第十五話「価値ある首」
謹慎中の元将軍、徳川慶喜を狙った世界革命団の襲撃は、結論から言うと一瞬で制圧された。
襲撃の場は、徳川家の家臣が大勢警護につく寛永寺の中だ。本来なら敵対者が寺の敷地内に入る事すら困難である。敵はそこに、仏蘭西人という特性をいかして無理やり入り込み、起きるはずのない襲撃を成功させたのだ。その奇襲効果は凄まじく、慶喜を守る誰もが虚を突かれており、慶喜を殺害されたり連れ去られたりしても不思議では無かったはずなのだ。
だが、慶喜は平然と他人のふりを装い、「慶喜様を守れ」などとうそぶいて見せた。
日本の武士が名誉を重んずる事は、異人たちもよく承知している。体面を守るためなら、平然と腹を切る者すら大勢おり、それは異人たちにとってある種の尊敬の念を受けるとともに、不気味さも感じさせていた。そして、慶喜は将軍職こそ退いているが、武家の棟梁である事は何ら変わっていない。その慶喜が、名誉を投げ捨てて他人のふりをするなど、襲撃者たちにとっても思いもよらない事であった。
そのため、誰を目標にすれば良いのか判断が鈍り、その隙を吉直達警護の者に突かれたのであった。愛刀こそ手にしていなかったが、吉直もアンリエットも剛剣を振り回す膂力と技術はそのままであるし、処刑に携わる事で得られた精神力は普段のままだ。相手が動揺していれば、彼らの敵ではなかったのである。
そして、たまたまその場に居合わせていた町奉行所の同心である文吾も歴戦の強者であるし、高橋泥舟も武芸の達人であった。
これらの要素の積み重ねが、襲撃を失敗に終わらせたのである。
「どうだ? 私の演技は。中々のものであっただろう」
「慶喜様。先程の事は、絶対外で口にしない様に願います」
自慢げな慶喜に、側近の高橋泥舟が釘を刺した。慶喜は、朝廷の官軍との戦いのおり、奮戦する部下を見捨てて逃げ帰っている。この事は、慶喜の評価を下げるだけでなく、幕府の威信を大きく失墜させた。慶喜が上方に踏みとどまって率先して指揮をとれば、幕府軍が惨敗したという鳥羽伏見の戦いは違った展開だったのかもしれない。薩摩や長州といった雄藩の方が新式の武器や戦術を整えており、幕府軍は旧式だという印象があるが、それは一面的な見方に過ぎない。幕府軍にも仏蘭西式の軍事教練を経験し、新式の武器を装備した精鋭は揃っており、彼らが中心となって頑強に抵抗すれば、勝てはしなくとも負けはしなかっただろう。
もっとも、それは戦火を広げるだけの行為であり、それを避けるために慶喜は不名誉を覚悟で逃げ帰ったのかもしれない。
吉直には、慶喜の本質がどこにあるのか、読み切る事は出来なかった。だが、ひとまず慶喜の命を守り切れたことは喜ばしい事だ。今、勝海舟は西郷隆盛との会談中である。これが成功すれば、江戸城の無血開城が成り、江戸が戦火に巻き込まれる事は無くなるのだ。もしも、今慶喜の首が獲られたとしたら、幕臣の多くが報復のために西郷隆盛の首を獲りに蜂起した事だろう。流石にその様な偶発的かつ大規模な襲撃に対しては、薩摩藩といえど抵抗しきれるものではない。おそらく西郷隆盛は命を落とすだろう。
だが、西郷の首を獲ったとて時流が変わるものではない。戦いが激しくなるだけの話だ。西郷は薩摩藩でも下級武士の生まれながら、藩主に見いだされ、朋輩から慕われて薩摩を牽引する地位に至っている。その西郷が死ねば薩摩は幕府に属する者を根絶やしにするまで戦いを止めないだろう。そしてそれは主君である慶喜の首を討たれた幕府方もだ。
血で血を洗う悲惨な戦いを回避できたことは幸いである。
その様な事を考えた吉直であったが、ふと気になる事が考えに含まれている事に気付いた。
日本を戦乱の嵐に叩き込み、徹底的な革命を起こすための動乱を開始させるには、なにも慶喜だけが標的ではないのではという事だ。
