一人が叫ぶ。
振り向くと――テント布の横面近くに、猪型の魔物が一体、回り込んでいた。
その先には――お姉様がいる。
(まずい)
私が影を向けようとした瞬間、猪型が角を下げてテント布へ突進した。
ばりッ――!
布が裂ける音。
中から、治療中の悲鳴が上がる。
「エリシア様、危ない!!」
誰かの叫びが聞こえた。
裂けた布の向こう。
傷だらけの兵士の前に立つ白いローブの背中――お姉様。
猪型が、開いた裂け目から頭をねじ込むようにして突っ込んでいく。
(――間に、合え)
思考より先に、影が動いた。
(『影縫い』『影槍』――っ!)
テントの内側から漏れていた微かな光で、僅かにできていた魔物の影。
そこに黒い糸が突き刺さり、足を地面に縫いつける。
「グガッ――!?」
猪型が一瞬動きを止めた瞬間、その影から一気に槍を伸ばす。
喉と目の奥を貫き、その勢いのまま頭を後ろへとそらさせた。
巨体が布を押し広げたまま、ずるずると後ろに倒れる。
テントの入口のすぐ前、私の足元まで。
中から、お姉様の息を呑む声が聞こえた。
「レイナ……!」
「お姉様、下がってて!」
確認する暇もなく、私は別の方向に迫る魔物たちへ影を飛ばした。
――長い時間だったようで、実際にはそれほど経っていなかったのかもしれない。
次第に、魔物の数が目に見えて減っていく。
炎に焼かれ、槍に貫かれ、風に切り刻まれた死体が地面に転がる。
「押し返せ! あと少しだ!」
「うおおおおおっ!!」
兵士たちの怒鳴り声が、いつの間にか「恐怖」から「勢い」に変わっていた。
最後の一体が、ヴァルト様の炎槍に貫かれて倒れたとき――。
周囲には、荒い息と、血の匂いだけが残った。
「……ふう」
私はようやく息を吐き、影を収めた。
テントの布はところどころ裂け、支柱も何本か傾いている。
それでも――中にいる聖女たちは、無事だ。
「レイナ!」
裂けた布の隙間から、お姉様が顔を出した。
その顔にはまだ緊張が残っているが、瞳は私を真っ直ぐ捉えている。
「さっきは……ありがとう。危ないところを……」
「当然のことをしただけよ、お姉様」
言いながら、胸の奥では冷たい怒りが渦巻いていた。
この状況。
このタイミング。
先ほど嗅いだ、妙な甘い匂い。
全部が、偶然とは思えない。
(魔物を誘い込む匂い何かのはず……)
誰かが、ここに魔物を集めた。
よりにもよって、聖女たちのいる仮設治療テントに。
「……やはり、見ましたね」
静かな声が、背後から降ってきた。
振り向くと、眼鏡の神官が立っていた。
先日の「治療薬事件」で、散々お姉様に難癖をつけようとしていた男。
その顔には、あからさまな嫌悪と、妙な高揚が混じった笑みが浮かんでいる。
「皆さんもご覧になりましたよね?」
彼は周囲の兵士や神官に向かって声を張った。
「魔物の群れの中で――おぞましい影が、魔物を串刺しにする様を!」
ざわっ、と空気が震える。
「さっきの魔法……やっぱり……」
「影から槍が伸びて……」
「闇魔法、だ……」
兵士と神官が入り混じる中で、ひそひそと囁きが交わされる。
眼鏡神官は、そのざわめきを待っていたかのように、一歩前に出た。
「ご覧になったでしょう!」
彼は、まるで説教壇に立つ神父のように、両手を広げてみせる。
「あの魔法は闇です! 神の光に背を向け、忌まわしき影に手を染めた者の力! 辺境に魔物が集まり、あれほど興奮して押し寄せてきたのは――」
ビシッ、と、私を指さした。
「――魔女がいるからです!!」
その瞬間、空気が凍りついた。
「魔女……」
「闇魔法の……」
「さっきから、ずっと……」
神官たちは露骨に顔をしかめ、兵士たちの視線も揺れ動く。
一緒に戦った兵士でさえ、複雑そうな目でこちらを見ていた。
(……やっぱり、これが狙いね)
甘い匂い。
異常な興奮状態の魔物の群れ。
わざわざ前線近くの治療テントに聖女たちを呼び出したこと。
全部まとめて、「魔女の呪い」という物語にしたいのだ。
――そう、神殿長カルディスの言う通りに。
私は、ぐっと奥歯を噛みしめた。




