私の価値観
「はい」
私ははっきりと返事をした。
しかし、安心させるために気を緩めた瞬間、私の意識は途絶えた。
――――夢を見た気がした。
後頭部に柔らかい感触を感じて目を覚ました。
私は一体どこに、と頭を回転させようとしたところでクリスが覗き込んできた。
「起きた? 大丈夫?」
「はい、だい――――」
思い出した、瞬間訪れる強烈な吐き気。
我慢出来ないで跳ね起きて、這うようにしてクリスから数歩ほど離れて、吐いてしまった。
夜に食べたものを吐き出してもまだ足りないように胃液を吐き出していたように思う。
クリスはそんな私の横に膝をついて背中を撫でていた。
吐くものがなくなって、それでも落ち着かない呼吸を整えているとクリスの声がした。
「落ち着いた?」
「はい」
声のした方に振り向いた。
私の顔を見たクリスは一度驚いた顔をしたのだが、すぐに苦笑いに変わった。
「ムツミ、はい、ちょっと寝て」
「いえ、私ばかり休んでいては良くない……」
「いいからいいから」
私がどう言ったとしてもクリスは変えそうにないので、私が折れて寝転がることにしたのだが、すかさずクリスが膝を挟んできた。
「あの……これは?」
「いいからいいから」
「いえ、汚れてしまいますから……」
「別にいいから、そんなことよりもムツミのことだよ。かなーり酷い顔してるよ」
「……そんなにですか?」
「そんなに。ノナもジーンもびっくりして駆け寄るぐらいには」
そこまで酷い顔だったのかと鏡がなくて良かったような気がする。
自分が一気に情けない存在になってしまったように感じる。
肉体的にではなくて、精神的には一回りぐらい大人だとは思っていた。
だけど、今の姿は絶対にそんなことを思われないだろう。
年下の女の子の前で吐いて、落ち着かせられるなんて情けない。
日本でもこんなことなかった気がする。
いや、日本にいたときは恥は感じてはいたけど、私を気にしている人なんていないだろうと思っていた。だから、醜態を曝したなんて程のことは感じていなかった。
だけど、ここではみんながちゃんと私を見ている。
そのせいで、日本にいた時よりも恥ずかしさを感じてしまう。
「ムツミってさ、こういうこと慣れてないよね」
クリスたちに比べたら、慣れていない。
人殺しなんてものはテレビの向こう側の出来事。
私にとってはそれが日常で、普通だった。
多くの人もそうだと思う。
喧嘩もしていない私にとっては、人を殺す事なんて出来るわけがないと思っていたぐらいだ。
「恥ずかしながら……」
「別に恥ずかしい事じゃないけどさ」
「みんな慣れていて……私だけこんな事では足を引っ張ってしまって……」
私にある日本の常識や価値観。
四十年近くあったものをいまさら変えるのも難しいのだけど、きっとこの世界で生きるのであれば足枷以外にない。
「別に私たちだって、慣れているわけじゃないよ?」
「私に比べたらずっと……」
「あー……それはね。けど、人殺しがしたいわけじゃないし、やらないでいいなら出来るだけそういうことはしたくないってのは思ってるんだけどね」
私はどうしたらいいのか。
だって、このままでは大事な場面でみんなを危険な目に合わせてしまう可能性はある。
「私も、ジーンも慣れてるというか、心構えも教えてもらったからかな。それにジーンのお父さん、昔は結構凄腕の冒険者で、今は私のお父さんの牧場で働いてるんだけど、色々と話を聞いてたりしたのもあるのかもしれないけど、一番は商隊に付いていってそういう場面にあったのが大きいかもね」
クリスやジーンが昔からそういう経験をしていたのに驚いた。
いや、今だってこうして盗賊はいたんだから、良く出てくるのかもしれない。
「やらないといけないとやられちゃう。大事なものを守るためだったら、躊躇っちゃいけないんだってね」
私がクリスと同年代だった時にはこんな事を考えていただろうか。
いや、私は絶対に考えていなかった。
だって、私は多分、ぼんやりとここからの進路をどうしようか悩んでいたと思う。それかもしかしたら、定期考査のことを考えて、ちょっと憂鬱になりながらも勉強に明け暮れていたはずだ。
