成り代わりヒロインの兄と神官の娘
光り輝く紙を受け取り、そこに書かれていた内容を確認するとふっと息を吹きかける。光の粒子になって消えた指示書の内容を思い出したククルはため息をついた。
「本当に、人使いの荒い」
貴族の令息令嬢が通う神学校内にある教会、その中の一室、月明かりだけが室内を照らす部屋の中で彼女は頭を抱えた。
聖女だ。すべての始まりは聖女だった。
約百年ぶりに生まれた女神の代理人たる聖女に、この創造主メメルを信仰する神聖女神教国は熱狂していた。
この世界において創世の女神は生きていて、人々の切なる祈りを聞き届けてくれるが、だからこそメメルを直接信仰することは恐れ多い。万能の神はさじ加減が分からないので、やりすぎてしまうことが多かったのだ。
ゆえに教会は歴代の聖女聖人たちを一般の信仰のシンボルとしていた。一代目は癒やしの聖女であったため、医療関係者の信仰が厚い。二代目は商い、三代目は料理、四代目は鍛冶職人や軍の関係者と細分化されている。そんな中に生きている人間の中から聖女が選ばれれば熱狂してしまうのもさもありなんといったところか。どの分野で革命を起こしてくれるのか、そんな期待を一心に背負っていた。
けれど、その聖女選出こそが問題だった。いや、聖女そのものにはなんら問題はなかったはずなのだが、一ヶ月ほど前から想定外の事態に見舞われていた。
聖女は確かに生きているのに日に日に女神の加護が失われていくのだ。何より女神が「我が娘が消えた」と泣き暮らすようになってしまった。メメルの春の国は今、雨の国と呼ばれそうなほどに雨が多くなってしまっている。
(そうして、わたしは聖女の調査を命じられた訳だけれど)
ククルはため息をもう一度つき、どうしたものかと簡素なベッドに寝転がった。あまりにも解決策がないため、考えるのは明日にしていつものように早朝に教会の清掃をしようと彼女は目を閉じた。
ククル・メメルの朝は早い。
日が登る前に起き出し、コップ一杯の水を口にした後は、見習い神官たちの仕事を奪わないよう、花壇あたりの清掃を中心に行う。少ししたら神学校に登校しなければならないため制服姿である。男女ともに体のラインが出ないゆったりとした、紺色の制服だ。
ちなみに騎士科だけは動きやすさと甲冑の装着しやすさが重視されており、色は同じだが神官騎士服がモチーフになっている。騎士科は実力のあるエリート中のエリートしかなれない神学校の中でも目玉の学科である。四代目の聖人の詳細な教えが学べるだけあって、彼らの信仰は四代目に捧げられている。
「あの」
そのエリートの証明である騎士科の制服に身を包んだ身長も高く体格も良い男の声掛けにククルは顔を上げる。ピンク色のくせ毛の髪に、ピンク色の優しい色合いの目を持つ男は、妖精の血でも引いているのかと思うくらいに幻想的な見た目をしている。それになにより同じ配色を持つ聖女の血縁者であることがククルには一目で分かった。
「何でしょう」
「懺悔、いや、相談。いや協力?なんといったものか、神殿の上層部に通すにはいささか奇妙な話ではあるし」
ううんと唸る姿を見ながら、ククルは(これはメメルの導きだ)と理解して胸の前に手のひらをおいて感謝の祈りを捧げる。
「聖女様の親族の方とお見受けします。わたしはククル・メメル。聖女様のサポートのために派遣された神官です。お悩みならばわたしがお相手いたしますが」
「なんと、メメルの導きに感謝を。聖女の兄として生を受けたセルジオ・ルードと申します」
丁寧に礼をされて、ククルは鷹揚に頷く。女神の名であるメメルを名乗る者は神殿でひきとられた孤児か、神殿でも高位に属する神官のどちらかであるのだが、今回ククルが神官を名乗ったため、セルジオは正しい認識を持って礼をした。制服姿の、凡庸なチョコレート色の三つ編み髪の少女が高位神官などと名乗れば不審に思っても仕方ないはずなのだが、セルジオに疑う様子はない。ただ、幻想的な外見の色男にじっと見つめられることにククルのほうが先に照れてしまった。
「ではルード殿、まだ人は少ないですが念のため懺悔室でも使いましょうか」
「は!よろしくお願い致します」
鍵を取りに背を向けたククルをセルジオはじっと見つめ続ける。少し変わった目をしていた気がする。
「なんとも、神秘的なお方だな」
少しだけ呆けたように呟いて、それどころではないと首を横に振る。ここ最近の不眠の原因をようやく人に話せることに安堵して、セルジオは教会内のメメル像を見上げた。
お互いに席についた後、ククルはセルジオの発言を待った。
「言っていいものか悩んだのですが、兄としてどうしても誰かに相談をしたかったのです」
「はい」
「妹の、聖女リリルの様子が可笑しいのです」
「具体的に答えられるのなら具体的に、そうでなければそのように感じた理由を」
「具体的に、ですか」
困惑した様子のセルジオにククルは質問をすることにする。
「まず可笑しいと思い始めた時期は」
「一月ほど前でしょうか」
相手に見えないことが分かっていつつもククルは深く頷く。
「その頃に変わったことはあったでしょうか」
「いえ――いや。珍しく高熱を出したと報告のあった翌日あたりからおかしかった気も」
重ねて何度も質問し、聞き出した内容をククルはまとめていく。妙にベッタリと引っ付くようになったり、暴言を吐くようになったり、実家の使用人への態度が悪くなった。
「聖女リリルは一月ほど前、高熱を出した後から不審な行動が増えた。朝の祈りをしなくなり、言葉遣いや動作が彼女がするものとは思えないものに変わった、と」
「はい」
ククルは大きなため息をついた。相手に失礼ではあるがそれどころではない。メメルが泣き暮らすようになった時期とあまりに合致するからだ。
「ルード殿、最近雨が増えたとは思いませんか」
「は、はい。確かにここ一ヶ月、異様な雨が……」
呟きながら察したように息をのんだ男に、ククルは重い口を開く。
「聖女リリルは消えた」
「い、妹は生きております!」
「そうです。しかし女神メメルは間違いなくそう言って泣き暮らしている」
ガタンと椅子を倒したかのような大きな音がする。家族の心境はどのようなものか、残念ながら孤児であるククルには分からない。女神の反応から、別人のようになったというよりは本当に別人になってしまったのではと、ククルの頭に嫌な考えがよぎる。
「聖女の調査を、そして出来るのなら捜索を。わたしはそう依頼されています。ルード殿、どうかわたしに協力願えないでしょうか」
