第10話 神殿の裏側
その頃――神殿本部の奥深く。
外からの光がほとんど差し込まない石造りの一室で、ミネルヴァは椅子に腰掛けたまま、じっと杖を睨みつけていた。
「……どうして、なの」
低く漏れた声には、先ほどまで見せていた柔らかな聖女の面影はない。
水色の宝玉がはめ込まれた銀の杖。
彼女の命綱とも言える魔道具は、今、神殿付きの術師たちによって念入りに調べられている。
「魔力の流れに異常は見られません。宝玉の共鳴率も問題ありませんし、増幅陣も正常です」
中年の術師が冷汗を拭いながら報告する。
ミネルヴァは苛立たしげに眉をひそめた。
「じゃあ、なんで上手くいかなかったの? 今日の施療は、もっと……」
もっと、「奇跡」と呼ばれるはずだった。
もっと、人々が自分に目を向けるはずだった。
「新聖女様のお力はすごいって、そちらのほうがすごいって、みんなが……!」
だが現実はどうだったか。
患者たちの表情は曖昧で、「楽になった気がする」と言う者ばかり。
列は途中からエリシアのほうへ流れ、終わってみれば人々の視線はほとんど「本物の聖女」に向けられていた。
(こんなはずじゃ、なかった)
ミネルヴァは神殿に、神殿長のカルディスに拾われた。
「癒しの素質がある」と言われ、救い上げられた。
カルディスに導かれ、聖女としての振る舞いを徹底的に教え込まれてきた。
笑い方も、祈りの言葉も、人前での振る舞いも――。
その全てが、「人々に愛される聖女の姿」として練り上げられている。
なのに。
「杖のせいじゃないって言うの?」
ミネルヴァが術師を睨みつける。
術師は肩を震わせながらも、首を横に振った。
「少なくとも、装置側の不具合は見当たりません。むしろ――」
「むしろ?」
「本日の施療では、外部から何らかの干渉を受けた痕跡が……かすかに、ですが」
ミネルヴァの目が細められる。
「干渉? 誰がそんなことを?」
「い、いえ、それが……非常に微細でして。属性の判別も難しく……」
術師が言い淀む。
その隣では、別の術師がもう一つの品――銀鎖のブレスレットを手袋越しに持ち上げ、同じように調べていた。
「そちらは?」
カルディスの視線が、そちらへ滑る。
術師はぴくりと肩を震わせた。
「こちらのブレスレットも……構造としては、癒し属性に対する減衰陣が組み込まれているはずなのですが」
「はず、とは?」
「陣そのものは刻まれているのですが、現在は完全に沈黙しています。魔力を通そうとしても、まるでどこかで吸い込まれてしまうような……。本来なら、周囲の癒しの力をわずかに鈍らせる働きがあるはずですが、今日の終盤では、一切機能していなかったと考えられます」
「どういうこと?」
ミネルヴァが苛立ちを隠さずに声を上げる。
それは、施療の前にカルディスがエリシアへと渡した「神聖なるもの」――あのブレスレットだ。
「じゃあ、あれも役に立たなかったってこと? エリシア様の力を少し抑えるはずだったんでしょう? なのに――」
「少なくとも、設計上はそうでした」
術師は必死に弁解するように続ける。
「ですが、こちらも杖と同じく、途中から外側から何かで覆われたような反応がありまして……。陣自体はあるのに、外に向かって働こうとしない……奇妙な状態です」
「奇妙な状態、ですって……?」
ミネルヴァの眉が、さらに険しくなる。
「そんな曖昧なことが許されると――!」
ミネルヴァが激昂しかけた時――。
「そこまでで構いません」
柔らかな声でカルディスが止めた。
「っ、カルディス様……」
いつもの温和な笑みを浮かべてはいるが、その瞳の奥には冷たい光が宿っていた。
「魔道具そのものに問題はない――それだけわかれば十分です。ご苦労でした」
術師たちは慌てて頭を下げ、杖とブレスレットを慎重に布で包む。
そのまま、ぞろぞろと部屋を辞した。
重い扉が閉まる音が響いたあと、室内にはカルディスとミネルヴァの二人だけが残る。
「……納得いきません」
沈黙を破ったのは、ミネルヴァだった。
「せっかくの見せ場だったのに。『新聖女の奇跡』を人々に印象づける絶好の機会だったのに……!」
机の上に置かれていた新聞を掴み取る。
そこには、先日大々的に打ち出された見出し――『新聖女ミネルヴァ現る』の文字が躍っている。
「この記事の続きに、『驚くべき奇跡が起きた』って書かれるはずだったんでしょう? なのに、今日の結果じゃ……!」
記事になるのは、きっとこうだ。
「多くの患者が癒された」「今代の聖女の力は健在だ」と――主役は現聖女のエリシアだ。
新聖女のミネルヴァではなく。
「落ち着きなさい、ミネルヴァ」
カルディスが穏やかに声をかける。
