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第3章「駆け落ちした第二王子の場合」(上)

 ◆


 ──リ、オン


 ごぼり、ごぼりと液体が泡立つ様な音に混じって、クラウディアの声が、あれだけ聞きたかった声が聞こえてきた。


 戻ってきたのだ。


 帰ってきたのだ。


「僕の為に、還ってきてくれたんだね」


 リオンは嬉しそうに呟いて、後ろを振り向く。


 果たして其処には、リオンが期待していたようにクラウディアの姿があった。


 記憶にあった姿とはまるで違っていたが、リオンはゆっくりとクラウディアに向かって歩みよっていく。


 ──リィィィィ、オオォン


 ぼろりとクラウディアの眼球が零れ落ちた。


 黄色く変色し濁った()()は、リオンの目にはまるで満月のように見える。


 ──黙って抱きしめるべきか、それとも愛していると囁いて抱きしめるべきか


 リオンはそんな事で少しだけ悩み、やがて笑みを浮かべて「なんて幸せな悩みなんだろう」と嬉しくなった。


 ──決めたぞ、僕は 


 ・

 ・

 ・

 ◆


 時は遡る。


 ホラズム王国には二人の王子がいた。


 一人は第一王子であるエドワード、もう一人は第二王子であるリオンだ。


 前者が光であるなら、後者は影であった。


 前者が太陽であるなら、後者は月であった。


 エドワードが自身のことをどう考えていたかは定かではないが、少なくともリオンは自身のことを影であり月であると自覚していた。


「兄上、どうすれば僕は兄上のようになれますか」


「兄上には苦手なことがあるのですか。僕は剣が苦手です。あの鋭い切っ先を見ると体が震えてしまうのです」


「先日、学園で試験があったのですが、兄上に言われた通り夜はしっかり眠って朝勉強をしていたら、覚えたことを忘れずにいられたおかげで良い点数が取れました!ありがとうございます」


 リオンはエドワードを心から尊敬していたのだ。


 エドワードはリオンを特別に可愛がっていたわけではないが、事あるごとにリオンに助言を与えた。


 これは当時の王族同士の関係としては少し珍しいことだった。


 よくも悪くも、王族というのは完璧を目指さなくてはならず、自身の器に瑕があれば可能な限り自力でそれを消すことが奨励されていたからだ。


 助力を求められたとして、軽々にそれに応じるというのも恥ずべきこととされていた。


 しかし、エドワードは二人の残酷なまでの能力の差を理解していた。


 ゆえに、弟が決して自身の王位継承権を脅かす存在ではないと考え、王族としてではなく兄として弟を助けていた。


 しかし結果的にエドワードのこの選択は、リオンをより苦しめることとなる。


 ◆


「リオン様、少し話がありますの」


 ある日、学園の授業が終わった後、婚約者であるイザベラ公爵令嬢がつっけんどんにリオンを呼び出した。


 彼女はフェルナン公爵家の次女である。


 イザベラの生家、フェルナン公爵家は王国屈指の名門であり、その財力と影響力は王家すら凌駕すると評されていた。


 公爵家は広大な領地を所有し、経済や軍事において圧倒的な力を持っていたため、多くの貴族や領民は彼らに忠誠を誓い、その威光を恐れたのだ。


 このため、王家と公爵家の間には微妙な緊張関係が存在し、公爵家は実質的に王家に匹敵する権力を持っていた。


 リオンにとってイザベラとの婚約は単なる個人的な問題にとどまらず、公爵家の重圧を背負うことを意味している。


 要するに、頭が上がらないということだった。


 ・

 ・

 ・


 リオンはサロン室に呼び出され、イザベラとその取り巻き達の前に立たされていた。


 着席を促す声もない。


「イザベラ、話っていうのは……?」と、リオンがおずおずと尋ねる。


 取り巻き達が嘲弄の笑みを浮かべているのを、リオンは見ないように努めた。


 イザベラはリオンをしばらく立たせたまま、ようやく着席を促す。


 そしてリオンが座ったのを確認してから、口を開いた。


「ここ最近の学園でのリオン様の成績は芳しくありませんわね。学業はダメ、と。では実技はどうかしらと思えば、剣もダメと。模擬試合では連戦連敗だそうですわね」


 イザベラはつまらなそうに言った。


 彼女の言い方にはやや悪意のある誇張が含まれていたが、概ね事実であったため、リオンは言い返すことができない。


 彼自身もイザベラの指摘を認めていたし、何よりも彼女の自信に満ちた態度に気圧されていたからである。


「少しは言い返したらどうなのです?まあ、それはともかく、わたくし、一つ気に食わないことがありますの」


 イザベラは嫋やかな人差し指を立て、それをゆっくりと口元に持って行った。


 この所作は貴族の令嬢の間で流行っているジェスチャーで、「私の話を聞きなさい」という意味を持つ。


 また、主に上位者から下位者に向けて使われ、両者の間の格差を際立たせる陰湿な意味合いもあった。


「それはね、リオン様がエドワード様の助力を得ているということですわ。王族としての誇りはないのかしら?王族とは、最も尊い貴族を意味しますのよ。そして、その尊さを支えるものは自身の矜持と実力でなければなりません。然るに、リオン様はどうも王族とは何かをいまいち理解されていないようですわね」