人生経験が濃いのはどちらだろうか。
こんな事を比べるべきではないと思うのだけど、つい比べてしまう。
私がこんな事を考えてるなんて知ったら、クリスたちは不機嫌になるかもしれない。
本当にこんな自分が嫌になってしまう。
一年、この世界で生活していたが、やはりまだ日本のことが全く抜けない。
四十年はやっぱり大きいのだと、重石のように圧し掛かっているようだ。
「それなら、ムツミも考えてみたら?」
「何をでしょうか?」
「大事なものの、優先順位」
大事なものの優先順位。
それが決まっても何か変わるのだろうか。
よく分からない。
けど、今の私にとって優先順位の一番上はこの仲間たちだ。
次は、まだ分からない。
「優先順位で一番は、みんなです。ジーン、クリス、ノナさん。私の一番は今のところこの三人の仲間です」
私がそう告げると、クリスは機嫌よさそうに鼻歌を歌いながら、私の髪を梳き始めた。
「あの、クリス、私はもう大丈夫なので、二人の手伝いをした方が……」
「いいのいいの、二人が休んでろって、そんなに人数いらないって言ってたから」
本当に大丈夫なのかちょっと心配だ。
いや、クリスがそんなことで嘘を吐くような人ではないというのは知っている。
だけど、人が何かしているのに、自分だけこうしてサボっているみたいな感じはどうにもなれない。
「役割分担だよ、ムツミ。ムツミはさ、普段依頼を受ける時とか、依頼者と話す時に率先してやってくれてるでしょ? だから、それはきっとこのチームではムツミの役割で、こういう荒事は二人の役割ってわけよ」
自分では意識していなかった。
なんとなく、良くこういうことはしていた気がするから、勝手にやっていただけなのに。
「いいんでしょうか、それで……」
「いいよ。ムツミはもっと私たちに甘えないと」
「甘えていますよ、いつも。甘えっぱなしってぐらい、みなさんに甘えています」
そこはしっかりと伝えておかないといけないと思った。
二人が戻ってきたのはそれから少し時間が経った頃だった。
「大丈夫か?」
ジーンに声をかけられたことで、立ち上がる。
「はい、大丈夫です」
私が安心させるようにいつもの口調で言ったのだが、ジーンは肩を軽く叩いた。
「無理すんな。こういう依頼が嫌なら次からは断ってもいいんだからな」
「それは……」
「頼まれたら全部受けなきゃいけないなんて、そんな決まりはない」
そうだが、私は断れるかなと考えてしまう。
押しにはきっと弱い。
自分のことだとどうしても軽く勘定してしまう。
「せっかく冒険者やってるんだ。もっと自由に生きないとダメだろ?」
「……はい!」
本当にこの三人とチームを組めてよかったと心から思う。
「たまにはジーンもいいこと言うじゃん。それで終わったの?」
「うっせぇ。とりあえずは、終わった」
他にここでやることはあっただろうか。
「奥に宝石があった。どこかの商隊を襲って手に入れたものだと思う」
冒険者にとって、盗賊というのは美味い相手らしい。
なぜなら、こうして盗賊のアジトを潰してしまえば、中にあった宝石やお金を我が物にできるのだから。
実際は一度全部回収して、冒険者組合に提出する。そこで二割か三割は組合の方に吸われるのだが、残りは冒険者の物になる。
立派な資金源ということ。
そして、これが今回の追加の報酬なのだろう。
「ムツミ、奥まで付いてきてくれ」
ジーンに言われて、どうして付いて行かないといけないのかなと思っているが、クリスと共に後を付いて行った。
洞窟の最奥。
そんな場所には鉄の牢があった。
そして、そこには囚われている女性がいた。
ボロボロの布を身に着けているが、穴も開いていれば裂けてもいるせいで、その下の女性らしい綺麗な肢体が見えてしまっている。
首輪に繋がれて、格子に背を預けて、虚ろな目でこちらを眺めている。
死んでいるのではない、胸が上下に動いているから。
しばらく洗っていないのか、体には汚れがついているし、元は綺麗だったのだろう茶色の髪は梳いていないせいかぼさぼさになってしまっている。
「この場合、どうすりゃあいいんだ?」