重い沈黙が室内を支配する。
それは数秒か数分か。震える声でされた了承の返事にククルは胸をなでおろした。正直な話、高位神官としていくら優秀な権能を持っていたとしても、協力者なしに一人で調査出来るほどククルは万能な人間ではない。聖女の兄は軽く話しただけでも真面目な人間であることがわかったので、その協力を得られることはククルにとっても大きなことだった。
ククルは神官であることを学校でわざわざ公言していない。というのもメメルの名を抱く神官など本来なら神殿の奥からそうそう出てくるものではないからだ。考えなしに公表すると権力争いに巻き込まれ聖女のサポートどころではなくなるため、神殿関係者の孤児という認識で構わなかった。ククルが孤児であるのは間違いのない事実でもあったからだ。
神殿奥から出てこないククルが学校に派遣されたのは、メメルの名を持つ神官の中でも一番年若いククルに学校生活をさせてやりたいと気遣った同僚の思いやりである。聖女選出後、警備の充実したこの学校に転校する聖女の近くに送る人材として、年も近く同性で神殿内でもそれなりの立場にあるククルだと都合が良かったからでもある。
「なんで孤児なんかがセルジオ様と」
貴族やエリートという特権階級のものが通う学校であるため、エリートの代表格、騎士科に属する聖女の親族と連れ立って歩くククルに強い悪意が浴びせられる。その陰口に殺気立つセルジオに、ククルは首を横にふる。学内ではこのくらいで構いやしないからだ。
「ククル」
自分で指定したとはいえ、妖精のごとき美男子に呼び捨てされるくすぐったさにククルは唇を強く結ぶ。(失敗したかもしれない)と考えた。
「何でしょうか」
「後から制裁などは」
「しませんよ。むしろわたしは彼らの細部まで目を通すところを評価しています。興味関心がなければククル・メメルという目立たない孤児が編入したことなど知らないままの者も多いはず。その注意力の高さを正しく活用すればこの国の力となるでしょう」
「ククルは、変わった考えの持ち主なのですね」
驚いたような表情の後、美男子の微笑みを正面から受けたククルは、貼り付けた笑顔のまま聖女のいる中庭まで急いだ。
(というか、彼が心配していたのはわたしではなくて彼らの方だったらしい)
それに気がついたククルは少し恥ずかしくなった。
「リリル」
聖女が居るという中庭にたどり着く。そこには確かに四人の男と談笑している聖女リリルがいた。セルジオの呼びかけに同じ髪の美少女がパッとした笑顔を浮かべる。
「お兄様!」
妖精の如き見た目の麗しき兄妹の姿にククルは潰れそうになる目を押さえた。そんなククルに気がついた聖女は、セルジオの腕を抱きしめたまま首を傾げる。
「お兄様、この方は?」
「ん?お前も知っているはずだが」
「いちいち全員覚えてられないわよ、えっと、ああ、神官のククルさん」
「はい、聖女リリルにご挨拶申し上げます」
軽く頭を下げるククルに、聖女は興味のないような視線を向ける。
「お兄様、もう少し美人の方を捕まえたら?趣味が悪いですわ」
突然飛び出た暴言に聖女と一緒にいた王族が言葉を失う。ククルを知る若き神官騎士など、ククルを見て涙目になっていた。
「リリル、神官殿にそのような暴言!」
焦ったようなセルジオの反応にも、リリルは不思議そうに首を傾げているだけだ。まるで、この国において高位神官は王族に匹敵する権力を持つという常識を知らないような様子で。確かに神官よりは聖女のほうが身分は高くなるが、神官、とりわけ高位神官をないがしろにしていい訳では無い。神官ということを明かしてきちんと挨拶しているということは、ククルの正式な立場を彼女は知っているはずなのだ。だからこそセルジオは焦った。
ククルは初めて挨拶したときの聖女の反応を思い出す。
『まぁ、あなたがククル様。とっても神秘的な方ね。わたし、聖女に選ばれたけれど神殿とか慣れなくて。年の近いあなたがいると安心です。これからよろしくお願い致します』
穏やかな様子はまさに聖女と呼ばれるにふさわしかった。ゆえに、現在目の前にいる彼女とあまりに違う姿に納得して頷いた。神殿からは護衛も任せられる側付きを派遣しているし、同性を頼りたいときはククルをということだったのだが、この一ヶ月で信じられない変化が起こったらしい。
神殿から派遣されている神官騎士ダイクから説明がなかったことを問う視線を投げつつ、ククルは焦る美男子を見上げる。
「暴言はまぁ良いでしょう。それよりルード殿、もう少しお付き合い頂きたい」
「えっ、嫌よ!そんな人に付き合う必要なんかないわよお兄様、リリルともう少しいましょう?」
セルジオを連れて退散しようとするククルに非難の声を浴びせ、兄を行かせまいとしがみつく。あまりの行動にセルジオの意識は飛びそうになっていた。
「リリル、兄君はおそらく仕事中だ。邪魔をしてはいけないよ」
王族であるスカイがククルが怒り出さないうちにがなんとか場を取り持とうと聖女へ声をかける。
「ええ、そうですね。ルード殿の働き次第では護衛騎士として推薦するつもりはあります」
神官騎士ダイクが驚いたようにセルジオを見ているが、真面目な気質をククルが気に入っているというだけである。それから今この場で口にしたのは、ククルの立場を匂わせるにはちょうど良いからでもあった。(これで正式な挨拶はなくとも、聖女の周囲に侍る男たち全員にククルは高位神官であると伝わっただろう)高位神官ですと表明するのと、高位神官が立場を隠して学校にいるというのでは大きな違いがあるのだ。主に周囲の騒がしさという点において。
言うだけ言ったのち、背を向けて校舎内に戻ろうとするククルに向けて王子は右足を一歩引き、目礼に近い浅い簡易礼を、騎士は同じように足を引いた後に右膝を地面につけ、聖女にするのと同等の深い礼をしてきた。それにククルも簡易礼で応じる。人目のある中庭で王族がここまでしてククルの立場が分からないものがいたら、それはただの常識なしの無能である。
この国は創世の女神メメルを祀る宗教国で、その創造主は生きている。王族さえも高位神官の目を気にする。私利私欲に満ちた統治をし、メメルの教えをあまりにも軽視すれば文字通り神の裁きを受けるからだ。貴族にとってメメルの裁きはわりと身近なものである。
それゆえに教会の権威は揺らぐことなく、そして女神メメルが生きている限りメメルの手足とも呼べる教会の上層部に腐敗は存在しない。彼らは神の威光そのもの。メメルの名を持つ神官は神の権能の一部に等しい。