 正論だった。


 ただしそこには相手を慮る意思のない、冷たい正論であった。


 正論は一般的には誤りを正すための指針として示されるものだが、時に野蛮な武器としても使われる。


 リオンはその野蛮な正論に打ちのめされ、言葉を失った。


「お姉様がうらやましいですわ。太陽の王子と婚約できたのだから。その点、わたくしにあてがわれたのは……」


 イザベラはその先を言わなかった。


 しかし言外に漂う毒花の芳香は、確実にリオンの精神を蝕んでいった。


~~~


 ◆


 例外なくとまでは言わないが、ほとんどの人間には承認欲求がある。


 そして承認欲求はその深さによって薬にもなり、毒にもなる。


 薬となるならば良い。


 周囲に認められたいが故に何かを頑張る。


 頑張った結果、吉と出れば万々歳だ。


 これは多くの場合、承認欲求の深さが浅い場合に見られる。


 問題は承認欲求が深かった時だ。


 みんなから「すごい」と言われたい、ちやほやされたいという次元ではなく、自分という存在そのものを認知してほしい──そういう根深い承認欲求は、毒となる。


 ・

 ・

 ・


 ここ最近のリオンは、自分というものが何なのかよくわからなくなっていた。


 王族としてのリオン、第二王子──スペアとしてのリオンとは、本当に自分なのだろうか?


 人々が期待するリオンになれない以上、リオンという存在に価値はないのだろうか。ならば例えば……


 ──今、この羽ペンで僕の喉を突いても誰もなんとも思わないんじゃないだろうか。驚きはするかもしれない。でもそれだけだ。きっと数日後には僕のことなど忘れてしまうだろう。王族の存在価値が王族であることだとするならば、王族足りえない僕には存在価値がないことになる。では死ぬかといえば、死んだところで誰に何かを残せるわけでもない。つまり、死ぬ価値もないということになる。僕は何なのだろうか


 そんなことを考えながら、リオンは日々を過ごしていた。


 色あせた日々、灰色の青春である。


 ◆


 ある日、リオンに転機が訪れた。


 ちょっとした出会いがあったのだ。


 授業が終わり、教室にいたくなかったリオンは学園の中庭を訪れた。


 教室には多くの生徒がいるが、誰一人としてリオンに話しかける者はいない。


 第一王子のスペアとしての価値があるうちはまだ良かったが、現在のリオンにはその価値すらないからだ。


 というのも、現王の弟君がここ最近勢力を拡大しており、仮にエドワードにもしもの事があった場合、王位継承争いに乗り出してくることは火を見るより明らかだと目されていたからである。


 とはいえ、リオンに人間的な魅力があったならば浮かぶ瀬もあったはずである。


 しかし、婚約者であるイザベラに明らかに下に扱われても何も言えないリオンの気骨の無さや、能力が足りないなら足りないなりに王族として最低限の矜持も示せない彼と利害関係抜きに親しくなりたいと思う者は誰もいなかった。


 孤独は人と人の間に存在するという言葉があるが、まさにその通りで、同級生が楽しそうに歓談したりしている中、ただ一人ぽつねんと座りこくっていることはリオンにはあまりにも辛かった。


 ──あの木の下で、読書でもしようか


 あの木とは、中庭に生えている何の変哲もない木である。


 ただし、樹液がある種の虫除けの性質を持つらしく、木の下で暇つぶしをする者も少なくはなかった。


 そうして中庭を訪れたリオンだが、すでに先客がいることに気がつく。


 ──学園の生徒か?いやそれにしては……


 何と言うか、存在感が薄い……いや、ただそこにごく自然に存在している、そんな印象を受ける少女がいた。


 貴族の子弟や子女というのは、良くも悪くも存在感がある。自分を見ろ、評価しろ、褒め称えろという自意識がこれでもかと全身から放射されているのだ。良い悪いの問題ではない、貴族として生まれ貴族として育ったならば誰でもそうなる。


「えっと……あの、お邪魔だったでしょうか、リ、オン様」


 うわ、とリオンは声を出して驚いた。


 例えるならば、幽霊として誰にも気づかれないまま何十年も過ごしてきた者が、初めて生者に話しかけられたような心境だった。


「なぜ僕の名前を……」


 思わずつぶやくと、目の前の少女は慌てた様子で「も、申し訳ありません!私の様な平民が尊き、ええと、御名を……御名は違うか……ええと……」などとうろたえる。


 その狼狽ぶりがどうにもおかしかったため、リオンはわれ知らず「ふ」と笑ってしまった。


 嘲弄の笑みだ。


 ただし、たかが名前を呼んでくれただけで嬉しくなってしまった自分に対しての。


「いや、済まない。リオンで構わない。良かったら君の名前も聞かせてくれないか?」


「クラウディアと申します。姓は、そのありません。平民なので……」


 クラウディアの表情は暗い。


 自身の名前が意味する所を知っていたし、貴族たちが平民をどう思っているかを学園生活で理解していたからである。


~~~


 ◆


 リオンは「変わった名前だな」と思った。


 クラウディアという名前は「雲」を意味するが、ホラズム王国では雲はあまり良いものとは考えられていない。


 それは、王国の国花──"水の薔薇" と呼ばれる蒼く透き通った花弁を持つ薔薇を育てるためには、太陽の光が多く必要とされるからだ。


 ゆえに、陽光を遮る雲は不吉なものとして考えられている。


 しかし、リオンにとってはどうでもいい話だった。


 なぜならば、自身を影であり月であると考えていたからだ。


 それらがホラズム王国では死の象徴とされている以上、死が不吉を拒むなんておかしな話であった。


「学園では身分の差はない。気楽に話してくれて構わない。よろしく、クラウディア」


 リオンがそう言うと、クラウディアはわずかに目を見開いた。


 この時、クラウディアもまた、つい先ほどのリオンと同じ気持ちを味わったのだ。


 ・

 ・

 ・


 クラウディアは商家の娘だった。


 店はそれなりに大きく、成功している部類と言える。


 成功を後押ししているのは彼女の父ダグラスの野心である。


 欲という脂肪を全身にべったりと貼り付けたこの男は、金と名誉を追い求めることに甚だしい。


 金だけでも名誉だけでも満足ができない。


 だから、大金を積んでクラウディアを学園に送り込んだ。


 この決断にはクラウディア自身の才覚も寄与していた。


 クラウディアはダグラスをして「男であったならば」と思わせるほどに数字に明るかったからだ。


 さらに言えば、見目もそれなりに良い──これは親のひいき目かもしれないが。


 そんな娘ならば、良い貴族に気に入られて……というルートがダグラスには見えていた。


 そうなれば店はさらに大きくなるだろう。


 あるいは、自身にも一代貴族となる目があるかもしれない。


 そんな目論見をクラウディアは見通していたが、ダグラスに逆らうことはなかった。


 なぜならば、彼女としてもこれ以上この家にいたくなかったからだ。


 現在の母であるロミリアと彼女は血が繋がっていない。


 クラウディアの実母スィーラは既に亡く、ロミリアは後妻として迎えられた。


 クラウディアという名前はスィーラが名付けた名前で、これは隣国サルーム王国ではホラズム王国とは逆に縁起が良い名前とされている。そう、スィーラはサルーム王国の出身だった。