その声音には、幼い子をなだめるような柔らかさがあった。
「今日は、少しばかり計算が狂っただけです」
「少し、ですって?」
ミネルヴァが噛みつくように彼を見る。
カルディスは揺るがなかった。
「人々の印象は、一度で決まるものではありません。何度も、何度も、同じ光景を見せるうちに、当たり前が書き換わっていくのです」
それが、神殿がこれまで長い時間をかけて培ってきた「信仰」の作り方だ。
「エリシア様は今代の聖女として十分な実績を積んでおられる。その信用を、すぐに上書きできるとは、私も思っていません」
だからこそ、時間をかけて削る。
少しずつ、「古い聖女」と「新しい聖女」の位置を入れ替えていく。
「ですが今日のは、あまりにも……!」
ミネルヴァは唇を噛む。
「私の列から、人がエリシア様の方へ移っていくのを、見ていましたか? あれでは、まるで……」
「『本物』と『偽物』を比べているようだった――そう感じたのでしょう?」
カルディスの言葉に、ミネルヴァは一瞬言葉を失った。
「……ええ」
ようやく絞り出した声は、震えていた。
「私は、貴方に拾われた。貴方が『素質がある』と言ってくれたから、ここまで来た。その私が、あの女の影に埋もれるのを、黙って見ていろと?」
「いいえ」
カルディスは首を横に振る。
「だからこそ、焦ってはいけません」
カルディスの視線が、先ほど術師たちが持ち去った杖とブレスレットのあった場所へと一瞬だけ向く。
「今日、明らかになったことが一つあります」
「……何が?」
「我々の用意した補助が、途中で無効化された可能性が高い、ということです」
ミネルヴァの表情が歪む。
「杖だけじゃなく、ブレスレットまで……?」
「ええ。どちらも同じような覆いを被せられていたらしい。属性の判別は難しいと言っていましたが……」
カルディスは内心で結論づけていた。
(おそらく、普通の魔法ではない。何かしら特別な魔法……)
「誰がそんなことを?」
「それはまだわかりません」
だが、とカルディスは心の中で続ける。
(あの場に、もう一人、異質な存在がいたことは確かだ)
聖女エリシアの妹、レイナ・モランテス。
あの少女が、施療の間中、エリシアのそばから離れず、時折ミネルヴァとその杖を観察するような目を向けていたことを、カルディスは見逃していない。
(ただの付き添いではない、はず)
あの目は、自分と同じ種類の人間のものだ。
駒を見定め、盤面を見渡し、どこに手を入れれば最も効率よく崩れるかを考える視線。
(そして、ブレスレットは確かに一度あの少女の手に渡った)
エリシアの手首から外されても、効果は続くようにしていた。
それなのに、彼女が持ってからは効果がなくなったように見えた。
(……面白い)
表情には出さないまま、カルディスは薄く笑った。
「ミネルヴァ」
改めて彼女の名を呼ぶ。
「今日は、我々にとっても学びの日でした」
「学び……?」
「エリシア様とあなたが、同じ場に立ったとき、人々がどう反応するのか。それがはっきりと見えた」
エリシアは、光だ。
それは否定しようがない事実。
ならば――。
「次は、光に影を落とす手を考えましょう」
カルディスの声は穏やかだったが、その内容は冷酷だった。
「エリシア様の完璧さを、少しだけ疑わせるような出来事を用意するのです。人は、一度疑念を抱くと、その後は何を見ても疑念を持ちやすくなりますから」
「……たとえば?」
「そうですね」
カルディスは顎に手を当て、ゆっくりと思案するふりをした。
実際には、すでにいくつかの案が頭の中で形になりかけている。
「王都ではなく、地方での大規模な施療などはいかがでしょう。移動の途中で何かが起きても、不思議ではないでしょう?」
ミネルヴァの瞳が、わずかに輝きを取り戻す。
「何か、ね……」
「もちろん、あなたには被害が及ばないよう、万全の準備を整えます」
エリシアだけが責められ、ミネルヴァは「必死に支えようとした健気な新聖女」として評価されるような構図。
それを形にできればいい。
ミネルヴァは、しばし黙った後、小さく頷いた。
「……わかりました」
まだ完全には不満が消えたわけではない。
だが、自分の不出来ではなく「外部の干渉」と「状況の問題」だと言われたことで、少しは気持ちが収まったらしい。
「次こそは、証明してみせます。私が、本当に選ばれた聖女だって」
その青い瞳には、嫉妬と執着が混ざり合った光が宿っていた。
「期待していますよ、ミネルヴァ」
カルディスは、変わらぬ柔らかな笑みを浮かべる。
(さあ――次は、こちらの番だ)
神殿の奥深くで、静かに企みが形を取り始めていた。




