第1話 復讐を誓う
私の姉、エリシア・モランテスは、美しい聖女だった。
透き通るような淡金色の髪は、陽の光を浴びて柔らかく波打って。
優しげに垂れた瞳は、慈愛そのもののように世界を映していた。
アルディナ王国において、「神に選ばれし聖女」は数世代に一人しか現れない、と言われている。
奇跡をもたらす存在。国の象徴。神殿の頂点。
エリシアお姉様は、その栄誉ある座に座るはずの人間で――現に、アルディナ王国の聖女として神殿に認められていた。
けれど、私がお姉様を好きだった理由は、そんな肩書きとはまるで関係がない。
聖女だから、じゃない。
ただ、私のお姉様だから。家族だから。
それだけの理由で、私は姉が大好きだった。
子供の頃から、ずっと一緒だった。
「レイナ、こっちこっち。お花が咲いてるわ」
屋敷の庭で泥だらけになって転んだ私を、姉が「大丈夫?」と笑いながら手を引き起こしてくれたことを覚えている。
私は膝を擦りむいて痛くて泣きそうになっていたのに、姉の声を聞くだけで、その痛みが半分くらいになった気がした。
「っ……いたい」
「もう、また転んだのね。じっとしてて?」
姉が小さく息を吸い込み、私の膝にそっと手をかざす。
淡い光が灯る。ほんの、小さな灯火。
あの頃はまだ、聖女の奇跡ほどはっきりした力ではなかったけれど、それでも傷はみるみるうちにふさがっていって――。
「ほら、痛くないでしょう?」
微笑む姉は、とても可愛くて、綺麗で、優しかった。
私は何度も何度も、そんな姉に助けられてきた。
(私は昔から、お姉様ばかり見ていた)
私にとって世界で一番輝いているのは、姉だった。
伯爵家モランテス家の長女として生まれた姉は、十六歳のときに聖女として覚醒した。
そして神殿に正式に認められ、アルディナ王国の聖女として働くことになった。
神の名のもとに、人々を癒す力。
怪我や病気を治す奇跡。
もちろん、王都には昔から医師などはいたけれど――姉の力は、そのどれとも違っていた。
「ありがとうございます、聖女様! 本当に、本当に……!」
ある日、私は姉の後ろについて、王都の施療院へ行ったことがある。
姉が神殿から送り込まれている場所のひとつ。
そこには、貧しい服をまとった人々が列をなしていた。
痩せこけた子供、顔色の悪い母親、粗末な杖をついた老人。
皆が皆、もじもじと視線を伏せながら、それでも姉の方へ手を伸ばす。
「順番に診るから、大丈夫よ」
白いローブに身を包んだ姉は、列に圧されることなく穏やかに微笑んだ。
ゆるやかな淡金色の髪が揺れ、光を受けて柔らかく輝く。
その姿に、周囲の空気がふっと和らぐのがわかる。
泣きそうな顔の子供の傷口に、姉が手をかざす。
暖かな光が生まれ、じゅわり、と染み込むように肌へと溶けていく。
目に見えて血が止まり、腫れが引いていく。
「……痛く、ない」
「よかったわね」
「ああ、ありがとうございます、聖女様……!」
母親が肩を震わせて泣き、姉の手を取って何度も頭を下げる。
けれど――。
「料金は……。わ、我々には大した金は……」
「お金のことはいいの。今は、身体を治すことが先でしょう?」
姉はそう言って笑った。
貧しい服の者たちに対しても、姉は金を受け取らなかった。
どうしてもと言って差し出された小銭や野菜、パンのかけらを、姉は「ありがとう」と言って受け取りながら――決して、治療の前提条件にはしなかった。
「聖女様は、本当に女神様のようなお方だ……」
「前の聖女様は、こんなところには滅多にいらっしゃらなかったのに」
そんな声が、自然と周囲から漏れる。
私の胸の内は、誇らしさでいっぱいだった。
(そうよ。お姉様こそ、本物の聖女なの)
歴代の聖女は、平民にとっては遠い存在だったらしい。
怪我や病気を癒やすことはしても、その対価として高額な金を取るのは当たり前で――それ自体が普通であり、当然だったのだと、私は後から知った。
でも、姉は違った。
貧民だから。平民だから。
そんな理由で誰かを切り捨てることを、姉はしなかった。
だからこそ、姉は愛されていた。
平民からも、貴族からも、兵士からも。
歴代の聖女の中で、人気は断トツだっただろう。
――少なくとも、外側から見える限りは。
「まったく……あの方は、聖なる力の意味をわかっておられない」
「聖女の力は、神殿と王家のためにある。平民ごときに無償で与えては、神の威光が薄れるというものだ」
施療院の奥、神殿から派遣された神官たちが、ひそひそと話していたのを覚えている。
彼らは私に気づいていなかった。
私は柱の影に身を隠し、その会話を聞いていた。
「それに、神殿の収入も減っていると聞く。寄進も『聖女様が治してくださったから』と、施療院に直接持っていく者が増えたそうだ」
「困ったものだ。あのお方のおかげで、神殿の権威に傷がつく」
口ぶりはあくまで敬語で、「あのお方」と呼んでいても、その実、姉を疎ましく思っているのが手に取るようにわかった。
(……何様のつもりよ、あんたたちは)
そのとき既に、私は神殿というものを心の底から信じてはいなかった。
聖女という肩書きがあってもなくても、姉は姉だ。