 また、なぜ縁起が良いかといえば、それはサルーム王国の歴史に由来する。


 サルーム王国はかつて外国からの侵略に晒され、王都が陥落寸前まで追い詰められたことがあった。


 貴族も国民も悲壮な覚悟を決めたその時、空が翳り、分厚い雲が広がった。


 そして水滴が地を穿つほどの大雨が降り注ぎ、侵略軍は行軍予定を変更せざるを得なくなった。


 そうして稼いだ時間で他国からの援軍が間に合い、国土は守られたという歴史がある。


 ゆえに、サルーム王国では雨や雲を連想させる名前は縁起が良いとされているのだ。


 そんなサルーム王国の血を引くクラウディアを、ロミリアは嫌悪していた。


 ロミリア自身、完全に善性に欠けるほど悪辣な女ではなかったが、人より少々選民意識が強く、自分の国が他の国に優越するという意識が差別感情となってしまった。


 さらに言えば、ここ最近でダグラスの子を宿したということもある。


 子が生まれれば、長女であるクラウディアは邪魔者だ。


 嫌悪という感情は、ごく短時間で敵意や殺意に成長してしまうことをクラウディアは理解していた。


 だから、ダグラスの思惑はクラウディアにとっても渡りに船だった。


 誤算を挙げるとすれば、学園でクラウディアがどういう境遇に置かれるかという見通しが甘かったという点である。


 ・

 ・

 ・


 平民だからといって、露骨に侮辱されたことは数知れない。


 不吉な名前をつけるような親の学を嘲るようなこともたくさん言われてきた。


 勉強を頑張って試験で良い点数を取っても、平民風情が教師に取り入るのに必死だと小馬鹿にされる。


 それでも家が逃げ場になってくれれば踏ん張りようもあるが、家でもクラウディアの肩身は狭かった。


 理由は言わずもがなである。


 自分は一体何のために生きているのだろうか、父親の駒としての生を全うするためか。


 なまじ聡明だからこそ、自身の先行きが見えてしまう。


 こういう時友人がいれば、ただ話を聞いてもらうだけでも気持ちは楽になったかもしれない。


 しかし、そんな友人はクラウディアにはできなかった──これまでは。


~~~

 ◆


 中庭の名も無き木の下で出会って以来、リオンとクラウディアの関係はまるで月が満ちていくようにゆっくりと変わっていった。


 最初こそ負け犬同士の傷の舐め合いに似た感情だったかもしれないが、それは次第に形を変えていく。


 ・

 ・

 ・


「クラウ、サルーム王国の"涙の日"っていうのはどれくらい続くものなんだい?……え?そんなに?その間、皆家から出られないとなると大変だな」


「私も話に聞いただけだから。涙は侵略されゆくサルーム王国を儚んだ雨の精霊が流したものだとされているわ。……私ね、いつかはサルーム王国へ行ってみたいと思うの。母の故郷だから」


 ある時はこんな話をし……


「ふうむ。精霊信仰? ありとあらゆるものに精霊が宿る、か。だからあらゆるものを尊重する……そういう考え方は嫌いじゃないな。でもその、なんていうのか、命の精霊とか死の精霊の話は少し怖いよ。死んだ者が生き返るだなんて……どういう理屈なんだい?」


「私たちの体には命の精霊と死の精霊が同じだけの力で共存しているの。"その時"が来ると、命の精霊は少しずつ体から抜け出てしまう。その分、死の精霊の力が強まるわけね。でも命の精霊が完全に抜け出してしまう前に、土に埋めて大地の精霊に助力を乞うことで、抜け出ていく命の精霊に活力を与えることができる──そうすれば、人は死なない。……まあ私も信じているわけではないけれど、そういうお話にはいろいろな教訓があるから面白いわよ」


 またある時はこんな話もした。


「精霊はね、恩恵を与えるだけじゃなくって悪戯をするときもあるらしいの。勝手に扉を開けたり、窓を開けたり。大した悪戯じゃないけれどね。自分はここにいる、って人間に伝えている……って話よ」


 母親の故郷だけあってか、クラウディアはサルーム王国の事を随分と調べたようだった。


 ・

 ・

 ・


 二人の距離感が近づいていっているのは、話しぶりを見ても明らかだった。


 とはいえ、リオンは婚約者がいる身。男女の関係云々の話にはならない。


 そんな二人に周囲の貴族たちも特に干渉しなかった。


 リオンにせよクラウディアにせよ、貴族たちにとっては無価値で無意味でいないも同然の存在だったからである。


 ただ一人、リオンの婚約者イザベラを除いては。


 ◆


「リオン様、最近ペットを飼いだしたそうね。雌猫……だったかしら?」


 ある日、いつものようにリオンをサロンに呼びつけたイザベラはおもむろにそんなことを言った。


 リオンにとっては身に覚えのないことである。


「ペットとは?雌の猫だって?僕はそんなもの飼った覚えはないが……」


 リオンの言葉にイザベラは嘲笑を以て答えた。


「あら、飼っているじゃないの。クラウディア、とかいう名前の雌猫を。一応一線を越えてはいないみたいだけれど、こういうのって相手がどう思うかが大事なのよね。つまり、わたくしの気持ちがってことだけれど。ねえリオン様、今私がどう思っているかわかるかしら。分かったら、私のお父様がどう思うかも想像してみてね」


「イザベラ、誤解がある。僕はクラウディアと何かあるわけではないよ。単に同じ学園に通う生徒同士というだけだ。もちろん打算もあるさ。彼女は商家の娘だろう?僕もいずれは兄上を盛り立てる立場として、公務を務める事になるはずだ。だから商家とのつながりは……」


 リオンがここまで言ったところで、イザベラは人差し指を口元へ持っていった。


 これは単純に「黙れ」という意味である。


 イザベラは不快だった。


 婚約者が他の女にうつつを抜かしているからではなく、飼い犬が他の飼い主に尻尾を振っているからだ。


 ちなみに他の多くの貴族とは違って、イザベラはというか、フェルナン公爵家はリオンに価値を見出している。


 無能であっても王族なのだ。


 尊き血はいくらでも利用方法がある。


 例えば、今後エドワードと現王の弟に何かのっぴきならないことがあった場合、リオンは非常に役に立つ。


 なぜなら次に王位につくのはリオンで、そのリオンの舵をとるのはイザベラ、ひいてはフェルナン公爵家であるからだ。


「リオン様、いえ、リオン。あなた、自分の立場を分かっていて? あなたは無能よ。それでも第二王子なの。高い王位継承権がある。つまり、いろいろな人から──王位につきたいと思っている人たちからすれば邪魔者なの。無能な邪魔者がいればどうすると思う?……あなたはフェルナン公爵に生かされている事をよくよく自覚することね。分かったらあの雌猫を遠ざけなさい……いいえ、やっぱり良いわ。こちらでやっておくから」


 ──こちらでやっておく?


 ──何を?


「やっておくっていうのは、何をかなイザベラ。遠ざけるのは分かった。君がそう考えているなら……そうするよ」


「いいえ、あなたは分かっていないわ。女だからね、わかるのよ。あなたはあの雌猫にたぶらかされている。遠ざけたとしても、また雌猫がすり寄ってくればあなたは受け入れてしまうでしょうね。それに、今後同じことが起きないとも限らない。だからね、あなたが自分の立場を忘れたことで一体何が起こるのか……そのあたりをしっかり理解しておいてもらおうと思ってるの」


「……何を、するつもりだイザベラ。聞かせてくれ」


 リオンの問いに、イザベラは薄く笑うだけであった。


 にじり寄ろうとするリオン。


 それを見たイザベラは、形の良い顎をクイとリオンに向ける。


 すると、取り巻きの一人の大柄な青年が凶猛な気配を発しながらズイと前に出てきた。


 ◆


 カッと頭に血が昇るリオンだったが、頭の中に冷たい声が響く。


 ──今ここで、この男を殴り倒せたとしても。それでイザベラが僕に本当のことを話すだろうか。それに取り巻きはこの男だけじゃない


 リオンは一歩二歩と後ずさり、あえて卑屈な笑みを浮かべることをして見せた。


「す、すまない、イザベラ。僕は自分の立場を忘れていたみたいだ」


 そう言って謝罪すると、イザベラは満足そうに頷いて言った。


「分かればいいの。あなたがわかってくれるなら、わたくしも面倒な手配をしなくて済むわ。さあ、もう行ってちょうだい。この後友人が来るから。あなたはその子を知らないはずだから、肩身が狭い思いをしてしまうかもしれないしね」


 イザベラの笑みは優しかった。


 リオンはサロンを出て行った……ふりをして、扉に耳をつけた。音がでないように、ひっそりと。


 よくも悪くも、これまでイザベラと接してきたリオンである。イザベラが浮かべた笑みの奥に、苛烈なまでの嗜虐的な感情が込められていることに、なんとなく気づいてしまった。


 気づいた以上、リオンにイザベラを信じることはできなかった。


「あの犬は無能ね。全部なっていないわ。あんな風にみじめに笑っていても、心の奥では私に対して歯をむき出しにしているわ。やっぱりあの雌猫が悪さをしているのかしらね。ところで……ねえ、ホドリック。ここ最近、王都の治安が少し不安だと思わない? 私たちが帰るくらいの時間に、風体の良くない男たちが歩いているのを見かけた時もあるわ」


「……は。そうですね、イザベラ様。ここ最近の王都の治安は少々不安を覚えます。」


 ホドリック伯爵令息はイザベラの子飼いである。


 イザベラはリオンの二心を見通していたのだ。


 しかし、見通していないこともある。


 例えば、イザベラはリオンを無能だと言ったが、彼らの会話が何を意味するのか全く分からないほどには無能ではない事などだ。