神の目はすぐそこに。神は汝らの行いをいつも見ている。聖書にある一文もまた、ただ真実が書かれているだけなのだ。
「さて、想像以上の聖女の様子でしたが」
校舎の二階に移動し、中庭が見える窓側の席につく。使われていないのか少し埃っぽいが、机や椅子はあるため対面の席をセルジオに勧めて、自分が先に座るとククルは小さく息を吐いた。中庭には波打つピンク色の髪の聖女と対照的な青いストレートの髪を靡かせる女子生徒がいた。先程までいなかったので、ククルとセルジオがここに移動するまでに現れたのだろう。
「彼女はフィリル嬢。スカイ様の婚約者候補ですね。筆頭候補とでもいいますか」
「なるほど。わたしは引きこもりですから、聖女と王族と神官騎士ダイクしか分からなくて」
「この学校に派遣されたのは妹のための特例措置、ですか?」
「あとは、わたしに学生生活を体験させようという親心ですかね」
ククルの説明にセルジオは頷く。
金髪に金の瞳の王族スカイ。藍色の髪と紫の瞳の騎士ダイク、それから明るい茶髪に緑の瞳の商人の息子パトリック。音楽の才能に秀でている黒い髪に青い瞳のヴァン。改めて説明されてククルはその姿を確認する。
ククルのその手にいつの間にか小さな白い鍵が握られていて、セルジオは不自然にならない動作で口元に手をやって疑問に思ったことを隠した。
「妹はヴァン殿と仲を深めていた様子なのですが、いつの間にやらあんなことに」
嘆くような声に、ククルはもう一度ヴァンの姿を確認する。聖女を見つめる瞳にはどこか傷ついたような、思い詰めているような色を宿していた。
女神メメルは聖女や神官の婚姻を禁じてはいない。恋愛も自由だし、場合によってはメメル自ら祝福することもあるくらいだ。人の営みを行うことを神は祝福する。ちなみに、禁じていないにも関わらず神官が結婚するのは稀ではあるのだが。
「まず間違いなく彼女は聖女リリルではありません」
「そう、ですか」
「肉体は聖女のものだと思います。精神体と呼びましょうか、そういったものが失われるかなにかして、乗っ取られているというのが今の見解です」
落胆と苦悩を抱えた表情でセルジオは妹の姿を見つめる。
「リリル」
愛されている聖女を思い、ククルは(いいなぁ)と思った。ククルが欲しかった仲の良い家族がそこにはいた。いや、別人に成り代わっている聖女を羨ましく感じている暇はないのではあるが。愛されている本人は行方不明であり、なんなら死亡している可能性も否定はできないのだ。
「冬の国に行けば、そういった方面の情報も手に入るかと」
「冬の国ですか?」
ククルたちのいるメメルの春の国は、世界の中心であり信仰の総本山である。そこに隣接するように南に夏の国、北に冬の国がある。大きくはないが秋の国もあるが、今回大切なのは冬の国、その別名である。
「冬の国は死の国、ですから」
「それは人が住むのに適していない環境、という意味では?」
「いいえ、あの国にはメメル様の夫である魔の神ドレイク様がおりますので」
メメルは神の目を使って全てを見ているが、全てを認識している訳では無い。メメルに悪人を知らせ、直接祈り、神の目で見たものを認識してその通り悪人だと判断すれば断罪される。悪人に裁きをと祈った人の眼前で「祈りは聞き届けた」とばかりに裁きの炎で火だるまにするのだが。
メメルは加減が壊滅的に下手なため、その苛烈さを恐れて聖女聖人信仰が進んだともいえる。自分の祈りで火だるまになる人間を、叫び声を聞きながら顔を逸らすこともできず、灰になるまで目に焼き付けたい人などそうそういない。
現在ではだいぶ柔軟性を身につけているが創世記のメメルはあまりに厳粛すぎた。それに耐えきれない人々の祈りから生まれたのが魔の神だ。ところがここでメメルは人々の想像もできなかった行動に出る。人が生み出した神を愛したのだ。彼を夫として伴侶に迎え、清すぎても人間にとってはいけないのだと学習した。メメルは人間の醜いところもなんだかんだ愛していたのだ。
魔の神は人間の怠惰や負の感情などを司る。妻であるメメルが生を祝福するならドレイクは死を祝福する。創世記の厳粛なメメルはドレイクという人間の一面を愛し寄り添うことで、世界は安定した。
「魂――というものがあるのならば、手がかりはあそこにしかないはずです」
ククルは立ち上がって、不意に目の痛みを感じて手のひらで目元を覆う。(最小限の能力しか使っていないのにすぐこれだ)痛みを苦々しく感じていると、ククルの目の前にすっと手が差し出された。
「お供致します」
その手を取るべきかククルは迷って、おそるおそるその手に指を触れさせる。先程まで手を取るようなことはなかったのに、いきなりの行動ではある。だが、心配されたのだろうと理解して(セルジオは本当に人をよく見ているのだな)とククルは感心した。
この世界における騎士の役割は魔物と戦うことにある。二十年に一度の頻度で起こる魔物の大量発生はこの世界の自浄作用の一つだ。地震や大雨といった自然災害と同じ位置づけで、これを乗り越えるのがこの世界に生きる人間の試練のひとつである。大量発生がおきない平時は魔物から貴人の護衛をするのが主な仕事だ。
悪人の治める土地には魔物が増える。だからいくら神に見守られ治安がいい国とはいっても、戦闘能力のない人間が一人旅などありえない話だ。
「ククル」
「なんでしょう」
「だからといって若い男女ふたり旅もどうかと思います」
現在、馬に二人乗りしている。魔物の一種であるこの馬はその速さが自慢だ。ふたり旅であればわりと当たり前に使用される。何より、旅仕様に馬上で息や会話ができるよう守りの加護がかけられている。そのため、恋人や夫婦の乗り物として人気だ。ゆえに馬を購入するときに新婚夫婦と間違われた。
(まぁそのくらいの誤解は時間がないのだから仕方ないだろう)
ククルは誤解を解くことを放棄していた。
「急ぎますから」
「分かってはいる!分かってはいるんですが」
馬を走らせながら段々と口調が崩れていくセルジオに、少しいい気分を味わう。高位神官といってもククルも年頃の少女なので、妖精の如き美男子に親しくされて悪い気はしない。景色を楽しむ暇もなく急がなければならないのは惜しいが、それは本当に時間がないのだから仕方がない。