そんなお姉様を、数字や権威のために値踏みするような連中を、私は好きになれない。
とはいえ、そのときはまだ――これがどれほど致命的な亀裂になるのかまでは、考えていなかった。
姉が聖女になって、しばらく経った頃。
王都に、ある知らせが走った。
「新たな聖女の出現、ですって……?」
「ええ。神殿が正式に発表したそうですわ。数世代に一人の存在が、二人――ですって」
母が、半ば呆れたような声でそう言ったのを覚えている。
貴族たちが一斉にざわめき、噂は瞬く間に広がった。
神に選ばれし聖女が、二人。
常識的に考えれば矛盾だ。
けれど、神殿はそれを「神意」で片づけた。
王国は少し混乱しつつも、最終的には受け入れた。
多くの人が「聖女が二人いれば、それだけ多くの人を癒せるのだから、喜ばしいことだ」と口にした。
私も、最初はそう思った。
(姉様がひとりで抱え込んでいた負担が、少しでも軽くなるなら……)
ただ、それだけだった。
ところが――そこから、おかしくなったのだ。
しばらくして、王都に妙な噂が流れ始めた。
『エリシア・モランテスは、本物の聖女ではないのではないか』
最初は、誰かが酔った席で言った戯言だと思った。
どこでどう繋がったのか、誰が言い出したのかもわからない。
けれど、その噂は、まるで水を吸った布のようにじわじわと広がっていった。
『二人も聖女がいるなんて、おかしいでしょう? 本当に神に選ばれたのは、新しい方なのかも』
『最初の聖女様の奇跡も、神殿がそう言っているだけかもしれませんし』
貴族たちの中で、そんな会話が交わされる。
街角の酒場でも、商人たちが声を潜めて囁く。
人の噂というものは、本当に、ろくでもない速度で広がるものだ。
「レイナ、そんな顔をしないで」
お姉様は噂を聞いても、ぶれなかった。
「私のことをどう思うかなんて、人それぞれよ。噂は、風みたいなものだわ」
「……でも――」
「大丈夫。私は、私の目の前にいる人たちを癒やす。それだけだから」
そう言って笑うお姉様は、いつもの姉で。
けれど、ほんの少しだけ――瞳の奥に、影が差したように見えたのは、気のせいだったのだろうか。
(あんなに……あんなに愛されていたのに)
国中を駆け回り、寝る間も惜しんで人々を治していた。
その背中を、私はずっと見ていた。
疲れて帰ってきて、ソファの上でぐったりしている姉の肩を、子供の頃のように揉んであげたこともある。
「お姉様、ちょっとは休みなさいよ」
「ふふ、そうね。レイナに怒られちゃった」
そう言って優しく笑うお姉様が。
いつの間にか、「偽物」と呼ばれるようになっていた。
(おかしい。何かが、おかしい)
私は何度も、心の中で繰り返した。
神殿と姉の間には確かに確執があるようだった。
「聖なる力を平民ごときに使うなど」と陰で言われているのも知っていた。
けれどそれと、この噂が――まさか、繋がっているのだろうか。
考えれば考えるほど、胸の奥がざわざわして落ち着かなかった。
そんなある日だった。
「今日、神殿に行ってくるわ」
朝食の席で、姉はいつも通り穏やかな笑みを浮かべていた。
それなのに、私の胸には嫌な予感がひっかかって離れなかった。
「お姉様……」
思わず声が漏れる。
姉は、少しだけ首をかしげた。
「どうしたの、レイナ?」
「なんでも……ない。ただ、その……」
言葉が喉に引っかかる。
行かないで、と言えればよかったのに。
姉はそんな私の内心を見透かしたように、すっと席を立ち、側まで歩いてきた。
「大丈夫よ、レイナ」
頭に手を置かれる。子供の頃と同じ仕草。
「今日の夜にはちゃんと帰ってくるから。だから――」
いつもと変わらない、優しい笑顔。
その笑顔が、どうしてだか胸を締め付けた。
「だから、そんな顔をしないで」
その言葉を最後に、姉は家を出て行った。
神殿へ向かう馬車に乗り、振り返って手を振る。
私も、ぎこちない笑顔で手を振り返した。
――その姿を見たのが、私が生きている間に見た、最後の姉の姿だった。
その日のうちに、神殿で事件があったと聞いたのは、夕刻を過ぎてからだった。
血相を変えた使用人が走り込んで来て、父母と私の前で震える声を出した。
「こ、国王陛下の御前において……聖女エリシア様が……神殿にて告発され……その場で……っ」
言葉が続かない。
父が苛立ち混じりに声を荒げる。
「要点だけ言え」
「は、はい……! 聖女エリシア様は、偽聖女であったと、人々を騙していたと。神殿長カルディス様より告発がありました。さらに、その……ご自身の立場を利用して神官を不当に扱い、平民に暴力を振るうよう指示していた、との罪状が……」
「そんな――」
母が口元を押さえる。
けれど、その顔に浮かんでいたのは驚愕だけで、信じられないという怒りではなかった。
「そして、さきほど。偽聖女として、国を欺いた大罪により――エリシア様は処刑された、とのことです」
その瞬間、時間が止まった。
「…………は?」
間の抜けた声が、自分のものだと認識するまでに、数秒かかった。
視界から色が抜け落ちる。
耳鳴りがして、誰かの叫び声が遠くに聞こえた。
(処刑……? 姉様が?)