~~~

 ◆


 駆け出しながら、リオンはどうするべきかを考えていた。


 まずはクラウディアを探し出すことが第一だが、無事に会えたところで何をどうすればいいのか。


 公爵令嬢のイザベラが君を殺そうとしているから気をつけろ、とでも言うつもりなのか。


 あまりにも突拍子もない話で、信じてもらえるとは思えない。


 ──それでも今できることはクラウに会うことだけだ


 リオンはまるで向かう先が崖だと知りながら走っているような気分だった。


 ・

 ・

 ・


 時を同じくして、クラウディアは一足先に自宅へと戻っていた。


 ──今日はリオンと話せなかったな


 そんなことを思いながら窓から空を眺める。空の色は昼と夜が交錯し、不思議な色合いをしている。光と闇の交差点。


 この空の色は非常に短い間しか見ることができない。


 クラウディアはふと父親のダグラスに話があったことを思い出した。大した用事ではない。ペンのインクが切れそうになったため、新しいものをもらうといった些細なものだ。


 しかし──…


「……あら?」


 ダグラスの部屋に行く途中、なんとなく廊下の窓から外を見てみると、庭に人影が見えたように思えた。目を凝らしてみると、確かに人影だ。誰なのかはよくわからない。空は刻一刻と暗くなっており、判別が難しい。


 ──泥棒?


 ダグラスに伝えなければと思い駆け出そうとするが、その人影の形にどこか見覚えがあることに気づいた。


 ──ロミリアお義母様?


 何か自分が見てはいけないものを見ているような気がして、クラウディアは息をひそめる。


 そのままじっと見ていると、人影はもう一つ増えた。クラウディアはなぜ自分でもそうするかよくわからなかったが、何かに背を押されるように中庭に向かう。


 ・

 ・

 ・


「そうなのですか、イザベラ様が? それでしたら私にはお断りなんてできませんわね。」


「──────」


「いえ、私はむしろ望む所なのです。これはイザベラ様にもお伝えしていただきたいのですが、あの女の母というのがなんとサルーム王国の出身なのです。つまり、あの女はサルーム人の血を引くということですわ……ええ、ええ!そうなのです。それにしても吃驚いたしましたわ。穢れた血の女がまさかよりによってリオン殿下に擦り寄っていたとは!」


「──────」


「あら、失礼あそばせ。それで私は一体どうすれば……なるほど、カウフマン商会に手紙を届けさせれば良いのですね。手紙の内容は……はい、はい、わかりましたわ。それにしても本当にせいせい致しますわね。もうあの女の顔を見なくて済むと思うと」


 ◆


 クラウディアはそれなり以上に聡明だ。


 だから、自分が父親からどのような役割を期待されているかを理解してしまう。


 ロミリアが自分のことをどうしたいと思っているのかも。


 ──これまでロミリアお義母様には動く手段がなかった。でも……


 クラウディアは布団の中で唇をかみながら震えていた。


 聡明であろうが何であろうが、まだ成人していない少女なのである。


 今この瞬間にも、ロミリアがカウフマン商会への手紙を届けろと言ってくるかもしれないと思うと怖くて仕方がなかった。


 ──そうなったら、私は……


 クラウディアは死にたくなかった。


 これまでは自分の人生に光明を見いだすことができなかった彼女だが、今はそうではない。


 クラウディアの脳裏には一人の青年の姿が映し出されている。


 自分とは一緒には絶対にならないだろうということは分かっているが、遠くから見ているだけでも心が温かくなるのだ。


 たったそれだけのことなのに、死にたくない理由となる。


 クラウディアは湿ったため息を漏らし、諦めるにはまだ早いと唇をかんだ。


 窓の外で鳥の鳴き声がする。


 クラウディアはビクリと肩を震わせ、夜の闇を見通すように2階の窓から中庭を凝視した。もしかしたら下手人が直接やってきたかと思ったからだ。


 脳裏にリオンの姿を浮かべ、無理やり勇気を引っ張り出すクラウディアだったが……ほんの一瞬、雲の隙間から月の光が差し込んだ。


 その瞬間、クラウディアは確かにリオンの姿を見た。


 リオンもまたクラウディアの姿を見た。


 ◆


「こんな夜に済まない。で、でもまず話だけでも聞いてくれ……」


 リオンは努めて冷静に、自分が知ったことの全てを話した。


 そして、信じてほしいと懇願した。


 クラウディアは、自分でも驚くほどに冷静であることを少し面白く思いつつも、ほんの少しだけリオンに失望した。


 失望というのは少し違うかもしれない──がっかりしたというか、拗ねたというか、そんな感情だ。


 ──信じてほしいなんて。私がリオンの言葉を疑うって思ってるのかな


 そんなクラウディアを見て、リオンはますます焦りを募らせた。


 クラウディアがあまりにも冷静すぎるため、疑われていると思ったからだ。


 リオンはクラウディアの両肩を掴み、「冗談じゃないんだ」と詰め寄った。


 彼にしては珍しい乱暴な所作である。


 その時、クラウディアはある種の覚悟を決めた──といっても、極々自然に腹が据わってしまったのだが。


「……私はロミリアお義母様やイザベラ様のために死ぬのは嫌。私は生きていたい。でも、どうしても死ななければならないのなら、リオン、私はあなたのために死にたい。……私をイザベラ様の所へ連れていって」


 クラウディアのそんな言葉に、今度はリオンの覚悟が決まった。


 クラウディアと同じように、極々自然に腹が据わったのだ。


「クラウ、君はいつかサルーム王国へ行ってみたいと言っていたね。僕も行ってみたいんだ。だから、行こう、一緒に。家族も、このホラズム王国も……全部捨ててくれ。僕のために」


