第13話 陰で師匠と話す
その日の夜。
辺境の町に夜が降りると、空気の冷たさがぐっと増した。
宿屋の窓から外を覗くと、通りにはほとんど人影がない。
遠くで、兵士の見回りの足音が聞こえるだけだ。
(さて、と)
ベッドから静かに身を起こす。
持ってきたコートを羽織り、部屋の灯りを落とした。
足元の影が、ゆらりと揺れる。
(――『影渡り』)
小さく呟き、意識を闇に沈める。
自分の影と、廊下に落ちる影がつながる感覚。
身体がふっと軽くなり、影に沈む。
影の中に入り、影から影へ移動する闇魔法。
廊下の角を曲がるたびに、揺れるランプの下を一瞬だけ横切って、すぐに暗がりに溶ける。
(……本当に便利ね、これ)
回帰前は、ここまで上手く使いこなせていなかった。
今なら、よほど注意深く見ている相手でもなければ、気づかれずに移動できる自信がある。
目的の部屋の前で立ち止まり、影から静かに身体を戻す。
ノックを一度、二度。
「入れ」
すぐに返ってきた低い声に、扉を開けた。
「こんばんは、師匠」
「……本当に来たのか、お前は」
ヴァルトは椅子に腰かけたまま、少し呆れたように眉を上げた。
簡素な宿の一室。
彼は軍服の上着を椅子の背にかけ、シャツの袖をまくっていた。
「呼びましたのは、そちらでしょう?」
「『夜に来い』と言った覚えはないんだが」
「『あとでゆっくり話してやる』とは言いましたわね」
「……細かい言葉尻を拾う奴だ」
口ではそう言いながらも、追い返す素振りはない。
私は扉を閉め、部屋の中に足を踏み入れた。
「で? さっきの話の続き、ですわよね」
「ああ」
ヴァルトは机の上の紙を一枚ひっくり返し、指でとん、と叩く。
「この世界には、四大魔法がある」
「火、水、風、土――ですわね」
「そうだ。どこの教本にも、そう書いてある」
属性ごとの得意分野を並べた説明は、魔法学園の初等課程でも死ぬほど聞かされる内容だ。
「で――それ以外は『存在しない』ことになっている」
「闇は、禁忌と呼ばれてますわね」
「そう。『本来、この世界にあってはならない力』とかなんとか、立派な理屈をつけられてな」
ヴァルトの口元が皮肉げに歪む。
「だが実際には、お前がこうして使っている」
「ええ、そうですね。ヴァルト様も多少は使えていますし」
闇を使う者への忌避は、身を以て知っている。
神殿に逆らい、魔女として断罪された時間軸もある。
だからこそ、闇魔法が存在しているのは、誰よりもよく知っている。
「で、禁忌だのなんだのと言われているが」
ヴァルトは椅子の背にもたれ、天井を見上げた。
「面白いことに、闇を『禁止する法律』は、どこにもない」
「そういえば、そうですわね」
「なのに、禁忌扱いだ。学ぶなと暗に言われているようなものだな」
おかしな話だ。
法で縛れないから、空気と教義で縛っている――そんな印象すらある。
「そこから先は、推測だが」
ヴァルトが指を組む。
「俺は、おそらく『闇だけじゃない』と考えている」
「闇だけじゃ、ない?」
「光が、あるはずだ」
その一言に、心臓がどくん、と跳ねた。
「……光魔法、ですの?」
「四大属性のどれにも当てはまらない、純粋な治癒と浄化の系統」
ヴァルトの視線が、窓の外――遠くの治療院の方角へ滑る。
「聖女エリシアが使う、あの癒しだ」
「――っ」
喉がひゅっと鳴った。
言葉にされる前から、どこかでそう思っていたのかもしれない。
「聖女の癒しは、神から授かった特別な力――神殿はそう言う」
「でも、神なんていない」
「ああ、そうだ」
あっさりと言い切られて、変な笑いが込み上げる。
「もし本当に神がいて、気まぐれに力を与えているだけなら」
ヴァルトは淡々と続けた。
「何十年も神に仕えて祈り続けてきた高位神官に、一人くらい同じ力が宿っても良さそうなものだ」
