第十六話「西郷の逡巡」
江戸薩摩藩邸の一室で、西郷隆盛は一人沈思黙考していた。
西郷は朝廷方を代表して、幕府方の代表である勝海舟を会談をしていたが、長引いて現在休憩中である。薩摩藩の西郷隆盛といえば、その胆力は世間に知られ高く評価されているところである。だが、勝海舟もそれに劣らない。劣勢な幕府方であろうと、一歩も譲らない議論を繰り広げる事になった。
もっとも、議論とはいっても方向性は既に定まっている。江戸に不要な戦火を広げない事は最優先事項として二人の間で共通の認識が構築されているし、徳川慶喜はその命までは取らない事でも一致していた。
西郷は、薩摩藩の下級武士の家に生まれた。貧しい者の気持ちはよく理解する所である。そして、薩摩藩は日本各地の諸藩の中でも、重税で知られる藩である。百姓は収穫した米の半数以上を年貢として納めねばならず、日々の暮らしは困窮していた。西郷家は武士としては貧しい方であったが、それでも百姓よりはましであった。これは、郡方勤務で村々を巡っている時に痛感したものである。また、薩摩が支配する南方の島々は本土の農村より更に過酷な仕打ちを受けていた。これは流刑時代に身をもって体感し、何とかせねばと心に決めていた。
そして何とかしなければならぬと決意したのは、何も薩摩藩の村々だけではない。日本に生きる全ての民のためを思っていた。だからこそ、それを阻む旧勢力として幕府を倒す活動を繰り広げ、今日に至ったのである。であるため、江戸に生きる民に無用な被害を出す様な戦いはしたく無かったのだ。
もっとも、恨み重なる幕府など、完全に力で抹殺するべきだと考えている者は、朝廷にも長州にも多い。西郷に心酔する薩摩藩の侍にも多いだろう。そのため、彼らを納得させるべくなるべく有利な条件を突きつけたりと、勝海舟と議論を深めて来たのだ。これは上手く進み、このままなら江戸城無血開城や、徳川家降伏の条件がまとまるだろう。
元より西郷は、勝海舟とは面識があった。海舟は大言壮語する性質なのでその部分は西郷から見て好ましくないのだが、時代の先を見据えた先進性のある知見や胆力は評価している。また、零細御家人から蘭学などの知識を生かしてのし上がったと聞いているが、派手な様でいてどことなく町人の様な素朴な気質を残している所は好印象であった。もしも彼が早々に徳川に見切りをつけ、朝廷側に寝返っていたとしたら高位の役職にありつけたであろう。
元々海舟は幕臣の中でも慶喜の派閥では無かったはずだ。それにも関わらず、こうして徳川を看取る役割を引き受けたのだ。見かけによらず義理堅いところもある。これは西郷にとって更に高評価であったが、これで新政府で重要な地位につく道は途絶えたといっても良いだろう。
惜しい事である。
そして、海舟と会合をしている時に、彼はもしも条件の折り合いがつかなければ、決戦に打って出る覚悟を持っている事に西郷は気付いた。単なる糞度胸ではなく、その裏付けがあるのだろう。
西郷は江戸に来る前、新政府の軍師とも言える長州の大村益次郎という男に、どの様に戦えば良いのか尋ねていた。
すると大村は、「江戸での市街地戦になったとしたら、必敗なので避ける様に。まあ、私が直接指揮を執ればべつですが」などとぬけぬけと言って来た。大村は元はと言えば長州の医者に過ぎない。それが、薩摩の大人物である西郷にこの様な事を言える立場ではないのだ。だが、彼の軍事的能力はずば抜けている。西郷は冷静にその理由を聞いた。
「江戸の入り組んだ地形では数に勝る幕府方が有利です。かといってこちらが大軍を揃えて突っ込んだとしても、市街地に火をつけられたら焼死するでしょう。幕府軍は地の利に乏しい我らと違うし、火をかける場所を自由に設定できます。我らが混乱している内に中枢を叩かれたら、まあ負けるでしょうね。まあ幕府にそんな事を出来る人物はそうはいないでしょうが」
「それでは、こちらは成す術が無いと言う事ではないか」
西郷としてはなるべく交渉で終わらせたいと思っているのだが、勝ち目が無いのでは交渉も上手くまとまらない。勝機を保ちつつ、交渉する事が重要なのだ。
「まあ戦術的に勝てない事はありませんよ。こちらから先に火をかけて、江戸中が燃え尽きた後に突入すれば、まあ西郷さんでも勝てるでしょうね。もっとも、そんな事をしたら統治が困難になるので、戦略的には拙いので私ならやりませんが。ああ、幕府軍が火を付けた様に見せかけて、その様な流言蜚語を流せば逆に幕府への江戸町人の信頼が失墜し、今後の統治がやりやすくなるかもしれませんがね。やりますか?」
西郷がその様な非道な手段に出れないのを見透かす様にして大村は言った。外道な策ではあるが、理には適っている。勝つだけならこれでも良かろう。だが、この様な手段に出れる西郷ではない。そして大村は更なる非道な策を言ってのけた。
「こんな手もありますよ。おそらく江戸を防衛できるだけの能力がある幕府軍の指揮官は、そう多くはありません。その者を会談か何かに誘い出し、その場で首を刎ねてしまえばそれでも勝てるでしょう。小栗上野介か、勝海舟か、その辺りの人間をばっさりやるのですよ」
ここまで言った大村は、西郷さんならそんな事は出来ないでしょうが、とまとめて立ち去った。
ここに来て、西郷の頭に大村の言葉が去来していた。勝海舟を殺してしまえば、おそらく統制のとれない幕府軍は西郷率いる新政府軍に成す術なく敗北するだろう。それで犠牲者は出るだろう。だが、後腐れが無くなる事は事実だ。対幕府強硬論者の中にも、その様な事を理由に主張する者はそれなりにいる。単に幕府への恨みだけで言っている訳ではないのだ。
西郷としては、これから出る犠牲者は少しでも減らしたいと思っていた。それは嘘ではない。
もしも勝海舟の首でかたが付くならば、それで良いのではとも思ってしまっている。西郷の名声も地に墜ちるかもしれないが、その覚悟は出来ている。西郷にとって優先すべきは民の幸せであり、謀略や暗殺で民の犠牲が最小限になるなら、例え外道な手段であっても排除はできない。
この様な考え方を西郷がしているのには、理由があった。
「どうした? 勝海舟を殺せば確実に勝利出来るではないか。その様にして相手が抵抗する力を奪わねば、必ずや反抗を受け、更なる戦乱が待っているぞ」
西郷が休憩をしている部屋に、突然来訪者が現れた。この人物こそ西郷が悩む理由を作った男である。その男は小柄な人物で、まだ日本では珍しい事に異人であった。奇妙な事に、その顔は仮面で覆われており素顔を見る事は出来ない。
「さあ、お前が出来ぬのなら俺の配下に手を下させても構わぬぞ。そして俺のギロチンで勝海舟の首を刎ね、次は徳川慶喜の首を刎ね、日本橋に晒してやろうではないか」
仮面の男の声は、西郷の胸に浸透して来るのであった。