自分の前に座らせた少女はなんでもない顔をしているが、騎士としての鍛錬に明け暮れていたセルジオは妹以外の女性に免疫がない。セルジオにとってククルはリスのような、小動物のような可愛さのある愛らしい少女だ。どこか神秘的な彼女と距離が近づくほど悪いことをしているのではという気分になる。こうやって馬から落とさないように密着すればなんだかいい匂いもするし、どうにも勘違いしてしまいそうになるのだ。
本来なら高位神官は一生に一度出会えるかという伝説の生き物のような存在だ。そんなセルジオには手の届かないような存在が今は腕の中にいるという事実に胸が高鳴る。
(違う、そういうのではない。妹のためだ。全ては妹のため)
そう念じたセルジオは雑念を振り払う。
(妹のため。家族に、全てに、皆に愛される愛らしいリリルのため)
自分が実は父母や長男のように妹を溺愛していないことは理解していても、それでも可愛い妹だとは思っていたのだ。死んだかもしれないと考えると信じたくない程度には。
セルジオは妹がただただ幸せな人生を歩むと信じて疑っていなかった自分に気がついた。
冬の国の近く、明日には国境を超えられるという場所で馬を休憩させるために降りる。少し驚きつつも、差し出される手をククルは握った。美男子はやることが違う。
「この教会で一晩部屋をかりましょう」
急な訪問で迷惑だとは思うが、流石に野宿はしたくない。食料は持参しているし、もとから豪勢な暮らしを享受していないククルにとって本当に部屋だけでいいのだ。騎士になるための訓練をしているセルジオも同様だろう。
小さくもなくそれなりの規模の教会であるため、使っていない部屋はあるだろうと考え、身分証を出して部屋を使わせてほしい旨を伝えると、慌てたように応接室に通された。馬を預けてきたセルジオと室内でしばらく待機していると、少し顔色の悪い細身の神官が顔を出した。国の中央にいない神官にとって、いや、本来ならほとんどの人にとって自分がそこにいるだけで神経をすり減らす存在であることをククルは理解している。
「その、部屋をということですが」
「はい、聖女様のための強行軍の旅路です。夜明けには発ちますので。護衛の彼と二部屋あると有り難いのですが」
「部屋は、大丈夫です。二部屋どうぞ。ただ、きちんと歓迎できずに申し訳ないですが」
「いいえ、とても有り難いです。メメルの導きに感謝を」
胸に手のひらを当ててククルとセルジオが感謝の祈りをすれば、神官も同じように祈った。
「やはり、本物の、神の目だ」
思わず考えていたことが口から漏れ出たような言葉には反応せず、ククルは笑顔を貫いた。
「神の目、とは」
部屋の準備が出来るまで応接室でセルジオと再び二人きりになる。彼が落としたポツリとした呟きにククルは反応した。
「聖書に出てくる神の目、ですね」
「ククルはそれを持っているということでしょうか」
その質問にククルは頷く。
(あまり積極的にしたい話ではないが、疑問に思われたのならば、丁度いいのだろう)
そう考えてククルは話をすることにした。
「もともと孤児だったわたしが、高位神官に選ばれた理由です。わたしの持つ神の目は神の権能に近いのです。わたしの見ているものは、神も見ているといっても過言ではありません。だから、悪いことをしていなくても治安維持隊の騎士が側にいたらちょっと緊張してしまう、あれの上位版をわたしを知る人に与えてしまうのです」
ククルは少しおどけながら、先程の神官の緊張っぷりの理由を説明する。
誰もが恐れる神の目ではあるが、ククルはこの目に感謝している。神の権能を能力として使いすぎると一時的に目が見えなくなるという欠点を抱えているのだが、神の目を持つ前は何も見えていなかったことを考えれば、贅沢な悩みだろう。
「普段は権能を封印しているのですが、わざわざそう言って歩く訳にもいきませんし」
ククルの言葉になるほどと頷いて、セルジオはまっすぐにその目を見つめた。最初に感じた不思議な印象は、目の中に太陽を象徴した女神の紋章があるからだと気がつく。
「神秘的なあなたに、とても似合っていると思います」
美男子の褒め言葉に、免疫のないククルは唸った。
「権能を使いすぎると失明状態に戻ってしまうので、ルード殿にはそのときに助けていただけると有り難いです」
「お任せください。それから、どうぞセルジオと。私だけククルと呼ぶのはどうかと思っていたのです」
ニコッと自分の容姿をよく理解しているかのような微笑みに、先程から押され気味のククルは素直に頷いた。
用意された部屋に一人きりになったククルは唸り声をあげる。
なにせ、ククルは自分の目をまっすぐに見つめられたことがない。神の目を手に入れる前はそもそも何も見えない世界にいたし、神の目を手に入れてからは女神への畏怖のため、ククルをまともに見ることが出来る者さえ限られた。
孤児だと馬鹿にされ、目が見えない役立たずだと邪魔者扱いされた経験か、神の目を恐れられて遠巻きにされるか。ククルには極端な経験しかないのだ。
神の目と知りながら真っ直ぐに見つめられて、ククルの中でセルジオに対する好感度が急上昇してしまっていた。
(あんな美男子に相手にされる訳がない)
そう分かってはいても年頃の少女としては人並みに胸がざわついていた。
そんな思考を振り払うように、今日見たものを思い出してククルはため息をついた。
聖女の中に別人の魂と呼ぶべきものが入り込んでいた。そして、聖女の魂と思しきものが見当たらなかった。兄である彼には言い難かったが、あれでは死体が動いているようなものだ。
それともう一人。フィリルというまっすぐな青い髪の美少女。彼女の魂らしきものは確かにその身に宿っていたが、別人に体の支配権を奪われたかのような有様だった。たまたま神の目の権能を使っているときに彼女が目に入ったから気がついたが、彼女の状態もまた深刻だった。これではそのうちフィリルという少女の魂が消えてしまう。
考え込んでいたククルは宙に浮く光り輝く紙を受け取って、その内容を確認する。
女神はククルに紙を使って話しかけてくる事が多い。
「乙女、ゲーム?」
そこに書かれていたよくわからない言葉にククルが首を傾げると、紙に内容が増えていく。
「つまりポポル様の未来予測の結果を多数知っているようなもの。異界の玩具」
聖女とフィリルの魂はなにやら異界からの影響を受けているらしい。詳しく知るには秋の国にいるポポルを訪ねるしかないが、今のククルにとって聖女の安否確認をしなければならないことから冬の国より優先度は一段下がる。
「女神様、そこまで分かっているならとりあえず迷惑な異界の魂を消しては?」