 クラウディアは目を見開き、そしてくすりと笑った。


 それに狼狽えるのはリオンである。


 何せ一世一代の賭けだったのだ。


 だが、クラウディアが笑ってしまうのも当然だった。


「あなたのために命すら捨てると言ったのに、今更愛してくれない家族や国を捨てろと言われても」という気分だったからだ。


 ・

 ・

 ・


 その夜、一組の男女がホラズム王国から消えた。


~~~


 ◆


 サルーム王国では古くから精霊信仰が根付いている。


 精霊が万物に宿るとされ、人々は彼らに畏敬の念を抱きつつ共存してきた。


 ちなみに隣国ホラズム王国では一神教が広まっており、このためサルーム王国とは宗教的・文化的な違いが原因で、国交はあるもののしばしば緊張関係が生じている。


 とまれ、こういった国の気風も相まって、サルーム王国の人々はよそ者に対して寛容な面がある。


 ・

 ・

 ・


「こっちの生活にはもう慣れた?」


 その日の夜、質素な食卓を囲みながらクラウディアがリオンに尋ねた。


「慣れるもなにも、僕はサルームの方がどちらかといえば過ごしやすいかな。ここの人はみんな親切だからっていうのが大きいのかもしれないけど」


「リオンは友達がいなかったもんね」


「クラウ、それは君もじゃないか」


 二人は軽口を叩きながら談笑している。


 二人がサルームで暮らし始めてすでに数か月が過ぎていた。


 リオンは街の建築業に携わるようになり、毎日忙しく働いている。


 建築の仕事は体力だけでなく、緻密な計算や設計の理解が求められる。幸い、リオンは学園や王族の教育で培った高い教養を持ち、数字にも強いため、職場では重宝されていた。


 一方、クラウディアは商会に雇われ、商取引に従事している。ダグラスから商家の娘としての最低限の教育を受けてきたことが幸いしたのだろう。


 サルーム王国では、よそ者や流れ者であっても職に就けるよう、職業斡旋の政策が広く行き渡っている。これも二人にとっては幸運だった。


「シーン、ごはんはもう食べたでしょ?」


 二人が話していると、クラウディアの脚に猫がまとわりついてくる。


 シーンと名付けられたその猫は、闇夜のように黒い毛色の雌猫だ。


 この猫は、二人に斡旋された住居の「先住民」で、本来ならば追い出されるはずだったが、クラウディアの提案によりこうして飼われることになった。


 リオンはシーンに構っているクラウディアを見て、自分たちは本当に幸運だったと心の底から思った。


 ──まさか住まいまで世話してくれるなんてな


 サルーム王国は人の出入りが多い。そして、人が一所に住まうためには住居が必要だ。しかし、しっかり管理しないと国の至る所に使われていない住居ができてしまうという問題もある。


 サルーム王国はその点をうまく管理しており、他国からの移住者にこうして使われていない住居を手配することもしている。


 もちろん、よそ者なら誰でも無差別に世話を焼くわけではない。最低限の信用が必要だが、そこはクラウディアの母であるスィーラの名前が役に立った。


 スィーラを知っている者がいたのだ。


「そういえば裏の……」


 リオンがふと思い出した様に口を開いた。


「あ、うん。ジャハムさんに聞いてみたけど、やっぱり立ち入りはできないんだって。精霊の森?……っていう特別な土地らしくって」


「そうか、だったら仕方ないね。あれだけの森なら、きっと実りも豊かだろうから食卓も少し豪華になるかなとおもったんだけれど。畑を作ってもよさそうだし」


 ジャハムとは 近所に住んでいる人形細工師の老人だ。


 本人曰く70を 過ぎているということだが、 とてもそんな風には見えない活力に満ちた男性だった。


 木工細工師としてサルーム王国ではそれなりに名が知られており、 二人も何かにつけて世話になっている。


 ともあれ、凡そ出来すぎな程あらゆる幸運に恵まれた二人は、今のところ幸せに暮らせていた。


~~~


 ◆


 ある日の夕暮れ、ちょっとしたアクシデントが起きた。


「おっと危ないよ、お嬢さん」


 ジャハムはそう言うなり、猫のシーラを抱き上げた。


 次の瞬間、馬車が土煙を上げて通り過ぎる。


 もしジャハムがシーラを抱き上げていなければ、シーラは哀れ地の染みとなっていただろう。


「シーラ!」


 二人が血相を変えてジャハムに駆け寄る。


 シーラはジャハムの腕の中で丸くなり、ゴロゴロと喉を鳴らしていた。


「あ、ありがとうございます!」


 リオンが頭を下げると、ジャハムは苦笑しながら手を振った。


「いいんだ、いいんだ。でもな、この辺は気を付けたほうがいい。この国も最近は賑やかになってのう。ああいう風に馬車の行き来が増えてきた」


 特に、とジャハムは家の前の通りを指さす。


 ジャハムの指──骨に皮膚が張り付いたような、水気に乏しいその指が、リオンにはどこか魔女の指のように見えた。


「特にこの大通りは危ない。猫のお嬢さんは夕暮れや朝、馬車が行き来する時間帯は家から出さないほうがええな」


 ジャハムの言葉にリオンとクラウディアが神妙な様子で頷くと、ジャハムは二人にシーラを手渡し「それではな」と去ろうとしたが、思い出したように振り返って言った。


「そうだ、クラウディアさんにはもう伝えたことじゃが……裏の森な、あそこには立ち寄っちゃいけない。別に国が決めたことじゃないからの、入ろうと思えば入ることはできる。ただ、儂はお勧めしない。あの森の精霊は儂らの最後の願いを叶えてくれる。しかし、ただ叶えてくれるだけじゃあないんだ。だから……起こしちゃならんのよ」


 ジャハムは目を細めて、森を睨みつけていた。そして今度こそ、手を振って去っていく。


 残された二人はどちらともなく顔を見合わせた。


「……気を付けなくっちゃ、ね。シーラのことも、森のことも」


 クラウディアの言葉にリオンは頷いた。


「ああ。それにしても……どこから出ていったんだろう?扉を開けて出ていったわけじゃないよな。締め忘れたか……?」


 リオンはシーラに鼻を付き合わせて、わずかに眉をしかめて言った。


 空は暗い。


 もう夜だ。


 月が翳っていた。


 ◆


 ホラズム王国では、太陽は命の象徴として考えられている。


 間違った考えではない。


 太陽の光がなければ、生物は生きていけない。


 しかし、その光が強すぎれば他の命を傷つけることもある。


 ・

 ・

 ・


「それで、弟の行方は?」


 ホラズム王国第一王子──太陽の王子ことエドワードは静かにそう問いかけた。


 ここはエドワードの私室である。


 そしてこの場には、エドワードと数名の男たちがいた。


「足取りを辿るに、サルーム王国へ」


「同行者がいるようです」


「第二王子殿下につきましては、サルーム王国で、その……市井の暮らしをされているようです」


 男たちは口々に集めてきた情報をエドワードへ伝えた。


 その間、エドワードは目をつむり、情報の一つ一つを吟味していた。


 少なくとも、かどわかされたわけではないことに安堵を覚える。


 とはいえ疑問もあった。


 なぜ弟は逃げ出したのか。


 ホラズム王国のリオンの暮らしぶりを考えてみるが、見当がつかない。


 リオンはホラズム王国の王族として、それなりの暮らしをしていた。


 豪勢な食事、きらびやかな衣服。


 リオンは読書を好んでいたが、もしその気になれば、このホラズム中の書物を読み漁ることだってできただろう。


 ──しかし、国を捨て、婚約者を捨て、家族を捨てた


 もしもエドワードに他者に対する共感性のようなものが少しでもあれば、リオンがホラズム王国を去った理由がわかったかもしれない。


 だが、エドワードにそんなものはなかった。


 太陽は天空にあり、何よりも眩く輝く。


 ゆえに周囲の小さな光の一つ一つに気づくことができない。


「リオンはサルーム王国でどのように暮らしているのか」


「は、どのように、とは……先ほどお伝えした通りですが……」


 男の一人がそう言うと、エドワードはわずかに眉をひそめた。


 すると男はまるで天から降り注ぐ陽光の一条が、光の針となって自身に突き刺さったのような感を覚えた。


「幸せか、不幸か、ということだ」


 ここでようやくエドワードの言わんとすることがわかった男は、「少なくとも不幸には見えません」と答える。


 個人の幸せや不幸は個人の主観によるところが大きく、第三者が軽々に判断できるものではない。


 しかしこの諜報員の男の目から見ても、リオンはホラズム王国で暮らしていた頃より多くの笑顔を浮かべていた。もっとも、「王国にいた頃より幸せそうでしたよ」とはさすがに言えなかったが。


