旅立ち前夜
新連載開始しました!
初日なので、今日中に合計5話アップ予定です(2/5)
『スパイ、か。ついにこのときが来た』
ゼンはいつもよりも歩調を速めて家へと帰る。キロトリデ家は四人家族、父母と妹。ゼンが駐屯地へ呼び出された段階で、すでに覚悟は決まっている。三人は口を真一文字にしたまま食卓に座っていた。
「出立は明日の早朝だそうだ」
ゼンの言葉を受け、父親が一呼吸置いてから沈黙を破る。
「送りの儀をやる。私とゼンは山に向かう。二人は用意をしていてくれ」
父親の言葉に反応して、家族全員がキビキビと動き出す。ゼンと父親は狩りの用意をして山に足を踏み入れた。
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送りの儀とは、キロトリデ家に古来から伝わる戦士を送り出す儀式のことである。基本的には戦場に向かう際に行われるものであり、ゼンも平定戦争へ向かう際に経験している。この儀式は、生贄として山の獲物を供え、それをあの世に送りながら肉を食べるのが一連の内容である。
山に登った二人の間に、言葉はなかった。ただ森の静寂に体を溶かしている。
なぜ、ここまでキロトリデ家に重たい空気が漂っているのか。それはこの任務の期間にある。ゼンには以前からスパイの話は伝えられており、その最終目的も共有されていた。それは、サンセベリアの軍事の中核に入り込むこと。
上の地位になればなるほど、得られる情報の量も質も上がってくる。同時に、与えらる権限も大きくなり、リトガルトにより優位な状況を作り出せる。だが、そのためには一朝一夕の諜報活動では足りない。長い期間、長い時間をかけて人間関係を築き、功績を残すことではじめて達成されていく。
つまり、このスパイの任期は命尽きるまで。故郷の土を踏めるのは正体が見破られ、命からがら逃げ出して帰ってくる失敗のみ。自分の生まれた故郷で生活し、そして死んでいく。そんな当たり前の願いも、王命の前では無力なのである。
ゼンも家族も、そのことを理解している。ゆえに、空気は重い。だが誰も文句は言わない。せめてもという思いで、父親は家長として例外的な送りの儀を行うことを決めたのだ。
二人が山に入ってから一時間ほど経過した。すでに山の奥深くまで進んでいるが、まだ獲物は見つからない。息子との最後の食事、家族との最後の食事。父親もゼンも妥協する気は一切ない。山の木々の匂いもどんどん濃くなってくる。肌に当たる空気の温度も、少しずつ低くなっていた。前を行くゼンが足下に足跡を見つける。
狼の痕跡である。この大きさなら三メートルはくだらない大物だ。しかもついさっき付けられたもの。生贄として申し分ない獲物を前に、ゼンは呼吸を整える。父親に手でサインを送り、二人は足跡の奥へと向かう。予想通り、大きな狼が森の中を闊歩していた。
その白い毛並みは、ゼンが今まで見たどの狼よりもきれいで、朝日を浴びる雪景色のよう。どこか神秘的で少し目を離すと霧のように消えてしまいそうなまでの美しさが、この世のものとは思えないほどの荘厳さを引き立てる。
ゼンは間違いなく最高の獲物であると確信した。二人は目を合わせ、互いに軽く頷く。その瞬間、ゼンは木陰から飛び出し狼へ一直線へ向かう。その音を聞いて狼が慌てて振り返るその瞬間、ゼンは槍で心臓を一刺し。狼は悲鳴も上げずに力無くその場に倒れた。
自分の背丈よりも一回りも二回りも大きい獲物との決着はほんの一瞬で着いた。ゼンは手に握った家宝の槍「水簾」の先をじっと見つめる。
狩りと戦いが大きく違う点は、一方が圧倒的に優位であること。獲物を正しく狙って一撃で仕留めることが出来ないのであれば、それは狩りではない。たとえ相手がどれほど手強い獲物であったとしても、狩人としての役割は変わらない。ゼンは勝つべくして勝ち、また反撃がないことなど当然であった。
「感謝と流転をここに」
父親の言葉の後に、ゼンはヒイラギの葉を狼の首元に置く。二人は目を閉じて、自然に祈りを行う。これがリトガルトでの伝統的な狩猟の締めである。こうして、ゼンは父親との最後の狩りを終えた。
家に戻る帰り道で、ゼンは父親に初めて狩りを教わった日のことを思い出す。それは彼がまだ五歳のとき、ちょうど今と同じく春の暖かい日差しが差し込む季節だった。父親から最初に教わったのは、武器の持ち方でも罠の仕掛け方でも獲物の探し方でもない。
「全ての生き物はこの世界に生まれ落ち、そして生死の輪廻を回し続ける。生命の車輪を皆で回しているからこそ、我々人間もその恩恵に浴することが出来ている。そのことに感謝と敬意を払う、絶対に忘れてはいけないことだ」
人は何かの犠牲なしに生きていくことはできない。たとえそれが獣であっても、決して軽んじてはいけない。常に敬意を払え、ゼンが父親から初めて教わったのは人間としての心構え、生命の車輪であった。
二人は満足する獲物をとって、多少気の緩みがあったのだろう。じっと背後から影のように向けられている視線に気づかないのであった。獣はただ一人、牙を研いでいる。