ククルの提案に紙が光り内容が足される。
『魂だけでなく聖女やフィリルの肉体ごと、もしくは存在ごと消してしまいそう』
書かれた内容をそう要約したククルは、(それはそう)と、ククルは頷く。神話にも幾度となく出てくるように、聖女聖人信仰が盛んになるように、女神メメルはとにかく加減が下手なのだ。
「冬の国は寒いので」と顔色の悪い細身の神官に中央で買ったものより数倍あたたかそうな外套を差し入れされたため、冬の国に着くとククルとセルジオは有り難く身にまとった。
高位神官であるため、国境を越える際も顔パスに近い速さで検問を通された。身分証には神の目の持ち主であることが記載されているため、ククルの目を確認するだけでいい。そもそも目的がドレイク神の神殿への訪問であるのだから、普通の神官でも早かっただろう。
冬の国内では唯一雪のない検問の街に馬を預け、体の大きな灰狼という魔物が引く乗り物に乗り、神殿を目指す。観光地になっているためか神殿への道の往来は賑わっている。
(これならば帰りも早いだろう)
そう考えたククルは一息つく。
「お揃いの外套を着て仲良しの新婚さんだねぇ」
「ありがとうございます」
灰狼に乗り合わせた神殿前の土産物屋で働いているというおばさんに話しかけられ、セルジオは笑顔で対応する。昨日の今日ですっかり慣れたというか開き直った様子だ。
ドレイク神は仲の良い夫婦円満の象徴の一つである。さらには人間の怠惰だとか負の側面も受け入れてくれるため、寛容という点において清廉潔白が基本とされるメメルより民衆に人気のある神である。大衆受けが良いのだ。なので、彼女が旅装であるククル達を新婚夫婦と考えるのは普通のことだ。
おしゃべりなおばさんからの祝福を受け取り、先に降りたセルジオの差し出す手を取ってククルが荷台から降りれば、灰狼車の運転手からも祝福されてしまった。
顔をあげて眼前に広がる神殿を見つめる。装飾に金箔が貼られ、豪華絢爛な作りをしている。お祭りのように神殿の正門前が賑わっていた。なにせ人間の悪い側面を司るので、神殿にしては騒がしいし、少しばかり趣味が悪いのだ。
「ククク、我が妻から話は聞いているぞ」
黒い神官服を着た神官の案内で資料室に向かっていると、黒い髪に赤い目の男が暗がりからヌッと現れた。魔の神ドレイクである。派手な装飾や建物が趣味とはいえ、その性格はその趣味とは逆で、少しジメッとした性質を持つ。新しい人間に出会うのを嫌がり、人前に出るのを極端に嫌うドレイク神が顔を出したことにざわめきが広がった。
人間界においての家である神殿は離れた場所にあるが、神界という神のみが行ける場所では頻繁に顔を合わせているらしく、現在も仲の良い夫婦であることが伺える。
「ドレイク神へ挨拶致します」
両膝をつき、両手を胸の前に置く。ククルの背後でその場にいた全員が続き、同じ挨拶をしたのが彼女には分かった。
「良い。メメルの名を持つ娘は我にとっては孫のようなもの、気にするな」
立つように促されれば、挨拶は終わり日常が流れていく。
名指しされたククルは、変わった笑い声の神の背を追う。
(これが女神メメルの夫なのか)
ククルは心のなかで大切なイメージが一つ壊れる音を聞いた。
「さて、聖女リリルについて現在起こっている現象を知りたいと言うことだったか」
「はい」
案内された個室で神とククル、セルジオだけになって、重苦しい空気を感じさせながらされた確認の言葉に素直に頷けば、眼の前のドレイク神は深く悩むような仕草を見せた。深刻な事態なのだろうかと二人が不安から胸をドキドキさせていると、神は長い黒髪を指先で弄りながらぽつりと呟くように言葉を落とした。
「あれな、妻に怒られるから言いたくないのだが、犯人は我だ」
長い沈黙が落ちた。
その間ククルは沢山のことを考えた、最初に何を考えたか分からないくらいに沢山考え、最終的に思考に残ったのは「そんなことある?」という疑問だった。
「我だってべつに妻を悲しませたかった訳では無いのだ。ただ、妻の愛し子が助けてほしいと言うのだから、我としても妻が特別に可愛がっている子くらいは助けてやろうと思っただけで」
「やりすぎてしまったと?」
うろうろと視線を左右に揺らしながら、聖女と同じ配色のセルジオがようやく目に入ったらしく、ドレイク神はゴホンと咳払いをした。
「仕方がないのだ。聖女リリルはあのとき手を差し伸べねば、自ら命を断ったか、気をおかしくしたかのどちらかだ。ともかく、魂の方は我が保護している。そこは問題ない」
つまり、死んでしまった訳では無く、魂を戻そうと思えば戻せる。そもそも眠らせるつもりで、他人の魂が入り込んだのはドレイクの考えと違う結果だったとも話を聞くことができた。
神が助かると保証してくれた安堵で、ククルの肩の力が抜けた。セルジオも口に出せない疑問点は多々あれど、希望があると分かったからか口を強く結び、目を赤くしていた。
「聖女をもとに戻すことは可能だが、聖女がもとに戻りたいと思わないことには戻すことはできん」
そこは考えておけ、と言われてククルは頭を下げた。
「ところで、まだ相談があるだろう」
「あ、はい。フィリルという娘なのですが、視界共有が早いでしょうか」
「うむ」
ククルが白い鍵を取り出す。ぐぐっと鍵が大きくなり、ククルの両の手のひらサイズで止まった。
セルジオはククルの目の紋章が光っているのを目の当たりにして息をのんだ。
(あれが高位神官の神の目なのだ)
本来のセルジオなら目にすることができないような神秘のやりとりがされていた。
「ふむ、我の奇跡に巻き込まれたようだな。消失寸前だ。悪いことをした」
ドレイク神の感想を受け、セルジオは(そういえば彼女もここ最近で性格が変わった人物だ)と気がつく。表情や言動が明るくなり、親しみやすくなったと噂を聞いていたことを思い出していた。
「我の術に巻き込まれたということは、彼女も聖女と同じように限界が近かった証だろう。どれ、娘の魂も我が保護しよう。環境が改善したら合図をするが良い」
少し考えたのち、ククルは聞けるとき聞けとばかりにドレイクに質問することした。
「ドレイク様は乙女ゲームなるものが何かわかりますか?」
考え込んでいたククルが質問をすると、ドレイクは考える仕草をする。
「ポポに神界で演算を頼んだときに、異界のなにかに影響した可能性はあるな」
「演算?ポポル様に話を伺っても良いでしょうか」
「まぁ我のやらかしだ。娘には話をつけておこう。ま、聖女の可能性を話し合うなら我よりポポのほうが適任だろうしな」