 すると、エドワードは小さく「それならいい」と答えた。


「弟が()()暮らしているか、はもうよい。次は()()暮らしているかを洗え。行け」


 エドワードの言葉に、男たちは次々退室していく。


~~~


 ◆


 月が満ちれば、いずれは欠ける。


 どんなことにもきっかけというものはあるのだ。


 二人にとっての「そのきっかけ」は、ジャハムがもたらした。


 ・

 ・

 ・


 ある日の夕暮れ。


 リオンがその日の仕事を終えて帰ろうとすると、「リオンさん、お客さんが来ていますよ」と声がかかる。


 リオンはこの日、現場ではなく内勤として働いていた。いくつかの建築物の設計の仕事を頼まれていたのだ。


 そして、やや足早に出口まで行くと、そこには見慣れた姿があった。


 ジャハムである。


 この老人が自分の職場までやってきたのは、今までなかったことだ。一体何の用だろうと逡巡するリオンだが、少なくとも良い話ではないなとジャハムの様子を見て察した。


 ジャハムの佇まいは一見して重く、普段はピンと張った背筋が、今はわずかに前に沈み込んでいる。まるで湿った分厚い憂鬱のベールをまとい、その重さに耐えかねているようだった。


 ◆


「話がある。その、シーラのことなんじゃが」


 職場からやや離れた場所で、ジャハムはそう切り出した。


 リオンの勘は当たった。


 やはり悪い話だったのだ。


 ジャハムによれば、シーラが死んだという。


 大通りで、馬車にひかれて。


 運が悪かったのはその日クラウディアも勤めている商店の仕事が長引き、留守だったということだ。


 どちらかが居ればこの悲劇は防げたかもしれない。


「そうですか。しかし、シーラは家に……それにドアも窓も、しっかりと閉めていたと思うんですが。もちろん、餌はちゃんと用意してありました」


 自分でそう言って、瞬間、リオンは以前クラウディアと話したことを思い出した。


 ──精霊はね、恩恵を与えるだけじゃなくって悪戯をするときもあるらしいの。勝手に扉を開けたり、窓を開けたり。大した悪戯じゃないけれどね。自分はここにいる、って人間に伝えている……って話よ


 まさかな、と思う。


 王国では精霊信仰が盛んだが、実際に精霊が存在するという確固たる証明はされていない。


 サルーム王国民でさえも、一種のおとぎ話だと思っているのだ。


「猫は……ほんのわずかな隙間から外に出ることもできる。シーラもきっと、どこか私たちが想像もつかない場所から抜け出したのかもしれん。それにしても、気の毒なことじゃ。……クラウディアも悲しむじゃろうな」


 ジャハムの言葉にリオンは頷いた。


 そして、伝えてくれたことへの礼を述べようとしたが、黙り込む。


 なぜなら、ジャハムがまだ何かを言いだしそうにしていたからだ。


 言うべきか言わないべきか悩んでいる、そんな気配を感じる。


 すると、


「生きているものは」とジャハムが口を開いた。


「生きているものは、いずれは死ぬ。死ぬべき時に死ぬ。しかし、死ぬべきでない時に死んでしまうものもいる。そんな者たちを、精霊は憐れむ。そして、機会を与えてくれる……然るべき場所で、然るべきやり方をもって祈れば」


 言葉の一つ一つにトゲが生えているとでも言ったように、ジャハムはどこか苦しそうに続けた。


「時も、重要じゃ。早ければ早いほど良い。命の精霊が抜け出してしまう前に、それをするんじゃ」


 ジャハムが一体何を言っているのか、リオンにはよくわからない。


 機会とは何か、それをするとは一体何をすることを意味するのか。


 気になることはたくさんある。


 しかし、それらを聞いてしまえば後戻りできなくなる、そんな思いも抱く。


「…………シーラを、埋葬せねばな」


 ジャハムの言葉は助け舟だった。


 少なくとも、あのまま彼の言葉を聞いているよりはずっと良かった。


 ──そうだ、シーラを埋葬しなくてはいけない。でも場所はどこに……。決まった場所があるのだろうか、どこでも構わないということだったら家の近くがいいだろうか。シーラは乾かした果実が好きだった……墓の前に置いてやろう


 リオンがそんなことを考えていると、ジャハムが再び口を開いた。


「然るべき場所がある。そこに埋めよう。シーラのお嬢ちゃんが引かれたのは、ついさっきじゃ。早ければ早いほど、良い」


~~~


 ◆


「この森は、昔からある。ずうっと昔からある。サルーム王国が存在しなかった時代から。そしてそんな時代、この土地には我々の先祖が住んでおった。彼らは精霊と寄り添い、共存してきた。精霊を祀り讃え、逆に精霊の力を借りても来た」


 ジャハムとリオンは精霊の森へ足を踏み入れ、奥へ奥へと進んでいった。


 道のりは険しい。


 全く人が踏み入っていないことは明らかだった。


「もう少しじゃ。なかなか大変な道のりじゃが、これもまた祈りの一つの形。祈りは言葉ではなく所作に宿る……」


 まだジャハムが何を言っているのかわからなかったが、それでもリオンはジャハムの背を追う。


 引き返すチャンスは多くあったが、リオンは不思議とそうしようとは思えなかった。


 それはジャハムから発される妖気のような気迫に気圧されていたからかもしれない。


 それに、シーラを精霊の森に埋葬するというのは良い案のように思えていたというのもある。


 シーラは猫でペットであったが、家族でもあった。


 少しでも良い場所で安らかに眠ってほしかった。


「もう少し、この丘の頂上じゃ。我々の先祖は特別な祈りを捧げる時、こうして苦難の道を歩んできた。これは必要なことじゃ。道中が苦難に満ちていれば、あるいは途中で心変わりをするかもしれん。それでもまだ決心が変わらなければ、その時は……」