偽聖女?
神官を不当に扱う?
平民に暴力をするように指示?
「そんなわけ、ない……」
口の中が乾いて、舌がうまく回らなかった。
ありえない。
姉はそんな人じゃない。
怒鳴りつけることすらなくて、いつも誰かのために自分を削っていた。
「エリシアが? まあ……。神殿長様がそう仰るなら、仕方ないことなのかしらね」
母の口から出た言葉は、私の胸を鋭く貫いた。
父は難しい顔をしながらも、「家名に傷がつく」とか「どう責任を取ればいいのか」などと、自分たちのことばかりを話していた。
怒りも悲しみも、すべてがごちゃまぜになり、内臓を掴まれたような感覚だった。
(何かがある。絶対に、おかしい)
――調べなければならない。
「そんなわけ、ないんだから……!」
夜、自室に戻った私は、机を叩いて叫んだ。
ありえない。
絶対にありえない。
そのありえないを、証明しなくてはならない。
けれど、神殿は巨大だ。
王家すら巻き込む権威の塊。
力も、情報も、人も、すべてを握っている。
だから私は、禁忌とされる魔法に手を伸ばした。
――闇魔法。
法律上は、禁止されていない。
けれど、その名が世間に出るだけで「魔女」と恐れられ、忌避される属性。
私は他の人間よりも魔力の質が高いと言われていた。
特に、忌避される闇魔法に対して。
そんな私が、陰で触れた古い書物のひとつに、闇魔法の記述があった。
『闇は、すべてを呑み込み、隠し、暴く』
その一文に、胸がざわりと震えた。
(……隠されたものを、暴いてくれるなら)
私は迷わなかった。
誰に止められても、止まらなかっただろう。
屋敷の書庫に眠っていた禁書。
裏市場でこっそり買った、破れかけの魔導書。
それらを夜な夜な読み漁り、魔力を自分の内側へと沈めていく。
闇魔法は、確かに危険だった。
制御を少しでも誤れば、自分自身の精神をも侵す。
けれど、私はその痛みすら、怒りの燃料に変えていた。
(姉様を殺した連中を、絶対に許さない)
神殿の内部。
あの日、姉を告発した者たち。
証言者とされた神官。
処刑の場にいた貴族たち。
闇魔法は、影を伝って人の声を拾い、残留魔力に触れて過去の痕跡を辿る力をくれた。
夜の神殿の外壁に張り付く影に、自らの魔力を溶かし込む。
私は、何度も何度も、そこから内側を覗き込んだ。
『エリシア様を罪に落とすのは、いささか気が引けますが……』
『仕方あるまい。あの女のせいで、神殿の収入は目に見えて減っている』
誰かの会話が、闇を通して耳に届く。
別の夜には、噂を操作するための文書を作っている神官の姿が見えた。
そして――決定的な情報も。
『新たな聖女のミネルヴァ様の神力は、まだ不安定ですが……』
「構わぬ。あの娘は私が育てた。いくらでも演出の仕方はある」
白髪の老人。
常に細い目で笑っている、神殿長カルディス。
その傍らに、淡い茶髪の少女が跪いていた。
絹のような茶髪ストレート。
氷のように白い肌。
ほんのり青みがかった瞳は、表向きは儚げに伏せられて――けれど、その口元には、確かな嗤いがあった。
『ミネルヴァ。お前は『本物の聖女」だ。あの女は偽物。そうだろう?』
『はい、お義父様』
ミネルヴァ――新しい聖女とされた女。
神殿長カルディスの養女。
養父と娘。神殿長と新聖女。
その二人が手を組み、姉を陥れた。
……いや、それだけじゃない。
『聖女は、金を稼ぐ道具に過ぎない』
別の夜、カルディスが側近の神官にそう言い放つのを聞いた。
姉がほぼ無償で平民を治していたせいで、神殿が得られるはずの寄進は減っていた。
貴族も平民も分け隔てなく癒やす姉は、彼らにとって邪魔でしかなかった。
(だから、お姉様を殺した……!)