言うと同時に派手な陣がククルとセルジオの足元に広がる。反応の鈍いククルの背中に手を添えて支えると、ドレイクが楽しそうに手を振っていた。
曰く「特別サービス」ということらしい。
景色が一転して、天井まで本が並ぶ巨大な図書館のような場所にセルジオとククルは投げ出された。立ち上がるのを支えようとしたセルジオの手を取ろうとして失敗するククルの目を見て、セルジオは「失明状態になる」という言葉を思い出す。
手を差し出したことには気がついたので完全に見えなくなったわけではないのだろうが(人ならざる力の負担は大きいのだろう)と、ククルへの距離を一歩近づけた。
「大丈夫ですか?おそらく話に聞く秋の国の神殿だとは思うのですが」
ポポル神はメメルとドレイクの娘だ。秋の国、別名本の国、学者の国で司書のようなことをしている。おそらく一番人間の前に顔を出してくれる神なのだが、秋の国は学者肌のものが多く、どうしても引きこもりがちなため、知名度はそこまでではない。
「神の好意ですから、有り難く受け取りましょう」
手を握るのではなく、腕を掴むようにいえば、すがるように腕を掴まれた。それにセルジオの胸が音をたてる。
(彼女を守らなければならない)
そうセルジオは気を引き締めた。
(彼女が頼りにするのは自分でありたい。本当に護衛騎士に推薦してもらえるのだろうか)
そんな夢のようなことをセルジオは考えていた。
「いらっしゃいませ、お父様から話は聞きましたよ」
五歳くらいの年頃の女の子が両手に本を抱えて笑顔で出迎えの挨拶をする。大きなお団子が2つある変わった髪型をしていた。ドレイク神にしたように両膝をつき神への挨拶をするククルにセルジオも倣う。
(一日に二度この挨拶をするとは、人生何が起こるか分からないものだ)
「あらあら、お父様への感謝がいまいちですわね。父は気に入った人間にはとことん甘いので、もっと感謝を表し、褒めまくらなければ」
「二人を空間移動させるなんて奇跡だ!」「ドレイク様はすごい!」「かっこいい!」「優しい!気遣い完璧!」「ドレイク様最高!」
ポポルにピラリと差し出された紙をククルとセルジオが顔を突き合わせて読みあげながら、感謝の言葉を重ねる。ククルとセルジオは、ドレイク神が人付き合いは苦手な割に褒められるのは大好きらしいという、知らなくても良かった情報を得たのであった。
「ふむ、まあこんなところで」
ポポル神は幼い姿であるが、この神が歴史に登場してからゆうに三百年は過ぎている。(見た目に騙されてはいけない)と、セルジオは気を引き締めた。
「あたくしが父にした協力の話をしましょうか。こっちへ来て。神官の娘は目をやったの?どのくらい回復したかしら」
「軽い痛みはありますが、視界そのものは回復しています」
「なら薬草茶を準備させましょう」
ふよふよと浮いて先導する幼い見た目の神は、道すがら出会う神官にテキパキと指示を飛ばす。天井までの高い本棚に意味はあるかと思ったが、こうして浮遊している姿をみると、この神殿の本は全て神のためのものなのだろう。
神殿とは言っても本当に図書館の一種のようで、円柱の建物の壁に沿って本が敷き詰められている。中央には開放された読書スペースがあり、本を読める広場ともいえるそこでは老若男女様々な人々が本を読むことに集中していた。そのうちの一つのテーブルに案内される。
「とはいってもね、あたくしがしたのは計算なのよ」
曰く、聖女リリルが誰と親しくなるか、誰と過ごすか、どんな分野で才能を発揮するか、それらを多岐に渡る計算で未来を演算した。
「彼女が現在のままじゃ、聖女として力を発揮する前におかしくなってしまう可能性がとても高かったの」
それでも、魂を眠りにつかせる前になんとか聖女を助けられないかと、ドレイク神もポポル神も考えてくれたらしい。そのための計算したのが神界で、そこでの計算が異界の玩具に影響を与えた、と。異界からの来訪者はこの玩具を通じてのものだと考えられると。
「つまり、あたくしの計算を知るものが、未来を知っているつもりの者が二人いる、ということですわね」
(それは、異界の魂の二人だろう)
ポポルの話を理解したククルは質問をする。
「彼女たちの魂を移動すると何が起こるのでしょう」
「死者は死者に戻り、迷子になっていた魂はもとの自分に戻ると思いますわ」
演算結果から乙女ゲームなるものに関連した資料をもらう。妹の恋物語とも呼べる内容に、セルジオが渋い顔をしている横で、ククルはヴァンルート、と呼ばれるものの内容を読み込んだ。
ヴァンルートは彼のピアノに聖女が惚れ込んだところから進展する。音楽室でピアノの弾き方を習ったり、彼の音に聴き惚れたり。二人で街歩きをして芸術に触れ合うことでリリルは聖女としての才能を発揮する。二人で支え合いながらこの世界の芸術、特に音楽に革新をもたらす。
おおまかな内容はこうだが(おそらくここで問題があった)のだろう。中庭で確認したヴァンの視線と、ククルの目の前にいる聖女の兄が「リリルはヴァンと仲を深めていた」と証言したのだから、他はすべて蛇足である。ククルたちが注目すべきはヴァンルートなのだ。
「これは、ヴァン殿に話を聞くしかないでしょうか」
紙を手に眉間のシワを揉むククルに、苦い表情で別の資料を読んでいたセルジオは首を横に振る。
「ククル。こうなったら妹の日記を読みましょう」
「日記を、ですか」
「あれこれ予想するより、本人の言葉が一番かと。死にたくなるくらい辛いことがあるなら、それを兄として解決してやりたいし、間違いたくはない」
次の目的地が、聖女の実家になった。
出立の前に勝手に入国したため冬の国へ連絡を取ろうとすると、秋の国の入国許可証と、冬の国からの贈り物ですと、検問の街に預けたはずの馬が届いていた。
「ドレイク様最高!」「気遣いの神!」「ドレイク様凄い!」
全てを察知したククルは、自らの意思でドレイク神を褒め称えた。最初にポポルが褒め称えるように言ったのは、ドレイク神がこういう性格だからなのだろう。
再び馬上にて、ククルとセルジオは二人乗りをする。外套は昨日着ていたものに着替えた。急げば深夜には中央の街に着くだろうか。安否の確認をしなければならなかった行きほど切羽詰まってはいないので、強行軍は避けましょうと言われてククルは頷いた。権能を短期間に使った疲労もでていたからだ。
「実は俺は、あまり妹のことが好きではなかったんです」