「確かに」
「でも現実には、そうじゃない。エリシア様は聖女に選ばれる前、神の存在なんてろくに知らなかったんだろう?」
そこで、ふと胸の奥がざわついた。
(……あ)
遠い記憶が、つん、と疼いた。
――回帰前。
まだ、神殿に対してそこまで深い疑念を抱いていなかった頃。
夜更けの屋敷の庭。
月明かりの下で、お姉様と二人、ベンチに座って話したことがある。
『ねえ、レイナ』
『なんですの、お姉様』
『よく、「神の御心のままに」って言うでしょう?』
『言うわね。神殿、そういうの好きですし』
『あれね、本当はあまり実感がないの』
お姉様は、少し困ったように笑っていた。
『癒しの力を使うとき、形の上では「神よ、癒しの力を」とか言うんだけど……別に、言わなくても力は出るの』
『じゃあ、なんで言ってるの?』
『神殿に「言いなさい」って言われるから』
『……身も蓋もないわね、お姉様』
『だって本当なんだもの。私ね、神様の存在を感じたことは、一度もないの』
あの人らしい、率直な言葉。
『誰かを助けたいなって思う気持ちに、ただ力が乗るだけ。だから、私の中では「神様が助けてくれている」という感覚は、あまりなくて……』
『それ、神殿にバレたら怒られるわ』
『だから、レイナ以外には言ってないもの』
そう言って、少しだけ悪戯っぽく笑った。
今、その秘密を、別の時間軸で、私だけが覚えている。
「……お姉様は」
私はゆっくりと口を開いた。
「あの癒しの力を使う時に、『神様の存在なんて感じたことがない』って言ってましたわ」
師匠には言っていいだろう、ここまで真実に近づいているのだから。
「ふむ」
「口上としては『神の御心のままに』とか言うけれど、別に言わなくても問題はないって。ただ神殿が『言え』ってうるさいから、一応言っているだけだ、と」
「ははっ、やっぱりな」
ヴァルト様は、ほとんど間髪いれずにそう言った。
「聖女の力は、神からの贈り物なんかじゃない。ただの才能だ」
「光魔法の、才能」
「ああ。闇と同じく、『四大属性の外側』にある系統の一つだろう」
彼の声は淡々としているのに、そこには妙な熱があった。
「神殿は、その光魔法を『神の奇跡』に仕立て上げた」
「……聖女っていう、偶像を作り上げて」
「そうだ」
ヴァルトは、机の上の紙束をひっくり返す。
そこには、ぎっしりと書き込まれたメモと、古い文書の写しがあった。
「王都の古文書庫や、エインズワース家の蔵をひっくり返した結果だがな」
「ひっくり返したんですのね……」
「数百年前までは、聖女という言葉自体が、ほとんど出てこない」
「ほとんど?」
「ごくまれに、『光の癒し手』とか『光を纏う巫女』とか、似たような表現は出てくる。だが、そのどれもが『神殿直属』じゃない」
「じゃあ、どこから?」
「貴族家だったり、地方の小さな神殿だったりだな」
ヴァルトは指で一つずつ、紙面のいくつかの箇所を示した。
「そして、ある時期から、急に『神殿』『聖女』『神の奇跡』という言葉が増える」
「ある時期?」
「今から三、四百年前だ」
それは、王都の大聖堂が拡張された頃と一致する。
「その頃から、光に関する記述が、全部『神殿』『神』『聖女』に紐づけられるようになる」
「……つまり」
「神殿が、『神』と『聖女』をまとめてでっち上げた」
事もなげに言われて、背筋に冷たいものが走った。
光魔法を「神の奇跡」に変え。
闇魔法を「禁忌」に追いやる。
自分たちだけが「正当な光の管理者」だと宣言するために。
「光魔法という概念そのものを廃れさせ、聖女という偶像に置き換えた」
ヴァルトの声は、静かに、冷たい。
「神殿にとって、都合がいい構図だ。聖女を擁立し、神の名のもとに奇跡を演出し、信仰を集める。寄進も集まる。政治にも口を出せる」
