序章「失われし断頭台」
パリ市はマレー・デュ・タンプル通りに、さほど大きくないが小綺麗な外観の家が一軒立っている。
本来この地域は人通りが多いはずなのだが、昨今海を隔てたアイルランド島を端に発するジャガイモ飢饉の影響を受け、フランスでも様々な食料の価格が高騰している。そのため人通りは少なく、辺りに人影は見えない。
いや、一人この家の前に立つ者がいた。
生地は古びているが、仕立て自体はそう悪くない服を着こんでいる。繰り返される政変で身を持ち崩す者が多いこのパリの町では、上等な部類であろう。
男は玄関を荒々しくノックし、中から迎い入れられて家の中に入って行った。
家の中は、古びた外見にそぐわぬ豪華な調度品や彫刻、絵画などが所狭しと並んでいた。これは驚くべき事である。
ブルボン朝が革命によって滅び、その後数十年に渡り何回も政権が覆るご時世だ。財産を蓄えるのは並の事ではない。普通は権力側から滑り落ちた時に財産没収の憂き目に遭うはずだ。もっとも、それは断頭台送りにならぬだけましという者であるが。
もちろん、今現在勝ち組にいるのなら、その身分と権力を利用して蓄財などし放題であるが、それならこの様な古びた家に住んでいる理由が分からない。もしも無理やり理由を考えるなら、この家に隠し財産を保管しているとかそんな事が思いつくだろうが、それも恐らく違う。美術品の数々は明らかにこの家の主の嗜好を反映した陳列をされており、とても隠している様には見えない。
男達は家の地下室に入って行った。そこは物置に使われているらしく、あちこちに木箱が置かれている。
「本当にここから、あれが無くなったというのですか? アンリさん」
「ええ、その通りですよ。ヴァリエールさん。アキテーヌの方で同業者に協力する事がありましてね。それで久々に家に帰ったら例の物が無くなっていたのです。それで急いで司法省に使いの者をやりました」
「ほう」
ヴァリエールと呼ばれた男は地下室に来るまで通った家の中の事を思い起こしていた。
家の中は豪華な美術品が整然と並べられており、とても物盗りに荒らされた様には見えなかった。アンリの言う事が確かなら、盗みに気付いてからすぐに通報したのであり、家の中を片付ける暇は無かっただろう。また、盗みの現場を訴えるのにその様な事をする意味もない。
と言う事は、犯人は純粋に目的の物だけを盗みにアンリの家に侵入したのだ。それも、家に溢れかえる金目の物には一切手を付けていない。
そしてアンリは普通に見れば、家の中に目立った痕跡が無いのに侵入と、ある特定の物が盗まれたのに気付いたのである。
普通なら狂言か何かと疑うところだろう。
だが、ヴァリエールはアンリの言を疑わなかった。何故なら、アンリが無くなったと訴え出た物にはそれだけの価値があるし、アンリもそれだけ重大に管理していても不思議は無い物なのだ。
「革命の断頭台が失われるとは……」
「正確には、断頭台の刃の部分だけですね。断頭台はその科学的な構造から、確実に死刑囚の首を刎ねますが、それでも刃が劣化して来ます。それで付け替えが出来るようになっているのです。それに、断頭台も普段は解体して、この様に管理や持ち運びがし易いようにしているのです」
「それは知りませんでした。流石は『ムッシュ・ド・パリ』の称号を得た死刑執行人の頂点、サンソン家の棟梁ですな」
ヴァリエールが「ムッシュ・ド・パリ」や「サンソン家」と言う時、その語気に畏怖や侮蔑などが含まれている事を、アンリは敏感に感じ取っていた。司法省の役人は、死刑執行人とはその職務上近しい存在だし、死刑執行は彼らの命令によって実施しているにも関わらずだ。もっとも、こんな事にはもう慣れいている。家業が知れたために、一夜にして親友を失った事だってあるのだ。
「最近は死刑の数が減っているのでそれ程頻繁に取り換えはしませんが、かつては短い間隔で取り換えていました。今回奪われたのは、今使っている物に加え、かつて使っていた刃です」
「かつて使っていた断頭台の刃、つまりそれは……」
「そうです。ルイ十六世、ロベスピエールなどの数々の人間を殺して来た断頭台の刃です」
ヴァリエールはアンリ・サンソンの答えに息を呑んだ。最近は使用される事が少なくなったが、断頭台はフランスにおいて象徴的な意味を持っている。
数十年前にブルボン朝が倒れてから、革命政府、ナポレオンによる第一帝政、ブルボン朝の復古、七月革命、七月王制等と、フランスの政体は目まぐるしく入れ替わっている。それは常に流血を伴っており、断頭台はその時代の流れの中で、象徴的な役割を果たして来たのだ。
「私はこの事を司法省と国王陛下に報告して来る。恐らくすぐに捜索隊が編成される事になるだろう。アンリさんにも協力を願いたい」
「ええ、もちろんです。これは我々一族にとって重大な事件です。何としても発見に力を尽くします」
それからヴァリエールは二三状況を聞き出してメモをすると、サンソン家を立ち去った。
残されたアンリ・サンソンは溜息をついた。
「あまりにも手際の良い手口、これほどの手腕を持つ者を果たして見つけられるだろうか……」
加えて、現在のフランスの政体は極めて弱体だ。国王のルイ・フィリップは元々共和主義にも理解があり、王制とは言っても強権政治を推し進める様な時代遅れの王族ではない。だが、その治世は上手くいっているとは言えず、内部にも外務にも不安を抱えている。ジャガイモ飢饉に端を発した物価の高騰などはその一端に過ぎない。
また、かつてフランス皇帝であったナポレオン一世の甥であるルイ・ナポレオンは、過去に二度の反乱を起こしている。幸い計画が杜撰だった事もあり早期に鎮圧されたのだが、ナポレオン一世の治世を懐かしむ者は多い。いつ世論がルイ・ナポレオンに味方したとしても不思議ではない。しかも、そのルイ・ナポレオンは反乱失敗後、アム要塞に投獄されていたのだが、最近脱獄してしまったのだ。
最早何が起きてもおかしくは無いのである。
この様な世情で、古びた断頭台の行方を現政権が追う余力はあるのだろうか。
どちらかというと、ルイ・ナポレオンをはじめとする反乱者が断頭台を入手し、それを押し立てて暴動を起こされる事を危惧しているのかもしれない。そして、その結果現国王であるルイ・フィリップは、断頭台の露と消えるのである。
そして、その断頭台で何人も地獄に送るのは、ムッシュ・ド・パリたるアンリ・サンソンの役目なのだ。
これまでの革命で繰り返してきたように。
アンリ・サンソンは、暗澹たる思いに包まれ、しばし天を仰いだ。
それから約二十年後の事である。
フランスはパリから東に遠く離れた国、日本。
その日本で開港されたばかりの横浜に、フランスから一隻の船が到着したのであった。
時は慶応年間、長らく続いた徳川の世が終わりを迎えようとする、動乱の時代であった。