気を紛らわせるために何かを話さねばと思ったセルジオは、言葉を口にした後、自分で驚きながら(言ったからには話してしまえ)と覚悟を決める。それは誰かに聞いてほしい話でもあったからだ。
「妹は、聖女に選ばれる前から愛されて育った子です。本当に優しくていい子で、容姿も愛らしくて嫌いになる人間のほうが変だと思います」
でも、と、セルジオは呟く。
「でも、多分俺が男だからリリルを可愛いと思えるだけで、もし女で、姉だったら、どうなっていたか分かりません」
「何もしなくてもただ愛される妹がなぜだか気持ち悪かった」
「困っている人を助けるという同じ行いでも、俺と妹の褒められ方には明確な差異があった」
「だから可愛く感じるのと同じくらいに苦々しくも感じていた。今でさえそうなのに、性別という差異もなく妹が無条件に愛される環境にいたらと考えるとゾッとする」
とつとつと語り終えたあと、セルジオが不安に感じるくらい長い沈黙の後、ククルの言葉がかえってきた。
「創世記の話にあるように、人は清すぎても息が苦しくなります。だから、それでいいのです。妹が贔屓されることに不快感を感じてもいいのです。それはあなたが人間として健全な成長をした証でもあります」
励ますような言葉に、セルジオは他の家族のように無条件に妹を愛せない自分を許された気がした。兄として、そうあらねばならないという不安がほぐれていく。
「苦手なはずの妹のために、こうして必死になってる自分が不思議です」
可愛いけれど苦手だった妹のために、学業や鍛錬、全てのことを投げ出して走っている。それを心から不思議に思って呟けば、セルジオの腕の中にいる少女は肩を揺らした。
「きっとそれは、あなたは自分が思うより、妹思いの優しいお兄さんだったからです」
何でもないように、当たり前のことのように言われて、一度目を丸くした後、セルジオはなんだか妙に納得してしまい、破顔した。
聖女リリルの日記
ヴァン様にピアノの弾き方を教えてもらった。とても楽しい。練習したら上達するかしら。もっとヴァン様と同じ目線でお話がしたいわ。
ヴァン様が、わたしのピアノの上達ぶりに驚いた。わたしは得意になって今一番上手に弾くことの出来る曲を弾いた。ヴァン様と出会った日に彼が弾いていた曲だ。ヴァン様は少し様子がおかしかった。
ピアノってあんな風に弾けるようになるものじゃないらしい。
ヴァン様が泣いていた。わたしは何も考えず彼の十年の努力を踏みにじったみたい。
ピアノの練習なんてもうしたくないのに、気がつくとピアノの前にいる。
わざと腕を折った。これでピアノの練習なんてしなくていい。
腕が一晩で治っていた。嫌だ、嫌だ、これが聖女の加護?嫌だ、ヴァン様とこれ以上仲違いしたくない。嫌われたくない。音楽なんて素人のままでいい。
気が狂いそう。聖女の祝福って素晴らしいものだと思っていたけれど、もしかしたら呪いなのかしら。
助けてほしい。ピアノを弾くことがやめられない。
助けて。
助けて。
ドレイク様は聖女らしくないわたしの祈りを聞き届けてくれるかしら。
お母様、お父様、お兄様たち、ヴァン様、ごめんなさい。わたし。
読み終わったククルの感想は、己が信仰する女神への呆れだった。
(相変わらず加減が下手。いや、下手というか今回はやり過ぎと言うべきか。おそらく今までの聖女聖人もあずかり知らぬところで苦労していたのだろうな)
と、ククルの中で先人を見る目が変わってしまっていた。
「なんてことだ」
正直、書かれた文字の力強さや震え、血のような染みと合わせると、軽い恐怖体験をさせる日記だ。兄であるセルジオの感情は想像もできない。ククルとしてはとくに「一晩で折れた腕が治った」あたりが一番怖かった。その前段階の「聖女が自分で自分の腕を折る」というところで、もう声も出ないくらいに怖かったが、それが治ったときの聖女の心境を想像すらしたくない。
(謎は、全て解けた。犯人は女神メメルだったのだ)
などという冗談はともかく、この状態の聖女が戻ってきたいと思う環境とはどういったものかククルには想像もできない。
日記を元の場所に戻し、セルジオの部屋に避難する。お互い言葉もなく頭を抱えていると、ほどなくして、部屋の扉がノックされた。
「ジオ、お客様にお茶も出していないでしょう」
「母上、いえ、今はいいです!」
「何を言っているの。適当に相手をするのは失礼ですよ」
訪ねた時点でかなり裕福な家庭であることはククルも理解していたが、その家の女主人は家庭的でおおらかな人柄であるらしい。部屋に入室した彼女は、ククルの姿に目を見開いた。
「お、お、女の子!ジオが女の子を連れてきたの!?」
「母上、黙って!」
「あらやだぁ、なんとも神秘的なお嬢様。ジオが失礼なことをしていないかしら」
「ククル・メメルと申します」
聖女に続きセルジオ、その母と全員に神秘的と言われたククルは少し笑ってしまう。
(どうやらこの一家には自分は神秘的な人間に見えるらしい)
そう理解したからだ。
「まぁまぁ、可愛らしい。いつお嫁に来てくれるのかしら」
「母上、彼女は、高位神官です!」
ジオは次男だから家のことは気にせずいつでもお嫁にいらっしゃいと語っていた笑顔のまま聖女の母が固まる。ククルを普通の孤児だと思ったのだろう。それはそうである。常識のある人はそう考える。
「ふふ、嬉しかったので、気にしないでください」
家族になるかもと歓迎されて悪い気のしないククルは、ふふっとたまらず笑ってしまう。先程までの深刻な空気も霧散して、なんとかなるかもしれないという希望が湧いてきていた。
「ジオ、あるわ、脈」
「え、いや、でもそんな、雲の上のような方にそんな」
「でもあるわよ、脈」
ピンク色の妖精の如き母子がこそこそと囁きあっていたのを、気分が上がって考え事をしていたククルは知らない。
ククルとセルジオが解決策を考えて過ごしている日々のなか、学内で行われる感謝の日に問題が起こった。
傍に居続けるヴァンに縋って聖女は涙を浮かべる。
「どうして」
呆然と呟く聖女に責めるような視線が集まる。とくに女子生徒からの視線は厳しいものだった。彼らに守られるように、フィリルが毅然とした表情で聖女に向かう。
青い髪の彼女の傍には王族のスカイと聖女に剣を捧げているはずの騎士ダイクと、商人のパトリックもいた。とはいっても、彼らはフィリルを守っているというよりは、ただ単に聖女への不信感のようなものを抱いている視線だった。