新しい聖女ミネルヴァは、確かにある程度の力を持っていた。
けれど、それは姉の足元にも及ばない。
なのに、神殿は彼女を「真の聖女」と持ち上げ、姉を「偽物」として処刑した。
(偽物なのは、ミネルヴァの方だ)
怒りで、胃の中が焼けるようだった。
「殺して、やる……!」
喉から漏れた声は、自分でも驚くほど低くて、震えていた。
その瞬間、何かが私の中で切れた気がする。
私は――神殿へ突撃した。
夜、月が雲に隠れ、ちょうどいい闇が王都を覆う。
(ここに、あの二人がいる)
闇魔法で気配を消し、影から影へと身を滑らせる。
門の前に立つ兵士が気づくよりも早く、足元に落ちる影を足掛かりにして、私は内側へと侵入した。
「な、なんだ――ぐっ!」
「――邪魔をしないで」
気づいた衛兵が剣を抜こうとした瞬間、その喉元に闇が絡みつく。
声にならない呻きとともに、男はその場に崩れ落ちた。
殺したのか、意識を奪っただけなのか、それすら冷静に判断できない。
ただ、邪魔する者は排除する。
それだけだった。
「カルディス、ミネルヴァァァァ!!」
私はそう叫びながら先へ進む。
殺したい、復讐したい相手のもとへ。
神殿の廊下を進み、祭壇のある大広間へ向かう。
そこには、数人の神官と兵士、そして――。
祭壇の前。
そこに立っていたのは、見慣れた白髪の老人と、新しい聖女のローブを身にまとった少女だった。
神殿長カルディス。
偽聖女ミネルヴァ。
私は止まれなかった。
「よくも――」
怒りに任せて、私は闇を解き放った。
黒い魔力が渦を巻き、矢となって二人へと殺到する。
「きゃっ……!」
ミネルヴァが悲鳴を上げ、カルディスが杖を掲げる。
同時に、周囲の神官たちが一斉に防御術式を展開し、兵士たちが盾を構えて前に出た。
「貴様……っ!」
「神殿長と、聖女様を守れ!」
「――退けぇ!」
兵士の胸元に闇の槍を突き立て、神官の詠唱を遮るように影を絡める。
血の匂いが鼻を刺す。
それでも、足は止まらない。
(あの二人に、届けばいい……殺せたら……!)
それだけを考えていた。
けれど――。
「捕らえた!」
「油断するな! 闇魔法を扱う魔女だ!」
復讐は――届かなかった。
「がっ……!」
地面にねじ伏せられる。
冷たい石床の感触。
「独学でここまで闇魔法を……ははっ、恐ろしい才能だ」
一人の魔術師がそんなことを言う。
そいつがいなければ、どちらか一人の命は殺せたかもしれないのに……!
顔を上げると、祭壇の奥で、ミネルヴァがカルディスの陰からこちらを覗き見ていた。
その顔。
怯えているのではない。
口元が、三日月のように吊り上がっていた。
嘲笑っている。
姉を殺し、私を踏みにじり、勝ち誇っている。
「あ……あぁぁぁぁッ!!」
私は喉が裂けんばかりに絶叫した。
届かない。
あと数メートルなのに。
手を伸ばせば届く距離に、姉の仇がいるのに。
魔力が尽き、身体が動かない。
そのまま私は、地下牢へと引きずられていった。
裁判など、形式だけのものだった。
姉と同じだ。
私は「悪魔に魂を売った魔女」として、処刑を宣告された。
そして、処刑台へと登る日。
広場には、姉の時と同じように民衆が集まっていた。
人々は私を見て、「あれが偽聖女の妹だ」と口々に罵った。
処刑台の上。
首に冷たい刃の感触を感じながらも、憎悪だけは燃え尽きなかった。
(ミネルヴァ。カルディス。神殿――)
姉を殺した神殿。
(絶対に、許さない)
最後の瞬間まで、その思いだけが胸を占めていた。
それでも現実は残酷で、私の首はあっけなく落とされ――視界は、血のような赤に染まって、すべてが途切れた。