「……商売上手ですわね、ほんと」
「そういうことだ」
吐き捨てるような声音だった。
「おそらく、この実態を知っているのは、ごく一部だ」
「神殿の内部でも、ですの?」
「大半の神官は、本気で神を信じているだろう。上から与えられた教義を疑いもせずに」
辺境の治療院でお姉様を叱った、あの神官の顔が脳裏に浮かぶ。
あいつは――信じている方なのか、それとも。
「知っているとすれば」
ヴァルトの目が細められる。
「神殿長と、その側近くらいだろうな」
「カルディス、ですわね」
あの男なら、いかにも知っていそうだ。
むしろ、知らずにあの位置にいる方が不自然だ。
「光と闇の両方を『管理』できる場所に、自分を置いておきたいタイプだ」
「わかりますわ、それ」
あの底冷えのする笑顔を思い出し、思わず眉をひそめる。
「……でも」
言いながら、ふと胸の奥が少しだけざわついた。
「もしそれが全部本当なら」
「本当だろうな」
「お姉様は、神殿にいいように利用されているだけ、ってことになりますわね」
わかっていたことだ。
前の時間軸でも、今の時間軸でも、散々思い知らされている。
けれど、「神様はいない」「光魔法の才能だけ」と、ここまで明確な形で突きつけられると――。
「……まあ、そうなるな」
ヴァルトは肩を竦めた。
「だが、エリシア自身は関係ない」
「関係なくは、ありませんわ」
「本人は『誰かを助けたい』だけだろう?」
「それは、そうですわね」
お姉様は、自分がどう扱われているかなんて、きっと深く考えていない。
それでも、目の前の人を助けることに全力を尽くす。
だからこそ、神殿に利用しやすい「聖女」になっているわけだけれど。
「はぁ……なんだか疲れて眠くなってきましたわ」
「情報量が多すぎたか?」
「ええ、色々と詰め込まれましたから」
大きく伸びをすると、肩がこき、と鳴った。
「そろそろ戻りますわ」
「そうしろ」
ヴァルトは軽く頷く。
「この時間帯にうろついてると、変に勘ぐられるぞ」
「大丈夫ですわ。影になって移動してきましたもの」
「それはそれで問題発言なんだが」
呆れたような声に、思わずくすりと笑う。
「じゃあ、おやすみなさい、師匠」
「おう。他の男の部屋に間違えて入らないようにな」
揶揄われるようにそう言われて、クスッと笑う。
「ふふっ、入るわけないでしょう?」
「そうか?」
「ええ」
胸を張って即答する。
「ヴァルト様以外の部屋には入りませんから」
「――っ」
目に見えて固まった。
「では、失礼しますわ」
きょとんとしている師匠を置いて、扉を開ける。
廊下の影に沈み、再び自分の部屋へと戻っていった。
その背後で。
「……くそ、心臓に悪いこと言いやがる」
そうぼやいているヴァルトの姿があったことを、その時の私はまだ知らない。
――翌朝。
宿の窓から差し込む光で目を覚まし、身支度を整えて外に出ると――。
「どうなってるんだ!」
「落ち着け、詳しいことを――」
「聖女様はどこだ!」
広場の方から、ただならぬ騒ぎの声が聞こえてきた。
(……嫌な予感しかしないんだけど)
足早に宿の前を抜けると、すぐに兵士たちのざわめきが耳に飛び込んできた。
数人が集まり、何かを口々に叫んでいる。
その輪の中に、見知った顔があった。
「落ち着いてください。いったい何があったのですか?」
あの神官だ。
昨日、お姉様を叱りつけていた、眼鏡の男。
彼は困惑している様子だが、どこか冷静に事の運びを見ているような雰囲気だ。
こうなることを予測していたかのように。
(……やっぱり、何か仕掛けてきたわね)
胸の奥で、冷たいものがすっと立ち上がる。
同時に、血が熱くなるのを感じた。
(絶対に――お姉様は、守る)
私は人垣の隙間をするりと抜け、騒ぎの中心へと足を踏み入れた。