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家に帰って、家族四人で支度を済ませたところで送りの儀は粛々と行われた。儀式といってもそう大袈裟なものではない。家族四人で食卓を囲みながら、ゼンが獲った狼を皆が食べる。
「それにしても立派な狼だね。大きいだけじゃなくて美味しいし」
妹のアヤメは、テーブルの下で左手の拳を握りしめながら何とか口を開く。明日からは三人だけの食卓。二度とは帰ってこない兄への感傷が、単なる世間話すらも重くする。一族自慢の瞳の美しい碧色も、どこかくすんでみえる。
「毛並みも一段と綺麗だった。ありゃ、山の長の血でも引いているんだろうな」
「毛皮を売ったら相当高い値段だろうし、そんな大物一刺しで倒すなんて、お兄ちゃんやるね!」
精一杯の気持ちで口角を上げるアヤメ。その顔を三人は噛み締める。
「ゼンは立派な戦士ですもの。十歳のときから、一人で頑張ってきたんだから当然よ」
母親のチセは、穏やかな表情を浮かべている。息子の旅立ちについて心配することなど何もない。それはゼンがすでに一人前の人間であることを、この目で見てきたからである。
にも関わらず、胸に込み上げてくる寂寥感。今は何とか笑顔でそれを堰き止めていた。母の機微に対して、ゼンも無関心なわけではない。母はいつも選んだ選択について、屈託のない笑顔を自分に向けてくれていた。それは彼が戦争に行くことになったときでも同じである。そんな彼女が今こうしているのをみると、自分が親不孝者であることを実感していた。
家族の団欒が続く中で、食事の最後に父親が口を開く。
「ゼン、一つお前に言わなければいけないことがある」
その場の空気が一変する。
「何だい、父上」
ゼンはあえて畏まらず、いつもの調子で尋ねる。
「カズライ・キロトリデの名を持って、本日よりキロトリデ一族の家長の座を、息子ゼン・キロトリデに譲る」
ゼンは目を見開く。完全に予想外の展開であったからだ。
これから自分は、二度とリトガルトの地に戻ってくることはないかもしれない人間である。そんな存在に、一族における最高の地位を明け渡すはずがない。普通であれば決してありえないこの宣言であるが、だからこそゼンは父の愛を感じた。寡黙で不器用で厳格な父からの真っ直ぐな想いである。
「ありがたく頂戴致します」
チセは声を押し殺して涙を流した。
「後片付けは私とチセで引き受ける。二人は外へ出ていなさい」
カズライはチセを慰めるために、息子と娘を退出させる。二人もその意図が分かっていたので何も言わずに従う。
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家から出た兄妹は、ゆっくりと夜の外を散歩する。
「とうとう泣いちゃったね、お母さん。お兄ちゃんが駐屯地へ呼び出されている間に、絶対に泣かないようにしようねって三人で話してたの。見送りは明るくやるべきだって」
「それにしてはずいぶんと空気が重苦しいじゃねえか。父上に笑って出迎えろっていうのは無茶な話だろうが、お前も下向いて黙ってたし」
「それは、あのときはちょっといきなりで整理がつかなかっただけで」
アヤメは口を尖らせる。
「お兄ちゃんは、寂しくないの? 不安じゃないの?」
「不安だし寂しくもある。故郷を離れるってのはかなり堪えるもんだな」
妹の本音の質問に、兄は本心を答える。
「全然そんな顔してないじゃん。いつも通りケロッとしてる」
「顔に出てないだけさ。ずっと不安だぜ。向こうでスパイとして上手くやっていけるのか、そしてキロトリデ家がこれからどうなっていくのか」
家長になる前から、ゼンは長男としてそればかり心配していた。
「大丈夫! 王命くらい私がチャチャっとこなしてあげるよ」
「お前の実力じゃ、鼻で笑われるぞ。青の一族はそんな簡単に務まらない」
「そこは"任せた!" くらい言ってよー。自信無くしちゃうなあ」
ゼンはあくまで冷静かつ客観的に考える。
「現実的なところだと、父上にやってもらうしかないか」
「まあ、そうだよね。ひとまずはお父さんにやってもらって、その間に私が何とかするって感じかな。そういえば、お父さんとの狩りでは何を話したの? 積もる話もいっぱいあったでしょ?」
「いや、特に何も。ただ黙って狼獲っただけだな」
アヤメは反射的にゼンの方に顔を向ける。
「え? これがもう最後の会話になるかもしれないんだよ? いくらお父さんが無口だからってそのときくらいは話すでしょ。お兄ちゃんの方からも何か言わなかったの?」
「狩りの最中に談笑なんてしてられない。音で獲物が逃げる」
アヤメは大きくため息をつく。
「本当に何も会話してないんだ」
「まともなのはさっきの家長の引き継ぎくらいだな」
「さすがにちょっと引くわ。いくらもうお兄ちゃんには全て伝えたからって、そこまで淡白なの?」
「男はそんなもんなんじゃないのか。下手な未練なんて見苦しいし」
アヤメは天に両方の掌を見せて、首を横に振る。
「なんか、私やお母さんが心配したり悲しんだりしてるのが馬鹿らしくなってきた」
「その方が、明るい見送りってやつには適してるだろ」
兄妹のたわいもない会話はまだまだ続く。
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