第15話 ついに前線へ
朝から偽物の治療薬で一騒ぎあって――その日の午後。
簡素な宿の一階で、ぬるいスープと固めのパンを口に運びながら、私はなんとなく匙をくるくる回していた。
(偽治療薬に、偽聖女に、偽の奇跡、ね)
思えば、神殿側は「偽物」を作るのが本当に好きだ。
神なんていないのに神の名を被せ、光魔法を「聖女の奇跡」に仕立て上げ、粗悪な薬を「聖女の治療薬」と偽る。
(そのうち『偽の聖女の妹』が出てくるとかないでしょうね)
自嘲気味にそんなことを考えながら、パンの残りを口に押し込む。
昼食を終えたら、ここでお姉様とはしばらくお別れだ。
聖女は前線には出ない。
単純に、戦う能力がないからだ。
食後の茶を飲み終える頃、宿の外から呼び出しの声がかかった。
「前線へ向かう部隊は、北門前に集合だ!」
木戸の向こうで、兵士の怒鳴り声が響く。
「……行きますわね」
私は椅子から立ち上がり、コートの前を留めた。
宿の前には、もう何人もの兵士や魔術師たちが集まり始めていた。
その少し離れたところで、お姉様が立っていた。
「レイナ」
私に気づいたお姉様が、小走りに駆け寄ってきた。
「本当に、前線まで行くのね」
「ええ。精鋭魔術師の師匠の弟子として、現場のお手伝いをするの」
努めて明るく言うと、お姉様の顔に、不安の影が浮かんだ。
「でも……危ないわ。前線は、魔物もたくさん出るって聞いたし……」
「大丈夫よ。私だって、いつまでも守られてばかりではいられないもの」
軽く笑ってみせるけれど、お姉様の眉間の皺は消えない。
「だって、レイナは――最近、学園にも行っていなかったんでしょう? 魔法の訓練だって、そんなにできていないんじゃ……」
(……そう思うわよね)
お姉様は私が師匠の屋敷に行って、闇魔法を振り回していることを知らない。
私が魔法学園に顔を出していないのは、両親に謹慎を命じられているから――そう思っているはずだ。
「心配性ね、お姉様」
冗談めかして肩をすくめてみせるが、お姉様は首を振る。
「心配にもなるわ。だって、レイナが危ない目に遭うのなんて、見たくないもの」
その言葉に、胸の奥がじくりと熱くなった。
(……言えないわよね、『闇魔法、だいぶ上達しました』なんて)
今言ったら、「どうしてそんな危ないものを」と責められそうで――。
その時。
「おや、随分と名残惜しそうだな」
背後から、聞き慣れた声が降ってきた。
振り返ると、ヴァルト様が軍服姿で立っていた。
黒い外套の裾を翻し、いつも通りの気怠げな目つきでこちらを見下ろしている。
「ヴァルト様」
思わず姿勢を正すと、彼はふっと口元を緩めた。
「聖女エリシア様」
今度はお姉様に向かって、きちんと礼をする。
「こいつ――レイナは、俺の弟子ですから」
あっさりとそう言われて、お姉様が目を丸くした。
「弟子? そういえば、辺境に来る前もおっしゃっていました……」
「ええ、そうなんですよ。少し前から、才能があるから弟子にしていて」
「な、なるほど……」
確かにまだお姉様にはヴァルト様との関係をちゃんと説明していなかった。
今説明するかどうか悩んでいると、ヴァルト様がふっと笑う。
「大丈夫ですよ、聖女様」
そう言って――当然のように、私の頭に手を乗せてきた。
「何かあっても、俺が必ず守りますから」
「っ……ちょっと、やめてください」
慌ててその手を払いのける。
「いきなり女性の頭を撫でないでください、セクハラです!」
「弟子の頭を撫でたくらいでセクハラ扱いか。世知辛い世の中だな」
「それが当然のことですから」
言い返すと、周囲の兵士が小さく笑いを漏らした。
注目をされているようで少し恥ずかしい。
お姉様も少しだけ肩の力が抜けたように、ふっと微笑む。
「仲がいいんですね」
「仲がいい……んでしょうか?」
首を傾げる私の横で、ヴァルトは「さあな」と肩を竦める。
「でも、なんだか安心しました」
お姉様は、そんな私たちを見ながら言った。
「レイナが、男性とあんなふうに話しているのを見たの、初めてで……。なんだか、新鮮です」
言われてみれば、確かにそうだ。
これまで、私がまともに会話してきた男性といえば、父くらいのものだ。
貴族の子息とのお茶会なども、それなりに経験はあるけれど――あれは「社交」であって、「仲良くしている」とは違う。
ヴァルト様との会話は、どちらかといえば軽口の応酬だけれど。