 そしてジャハムとリオンは息を荒げ、最後の坂を登り切った。


 ・

 ・

 ・


 二人がたどり着いた場所は、少し小高い丘の上で、そこからはサルームの王都を一望できた。


「良い場所ですね」


 たどり着くまでに苦労したこともあり、リオンは心からそう思った。


 ジャハムは「まあの」と短く答えるが、すぐに自身の言を訂正した。


「良い場所か悪い場所かはまだわからん……()()から随分と時間も経った。犬や猫ならば、()()()じゃろう」


「すみません、ジャハムさん。一体何のことを言っているのかわからないんですが……シーラを埋めに来たんですよね?」


 やや焦れた様子でリオンがそう言うと、ジャハムは頷いた。


「そうじゃ、埋めるんじゃ。リオン、お主が自分の手で」


 ジャハムの指が穴掘り道具を指さしてそう言う。手伝う気はないようだった。


 ──まあ、ご老体だしな


 そう思いつつ、リオンは道具の柄に手を掛け、地面を掘り起こす。


「か、硬いな……まるで石を掘ってるみたいだ」


 呻くように呟くリオン。


 地面は土とは思えないほどに異常に硬かった。


 強く叩きつければ火花でも出るんじゃないかというほどに。


 思わずジャハムの方を見たリオンは、ぎょっとする。


 ジャハムは真剣どころではなく、怨敵を睨みつけるかのような凄絶な気迫で地面を睨みつけていたのだ。


 まるで地面の中に何か邪悪なものが潜んでいて、ジャハムがそれを威圧し、この世界に出てくるのを抑えつけているような……そんなことを考えてしまう。


 とはいえ考えていても仕方がないため、リオンは必死で手を動かす。


 土を掘り、掻き出す。


 掻き出しては、土を掘る。


 ◆


 リオンが穴を掘り切った時、彼は既に満身創痍といった様子で、怪我はしていないのに全身をまんべんなく打撲したような気がしていた。


 正直、まともに歩けるとは思わなかったが、穴の近くにいるシーラの遺体を見ると、まだどこにそんな力が残っていたのかと思えるほどに力が湧いてきた。


 シーラは所詮猫に過ぎない。


 移住してきたばかりの二人を直接的に助けることはできない。


 それどころか世話の手間もかかるし、いってしまえば足手まといですらあった。


 しかし、シーラの存在は二人を目に見えない部分で支えてくれたのも事実だった。


 ──夜、布団に入ってきてくれたっけな。シーラが完全に眠った時はすぐに分かった。彼女はとても暖かくなるから


 冷え込んだ夜、クラウディアと抱き合い体温を分け合って眠っても、心細さは拭えなかった。


 異国の地で二人ぼっち、頼る相手もいない。


 近所の人たちは二人に優しく接してくれたが、他人は他人なのだ。


 そんな中、シーラという小さく暖かい命が寄り添ってくれることで、夜闇の冷たさが少しだけ紛れた気がした。


 リオンはシーラを抱えると、ゆっくりと穴の底へ横たえる。


 そして最後の別れを告げ、土を被せていった。


~~~


 ◆


「リオン!!どこに行ってたの!?心配したんだから!」


 心配もするだろう、すでに夜も更けている。


 ただリオンはこれに対する言い訳も考えていた。ジャハムの具合が急に悪くなったということで面倒を見ていたと答えよう。ジャハムももし聞かれたら、そのように話を合わせてくれるだろう。


 ただ、奇妙なのは──


 ・

 ・

 ・


「良いか、リオン。シーラの嬢ちゃんが死んでしまった事は悲しいが、重大な事だ。クラウディアに伝えないわけにはいかないじゃろう。しかし、お主から伝えるのは1日待て。そうじゃな、明日……太陽が中天へ昇る少し前くらいまで。それから後なら伝えても良い。もしクラウディアからシーラの嬢ちゃんはどこへ行ったのか聞かれたら、どこかへ抜け出してしまったとでも答えろ。理由は、聞くな。もしも明日、さっき言った時刻まで何も起こらなければ、儂からクラウディアへと伝えよう」


 なぜ時間を置かなくてはいけないのか、リオンにはよくわからなかったが、1日程度なら誤魔化せるだろうとは思った。ジャハムは何も話してくれない。それに対してリオンが不満を抱かなかったと言えば嘘になる。


 ──でもこの人は、僕たちがこの国に来て右も左も分からなかった時、何も事情を聞かずに助けてくれた。


「分かりました。でも、明日になったら必ず理由を聞かせてくださいよ。本当は気になって仕方がないんですから」


 リオンが冗談交じりに言うと、ジャハムは奇妙な笑みを浮かべた。その笑みの出所をリオンは考えたが、どんな感情が込められているのかよくわからなかった。


 ・

 ・

 ・


「そういうことだったのね……ええと、ジャハムさんは、その、大丈夫なの?」


 クラウディアは心配そうに言う。


「ああ、幸い命に別状はないよ。こういうことはたまにあるって言っていたよ……まあこんなこと本人には言えないけど、実の所、もうかなりのご高齢だからね」


「失礼なこと言わないの! ご本人がいないところならなおさらよ。ジャハムさん、まだまだお若いんだから、年寄り扱いされたらきっと怒るわよ」


 クラウディアに叱られてしまったリオンは素直に謝る。


「ところで、シーラが見当たらないの。リオンが出かける時には居た?」


「あ、ああ。いや、どうだったかな……朝はいたから、もしかしたらどこかへ散歩しに行ったのかもしれない……この前もそうだったけど、猫ってほんの小さい隙間から抜け出してしまうらしいね。夜の間は馬車の行き来もないから、この前みたいな事はないと思うけど……」


 リオンはそれらしい言い訳をしてみたが、クラウディアは疑念とまではいかないものの、違和感のようなものを感じ取っているようだった。


「そう……心配ね。明日の朝になっても戻ってこなかったら、探しに行ってみようかしら」


「そうだね、それがいい」


 こんなことで誤魔化せるのかと思いながらも、リオンはとりあえずジャハムから言われたようにクラウディアに伝えた。


 ──嘘をついていたことがバレたら、余計にショックを受けるんじゃないだろうか。


 リオンの不安は募っていく。


 ◆


 翌日、リオンの心配は彼が全く想像していなかった形で裏切られることになる。


 ・

 ・

 ・


「シーラ!心配したんだから!」


 朝、朝食を済ませた二人は、扉をカリカリとひっかく音を聞いた。クラウディアは勢いよく椅子から立ち上がり、玄関へ駆け出していく。リオンは「まさか」という思いでクラウディアの背を見つめていた。


 もしそうだったとしたら、という思いがリオンにはあった。


 もちろん喜ぶべきことなのだろうが、素直に喜べるかどうかリオンには分からなかった。


 果たして扉の向こうから姿を見せたのは、馬車にひき殺されたはずのシーラである。


 しかし、リオンの記憶にあるシーラとは何かが違うような気がした。


「一体どうしたの!?こんな泥だらけになって……それに、この匂い、う、ちょっとヤンチャしすぎじゃない?」


 リオンの鼻を悪臭が突く。


 形容しがたい臭いだった。肉が腐ったような臭いが一番近いだろうか。


 耐えがたいというほどではなく、100のうちの10程に混じっているような、我慢しようと思えばできる程度の臭いだ。


 ──何がどうなっているんだ。シーラは確かに死んだはず。僕はあの子の頭が割れているところを見たんだぞ。


 ドッドッドという音が聞こえてくる。


 リオンは我知らず自身の胸を押さえた。音は彼の中から鳴っていた。


 ◆


「話を聞かせてください、ジャハムさん。今朝、シーラが戻ってきました。埋めたはずなのに。それとも実は生きていて土の中から這い出してきたとか……いや、それはない。シーラは確かに死んでいた……」


 その日の夜、リオンはジャハムに「酒の相手として呼ばれている」という体で家を出た。クラウディアは酒を飲まないし、男同士の付き合いもあるということで納得している。


 ジャハムは「そうじゃなあ」と力なくつぶやき、木杯に酒を注いでリオンに手渡した。


 そして自分の杯にも酒を注ぎ、一息にそれを飲み干してから、重そうに口を開いた。


 ・

 ・

 ・


「儂は昔、オジーという犬を飼っていたんじゃが──・・・」


 ジャハムの話はリオンにはにわかには信じがたかった。


 オジーは元々優しく穏やかな犬だったということ。


 そんなオジーがある日、馬車に轢かれて死んでしまったということ。


 妻を失くして以来、失意のジャハムを支えてくれたオジーの死で、ジャハムが大きく落ち込んでしまったということ。


 それを見かねた友人──この街の古老の一人が、「精霊の森」のことを教えてくれたということ。


「じゃあ、ジャハムさんも僕と同じ様に……」


 リオンが言うと、ジャハムは苦笑を浮かべて頷いた。まるで過去の過ちを告白する時のような、自嘲の笑みだった。


「オジーが死んでから3日だったか、4日だったか。儂は腐りかけたオジーを荷駄袋に詰め込んで、森の事を教えてくれた友人──コトリの案内に従って、あの丘にオジーを埋めた。そして翌日、オジーは生き返った。ただそれは、オジーであって、オジーじゃなかった」


 リオンは息を呑む。


 ──オジーであってオジーじゃない、それはつまりシーラにも……?


 リオンの心を読んだようにジャハムが続けた。


「前にも言ったが、時間が重要らしい。オジーは時間をかけすぎた。遅かったんじゃ。少なくとも……コトリの奴はそう言っておった」


「オジーはどうなったんですか?」


 リオンが尋ねると、ジャハムは再び先ほどの笑みを浮かべて答えた。


「とんだ悪たれになっておっての。滅多に吠えたりせず、知らない者がやってくると怯えて儂の後ろに隠れるような、そんな臆病な犬だったんじゃが……。そう、本当に悪たれになっておった」


 ジャハムはそう言って袖をめくる。


 腕には噛み傷と思われる古傷が残っていた。


 よほど強く深く噛まれたのだろうことが、年を経てもよくわかる、そんな傷だった。


「最期は儂の手で殺した。今は家の裏で静かに眠っておるよ」