「君たちが世界革命団だな。フランスからこんな遠くまで来て、私をギロチンにかけようなどとはご苦労な事だ」
捕縛された世界革命団の刺客に近づき、慶喜は仏蘭西語で尋ねた。まさか日本人が流暢な仏蘭西語で話しかけて来るなどとは思っていなかったのだろう。虚を突かれた彼らは皆一様に驚いた表情を見せる。慶喜が尋ねた事は当たりだったのだろう。アンリエットがこっそりと、慶喜の質問内容を吉直に伝えてくれた。
「で、誰がタンプル塔の亡霊なのかね?」
そう慶喜が聞いた時、刺客達がにやりと笑った。
「ふむ、どうやらこの中にはいない様だな。配下を危険に晒しておいて、自分は安全な所にいるとは上に立つ者の風上にも置けない人物の様だね。タンプル塔の亡霊とやらは」
鳥羽伏見の戦いの戦いで死んだ侍達が聞いたら、どの口がその様な事を言っているのかと憤激して化けて出てきそうな台詞を、慶喜は平然と言ってのける。棚に上げるとはまさにこの事であろう。もっとも、この様な態度こそがある意味人の上に立つ者に求められる要件なのかもしれない。いちいち自分の失敗を深く反省し過ぎていては、何も出来ないのだ。政治には失敗が付きまとう。例え成功しても、その陰にはいくつもの失敗が表裏一体として存在するものだ。それを考えるなら、慶喜こそが稀代の政治家と言えよう。
まあ、吉直は真似などしたくないし、仏蘭西流の政治を知っているアンリエットも、流石に引き気味であるのだが。
そして、挑発的な慶喜の発言を受けた刺客の一人は、挑発を返す様にして言い放つ。
「お前ごときを殺す任務で、我らの盟主は足を運んだりしない。自分にそんな価値があるとでも思っているのか」
この日本で、これ程までに無礼な言葉を慶喜に言い放った者などかつていないだろう。御三家たる水戸の血を引き、一橋の当主として幕政に携わり、つい先日まで将軍を務めていたのだ。誰もが慶喜を敬っていた。かつての大老井伊直弼の様に、政敵からは敵対的な行動をとられる事があったが、面と向かって面罵して来るような事は一度たりとも無かったのだ。
それでも、慶喜は怒り狂う様な事は無かった。自分に向けられた言葉の意味を理解しようとする。表面上、単なる挑発に過ぎない。だが、その裏には何か意味があるように感じていた。
「どう思う?」
すぐに考えがまとまらなかった慶喜は、吉直達周囲の者に考えを尋ねた。泥舟達はその意に答えようとするが、すぐに答えが思い浮かばない。元将軍であり、今でも徳川家の当主たる慶喜よりも、その首に価値がある様な者がいるのであろうか。
そして、吉直は周囲の者達の顔色をうかがいながら口を開いた。
「もしや、世界革命団の一番の標的は、慶喜様ではなく他の誰かなのではないでしょうか? 例えば、勝海舟様や薩摩の西郷隆盛を何者かが殺害、しかもその首が晒されたりしたら、江戸が消滅するような戦いが起きる事は必定です。
「ほう」
吉直の発言を聞いた刺客達の顔色が、一瞬だけ動いたのを慶喜は見逃さなかった。
「ふふ、元将軍の私より、価値のある首を持つ男がいるとはな。しかも、西郷隆盛や勝海舟の様な下級武士から成りあがった者とは」
慶喜は目をつむり、静かに呟いた。世の中の変革が、単なる権力者の交代ではなく本質的な部分まで及んでいる事を実感したのである。
「申し訳ありません。これから勝海舟様と西郷に危機を伝えてきます。もう遅いかもしれませんが、行かないよりはましです」
「分かった、行ってこい。絶対海舟達を守ってやるのだぞ。もし彼らが死んだら、巻き添えで私も間違いなく殺されるだろうしね。それに、江戸は終わりを告げるだろう」
慶喜の、どこに本意があるのか分からない激励を受け、吉直とアンリエットは会談の場所である薩摩藩邸へ向かった。