(……まあ、外から見れば『仲が良さそう』に見えるのかもしれないわね)
ヴァルトは特に気にした様子もなく、いつも通りだ。
「そう、ですか」
「ええ」
お姉様はこくりと頷いた。
「レイナは、昔から人に甘えるのが上手じゃなかったから……。少しだけ、肩の力が抜けているように見えて、安心しました」
「お姉様、ヴァルト様はそういう相手じゃないからね」
「そう?」
「ええ、当然じゃない」
私は弟子とはいっても、魔法学園に行かない不良生徒で、ただの伯爵の子女。
エインズワース侯爵家長男で、精鋭魔術師のヴァルト様とは立場が違いすぎる。
お姉様はヴァルトの方へ向き直り、深々と頭を下げた。
「レイナを、よろしくお願いします」
ヴァルト様は「ええ」と言って、真剣な声で続けた。
「約束しますよ。こいつの命に関わるような真似は、させません」
その言葉に、お姉様はほっとしたように微笑んだ。
「ありがとうございます」
そして、名残惜しそうに私の手を握る。
「必ず、また顔を見せに来てね」
「ええ。前線から戻ったら、真っ先にお姉様のところに駆けつけるわ」
そう言って、手をぎゅっと握り返した。
やがて、出陣の号令が響き、前線へ向かう兵士たちが隊列を組み始める。
「行きましょうか、師匠」
「おう」
ヴァルトと並んで歩き出す。
背中に、まだお姉様の視線を感じて――ふと振り返った。
白いローブの姿が、こちらをじっと見つめている。
心配そうな、それでも誰より優しい瞳で。
(……前線に出れば、闇魔法を使うことになる)
町の外。
魔物の群れと正面からぶつかれば、隠し立てしている余裕なんてない。
そうなれば、いずれ必ず――お姉様の耳にも届く。
レイナ・モランテスは闇魔法使いだ。
忌避される魔女だ、と。
(その時、お姉様は――)
さっきのように笑ってくれるだろうか。
今まで通りに「レイナ」と呼んでくれるだろうか。
嫌われる覚悟は、もう決めたはずだ。
たとえ、世界中が私を疎んでも。
たとえ、お姉様が私を拒絶しても。
(それでも私は、影からお姉様を守る)
そう決めて、ここまで来た。
――なのに。
(……やっぱり、怖い)
胸の奥が、きゅっと軋んだ。
そのとき。
ふいに、頭にぽん、と重みが乗る。
「また、勝手に変なこと考えてるだろ」
「……師匠、勝手に人の頭を撫でないでくださいまし」
文句を言いかけると、ヴァルトはふっと笑う。
「大丈夫だ」
いつもの軽口とは違う、低く抑えた声。
「お前の姉を間近で初めて見たがな――あれほどのお人よしは、そうそういない」
彼は、遠くの治療院の方角に視線を向ける。
「ああいう人間が、自分の妹を嫌いになるかよ」
「……そう、ですわね」
さっきは、すぐに撥ね退けた手。
今度は、ほんの少しだけ、そのままにしておく。
頭を撫でる掌は、思っていたよりも穏やかだった。
「知っていますわ」
やがて、彼の優しい手を払いのける。
「お姉様は、誰よりも優しい人なんですから」
そう言うと、胸の奥の重さが少しだけ軽くなった気がした。
「そうか、ならいい」
ヴァルト様は私の横顔を見て、小さく頷いた。
彼の優しさが胸にしみた気がした。
でも、これだけは言っておこう。
「ヴァルト様」
「なんだ」
「お姉様のこと、惚れないでくださいましね」
「は?」
わかりやすく間の抜けた声が返ってきた。
「お姉様って、昔から男性に慕われることが多いんですのよ。騎士様方にも人気ですし。だから一応、忠告しておこうと思いまして」
「惚れるか、そんなもん」
即答だった。
「誰が自分の弟子の姉に手ぇ出すか。面倒くさすぎるだろうが」
「『面倒くさい』で済ませないでください」
むっとしながらも、どこかほっとしている自分がいる。
ヴァルトは、ふんと鼻を鳴らした。
「第一、あれは俺の守備範囲じゃねえ」
「守備範囲ってなんですか……」
呆れて言い返し、ふと前を向いたとき。
風の音に紛れるような、小さな呟きが、耳の端をかすめた。
「……鈍感のシスコンが」
「今、何かおっしゃいました?」
「なんでもねえよ」
ヴァルトは顔をそむけたまま、歩調を速める。
(……やっぱり、よくわからない人だわ)
そう思いながら、私はその背中を追いかけて歩き出した。
(お姉様)
心の中で、そっと呼びかける。
(どうか、少しだけ待っていて)
闇にまみれたこの手で。
必ず、あなたの道を開いてみせるから。