~~~


 ◆


 もはやジャハムの言葉を疑う余地はない。


 なぜならシーラは実際に生き返ってきたからだ。


 しかし、不安もある。


 それからしばらく、リオンはシーラの様子を注意深く観察した。


 シーラが本当にシーラなのか、それとも違う何かなのか。


 見ている限りでは、さほど違いがあるようには見えない。


 ──この臭い以外は。


 リオンは内心で顔をしかめる。


 ふとした瞬間に、シーラの匂いが漂うのだ。


 腐った肉の匂い、墓場の匂い、死の匂い。


 生き返ったシーラは、以前のように夕食の時にクラウディアの足にまとわりついたりはしなかった。


 食卓から離れた場所で、黙々と餌を食べている。


 最初、クラウディアはそんなシーラに怪訝そうな様子を見せていたものの、やがて気にするそぶりを見せなくなった。


 シーラに対する愛情はなくなってはいないようだったが、以前のように文字通り「猫可愛がり」することもない。


 撫でたりする回数もだいぶ減った。


「うぅん、その……ちょっと匂いがね。どこで遊んできたのかわからないけど、あの日以来、いくら洗っても匂いが取れなくて。あの子自身も参ってるんじゃないかしら、自分の体からあんな匂いがするのよ?」


 クラウディアの言葉にリオンも同意した。


 もし単に生き返っただけで、シーラがシーラのままなら、自分の体からあんな匂いがしてきたらうんざりしてしまうだろう。


「臭いって一度つくとなかなか取れないものだし、少し時間がかかるのかもしれないね」


 リオンがそう言うと、クラウディアは「早くあのお日様みたいな匂いに戻ってほしいな」と疲れたように笑った。


 ・

 ・

 ・


 シーラが戻ってきてから数日がたった。


 匂いはいまだにする。


 だがその匂いにも慣れてしまったのか、リオンもクラウディアも当初ほど嫌悪感を感じないようになっていた。


 その代わりに、気になることが一つ増えた。


「最近、シーラの目が気になるのよね」


 目。


 そう、リオンも同じことを思っていた。


 シーラの目つきに何か含みがあるような気がする。


 ふと気づくと、じっとこちらを見ているのだ。


 その目つきがどこか虫を思わせるものがあって落ち着かなかった。


 この時にはもう、寝室にシーラが入らないように扉を固く閉じて眠るようになっていた。


 それともう一つ、シーラのこととは関係なしに気になることがあった。


 クラウディアはまだ気づいていないが、ここ最近、見慣れない者たちが二人の家を窺っているのが、どうにもリオンには気になって仕方がなかった。


 ──気のせいなら良いんだが。


 リオンは改めて自分たちの立場を思い返さざるを得なかった。


 もしかしたら、という危惧がある。


 その夜、リオンはクラウディアに真剣な様子で自分の考えを伝えた。


「クラウディア、ここ最近妙な者たちが家の近くを徘徊している。もしかしたら、ホラズム王国からの追手の可能性もある。僕らは自分で言うのもなんだが、ホラズム王国ではさほど重要な立場にはなかったから軽く見ていたが、考えてみれば、例えば僕の元婚約者などからすればメンツを潰した張本人だ。しばらく注意をした方がいいかもしれない」


「……そうね、リオンの言う通りだわ」


 クラウディアは不安そうに答え、その肩をリオンが抱き寄せた。


~~


 ◆


 シーラのこと、そして自分たちの周辺を探る見知らぬ者たち。


 リオンは自分たちの幸せが明確に揺らいできているような気がしていた。


 しかし、その少なくとも一方はすぐに解決する。


 ある晩、どうにも眠れなかったリオンは夜風に当たるため外に出た。


 その時、家の近くに二つの人影があったのだ。


「お前たち、そこで何をしている?」


 リオンの声には、ホラズム王国で王族だった時には決して発することのなかった威圧感が滲んでいた。


 聞く者を畏れさせるそれは、ほんのわずかな瞬間、人影の両の脚を大地へと縛り付けた。


 ややあって、人影の片方がゆっくりとリオンの方へ歩み出てくる。


 ──刺客か!


 リオンは腰を低く落とし、武器になるようなものがないか視線を素早く地面に走らせた。


 しかし、リオンの予想は半分は当たり、半分は外れた。


「構えなくても結構です、敵意はありませぬ。我々はエドワード殿下の私兵です。殿下より命を受け、リオン様の様子を伺っておりました。しかしお見事ですね、我々は今日この時まで、リオン様に気配を悟られることがないよう努めていたのですが。外にいた我々の気配に気づいたのですか?」


 人影は確かにホラズム王国からの追手のような者たちだったが、彼らは刺客ではないというのだ。


「偶然だ……それより貴様のその言葉を易々と信じると思うか」


 リオンの声は刺々しい。


 確かに信じる理由はなかったが、心の中はどうかそうであってくれという思いでいっぱいだった。


「信じてほしいところですが、難しいでしょう。エドワード様から金子を預かっております。生活の足しにしろ、とのことです。……あの方はあの方なりに、リオン様を想っておいででした。それは一般的なそれよりも希薄なものかもしれませんが、それでも情は情です。どうぞリオン様につきましては、あの方をお恨みになることがありませんように」


 男はそう言って懐から小袋を取り出し、地面へと置き、ゆっくりとその場から立ち去っていった。


 リオンはしばらくその場から動かなかったが、しばらくしてゆっくりと小袋を拾い、封を解いてみる。


 中には色とりどりの宝石が詰まっていた。


 ・

 ・

 ・


 クラウディアはいつの間にか起きていた。そして隣にリオンがいないことに気づき、外に出ようとしたら、リオンが人影と対峙しているところを見つけたのだ。その場で飛び出そうとしたクラウディアだったが、自分が変に刺激してしまうとより剣呑な状況になってしまうかもしれないと、決定的な瞬間までは飛び出すのを我慢していたということがあった。


 リオンはクラウディアに先ほどのことを説明した。


「そういうことだったのね。エドワード様が……」


 クラウディアは安堵した。


 リオンを想う者が自分だけではなかったことを。


 そしてもちろん、刺客という線が消えたことも。


「いつか、兄上に会う様なことがあれば謝罪をしなければならないな」


 リオンが言うと、クラウディアは笑う。


「エドワード様は遠目に見たことがあるけれど、あまり感情を出さなそうな方だったけれど、そういう人のほうが怒った時怖いのよね」


 確かに、とリオンはエドワードが激怒したところを想像する。


「ちょっと笑えないよ。まあ僕は兄上から怒られたことはないが……説教を受けたことならあるんだ。無表情で淡々と言葉を重ねてくるあの怖さは、説教を受けた者にしかわからないだろうね。説教でそれなら、本気で怒られたらどれほど怖いのか……」


 寝室の夜陰に、二人の笑い声がひそやかに響く。


 ◆


 翌日、仕事を終えてリオンが帰宅した時、寝室でクラウディアが死んでいた。

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