2 やっと逃げられる……!
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浮き足立った人々をよそに、ルーナは周囲の動向に意識を巡らせる。
(……普通では考えもつかない、奇策としかいえないやり口ね)
思わずため息をつきそうになるが、ぐっとこらえた。
ルーナがレティシアに対して、悪行などと言われるような行為を働いたことは一度もない。
むしろ、悪行に手を染めていたのはレティシアの方だ。
姑息な手で自分にとって邪魔なものを陥れようとしたり、嫌がらせをしたり。とてもではないが、清らかと謳われる聖女とは思えないような行動の数々。
これは学園に通う貴族子弟であれば誰もが知っている事実だが、告発する者は現れないだろう。
オードラン国の信心深い貴族たちの、聖女と教会への信仰心は狂信の域にある。
そんな国で聖女の言動を表立って咎めたり、対立したらどうなるか。確実に己の立場が悪くなる。そんな危険に自ら飛び込む者はいない。
無実の罪を着せられ、誰の助けも望めない――ごく普通の令嬢であればとても耐えられないだろうが、ルーナは冷静だった。
事前にリオネルから命じられた内容があまりにも不自然で、会場に行けば何かが起きるという心構えができていたからだろう。
(卒業生でもない私に「必ず一人で会場に来い」と念押しした上でパーティーへの参加を命じるなんて……いくら何でも怪しいわ)
そんな分かりきった罠は本来避けるべきなのだが、ルーナにはそうできない理由があった。
一切の瑕疵がない状態で婚約解消に持ち込むことを目指し、リオネルに従順な令嬢として振る舞っていたからだ。
今回もその一環として、企みがあることを予測した上でリオネルの言葉に従ったのだが。
待っていたのは予想の斜め上を行く出来事だった。
ルーナの生家であるベルニエ家は、オードラン国内でも随一の力を持つ公爵家だ。
初代国王夫妻の友を祖とし、聖女に次いで重要視されている精霊術士を多く輩出する家でもある。
そんな、国にとって重要な家を蔑ろにする行動――正式な手順を踏まない婚約破棄を宣言されるとは、さすがに予想できなかった。
とはいえ、公爵家内でのリオネルと王家に対する信頼は既に地に落ちている。
どんな非常識な行動を取られたとしても「あの方々ならばやりかねない」と、悪い意味で納得できてしまう下地ができていた。
(ベルニエ家としては、リオネル様との婚約を白紙にすることを前々から望んでいた。でも、何度奏上してもすげなく断られ続けて……。
――ありもしない罪を理由に破棄される、というのは癪だけれど)
ルーナは、両親であるベルニエ公爵夫妻から「婚約を破棄できるのであれば手段は問わない、何も気にする必要はない」とまで言われている。
この婚約破棄宣言はチャンスだ。利用しない手はない。
いったん受け入れてしまえば、教会と聖女を信奉する貴族たちが正当な行為だったと勝手に主張してくれるはずだ。
(元はといえば。本人も、国民の大半も望んでいない婚約を無理やり続けようとした国王陛下と王妃様が悪いのよ)
純血のエルフと同等の力を持つルーナも非常に稀な存在ではあるが、不在だった聖女の代わりにリオネルと婚約を結んだに過ぎなかった。
聖女であるレティシアが現れた以上、国民は聖女が王家に嫁ぐことを望む。
オードラン国では初代国王の妻は聖女だったという伝説にあやかり、聖女の資格を持つ女子が生まれた場合は王家に嫁ぐのが建国以来の伝統となっていたからだ。
ゆえに、レティシアが聖女として覚醒したという報せが出た時は、国中が非常に大きな喜びで溢れた。
――前例のない、成長後に突然覚醒した聖女ではあったが。そんなわずかな違和感はすぐにかき消された。
今やルーナがリオネルと結ばれることを望んでいるのは、教会を排除するための最初の一手として、聖女に代わる超常的な権威を求める国王夫妻だけだ。
エルフに準ずる精霊術士を王家に取り込みたい一心で、周囲の言葉に聞く耳を持たない国王夫妻。
国王夫妻に嘘を吹き込まれ、公爵夫妻が婚約の破棄を申し入れたにも関わらず、ルーナが必死に縋っていると誤解しているリオネル。
今や怪しげな術で王家に取り入ったのでは、とまで噂されるルーナとベルニエ公爵家。
こじれにこじれた状況をリセットしてこの国から逃げ出す、絶好の機会だ。
――ああ、やっと逃げられる。
声はなんとか抑えたものの、喜びのあまりルーナの肩が震える。
不意に、思考の海に沈んでいたルーナに声が投げかけられた。
「いかなお前といえど、観衆の前で己の罪を明かされるのはさすがに堪えるか」
リオネルが随分と楽しげな様子でルーナに声をかけた。
俯いて肩を震わせているルーナの姿を見て、涙をこらえていると思ったのだろう。
(泣いていると思われたのかしら……若干腹立たしいけれど、口に出すべきではない。ここは特に触れず、流してしまいましょう)
普段通り、感情が読み取りづらいように無表情に。そして、抑揚のない声を心掛ける。
意識の切り替えに努め、ルーナは話の流れに便乗した。