リリルに付き添っているヴァンも、彼女を支えているのは聖女への罪悪感からの行動に思えた。
「わたしは、ヒロインなのに」
その言葉の意味を理解しているのはククルとセルジオと、フィリルだけだろう。ククルはローブを脱いでセルジオに預ける。その下には高位神官の証ともいえる白地に金と紫の刺繍のされた神官服を身に纏っていた。
「あなたが悪いのです。聖女に選ばれたというのに、男性を誘惑して聖女の務めも何もしない、ただ遊んで暮らすあなたを、聖女として扱う訳にはいきません」
「何言ってるの?だってここはわたしのための世界でしょ?わたしにやさしいわたしだけの世界」
「そんな世界、ありませんわ」
そう言われて項垂れる姿を見たククルは(いきなり妖精の如きリリルになったとして自分とは思えまい)と異界の少女に少し同情する。
「どうしてみんな、そんな目でわたしを見るの!」
哀れに泣く姿はそれだけで同情を誘うが、これでは聖女が戻ったときにあまりに問題が多い。ククルは息を吸い込んだ。
「それは、あなたが聖女リリルではないからです。異界の少女」
しゃらしゃらと鈴の音を響かせて、催しが行われていた会場の中央に向かう。杖のごとき大きさになった白い鍵を使い、カンッと音を立てて大きな音を出す。
場は、痛いくらいの静けさに満ちている。そんな中で「神の目だ」と、誰かの落とした引きつったような声がよく響いた。
視線を独り占めにしたククルは口を開いた。
「異界のユア」
自分の名前が呼ばれて、彼女は驚いて顔を上げる。夢の中に居るようだった表情が、引き締まった瞬間でもあった。
「あなたは聖女の祈りに巻き込まれた被害者です。彼女の肉体を使って好き勝手した行為は褒められたものではありませんが、間違いなくあなたは被害者です」
ククルの紋章が光る瞳を見て、ユアは涙を浮かべる。
「わたし、死んじゃったの?確かにあのとき火が迫ってて、苦しくて、もう意識もなくなって、そしたらこの身体のなかにいたの」
「ええ、あなた方は死したあと、神のちょっとした手違いで魂の弱った肉体に憑依したのです」
「憑依?」
「他人の身体を自分のものにした、という説明で分かりますか?」
コクリと頷く少女を見やり、もう一方の女に語るのは気が重いと思いつつククルは顔を上げた。
「正直、まだ幼い魂が憑依した聖女の行いは、愛されたいという未熟な価値観で、尚且つ現実感もなく行われたことです。それゆえに致し方ないものがあります。ですが、あなたの行いはちょっと」
ククルは少し怒っていた。未来を知り、それを利用して有利に動くフィリルに憑依した女性の魂があまりに身勝手だったからだ。ここを現実だと言う割にゲームの情報を利用し、さらには他人の身体を乗っ取っているという意識があまりにもない。
「ユアより、十歳は上でしょうか?異界のイツキ」
顔を赤くしている姿は、見た目はフィリルのものなので少女に見えるが、実際は親世代に近い女性だ。演算結果を知り、己が優位に立つ世界で自信たっぷりに過ごしていたのだろうが、それでは本来のフィリルがあまりに可哀想だ。
「そう、なるほど。あなたは、転生なんてしていませんよ」
ククルは神の目を通して彼女が憑依したあたりを見る。鏡を見てすぐに転生したと思い込み、彼女にとっては玩具の中の世界にすぐに順応しようとするところは凄いと思うが、ただの思い込みの行動である。身体の持ち主である本来のフィリルの魂が死にかけてもなお、気にかけることはなかったのだ。
「そして、わたしはあなたを解任しなければなりません。騎士ダイク」
一際厳しい視線を彼に向ければ、神殿から派遣された騎士は神の目に慄いて、恐怖に満ちた表情を浮かべた。
「聖女の肉体は間違いなく聖女のもの、その側を離れるとは何ごとですか。聖女の変化も報告しませんでしたね。わたしにはじめに相談したのは聖女の家族でした」
彼は聖女とヴァンが親しくしているのを面白く思っていなかったのだろう。だから本来の聖女に戻れば自分への関心がなくなると思い報告をせず、聖女の行いが批難される段になると途端に被害者の顔をした。騎士としては若いが前途のある男だと紹介されていただけにククルも残念に思う。別に彼は悪ではないが、役立たずだ。
「職務を全うできぬ者に聖女の護衛を任せる訳にはいきません。神殿に戻りなさい」
「待ってくれ、それじゃ本物の聖女様はどうなって」
「もはやあなたには関係のないこと。去りなさい」
ククルの一刀両断に誰も声を出さない。
ヴァンとイツキとユアに別室に行くように伝えて、ククルの手から鍵が消えた。
「手を」
すっかりと聞き慣れたいつもの優しい声に反応してククルは手を差し出す。魂の名前を読むためと、パフォーマンスのために派手に力を使ってしまったのだ。失明状態に戻っては別室の場所さえ分からない。それでもこうして縋れるものがあることにククルは安堵しながら進んだ。昔とは違って、何も見えなくても手をとって支えてくれる人がいる。
目が見えていないことを感じさせないように、ククルは顔をあげて、ただセルジオを信じて歩いた。
ドアの閉まる音と同時に抱き上げられる。驚いていると、ククルは自分がソファの上に降ろされたのが分かった。
「ありがとう」
「いいえ、ここは控室の一室です。ヴァンとユアとイツキ、全員います」
「そう、セルジオもいてください」
「はい」
耳元で話をするので少し緊張しつつ、ククルは人の気配を感じるほうを見た。彼らにはドレイク神の行いとポポル神の演算が異界において玩具として存在したことを伝えようと思ったからだ。
ヴァンがリリルではない聖女でも、罪悪感からでも彼女を裏切らずに支えようとしていたのを見たとき、彼にも真実を話す覚悟がククルの中でできた。
「ごめんなさい!わたし、ずっとこれは夢だって思ってて。ゲームの中に入るとか意味わかんないし、自分のための楽しい夢を見てるんだって思い込んでて」
「ええ。死んだなんて思いたくなかったですよね」
宥めようとククルは笑顔を浮かべる。趣味悪いとかの暴言も、現実ではないと思っていたからこその本音だろう。根に持ってはいない。
「ククル様、わたしこれからどうなるんですか?」
「そうですね、神に祈りましょう。異界と違い、ここには女神メメルの導きがあります」
「神様に祈ったらわたし、死なないでもいいの?」
「分かりません。女神メメルは加減の下手な女神です。わたしの神の目も、ただ目が見えるようになりたいと祈ったら、神と同じ世界が見えるものを授かったのです。つまり、死にたくなっても死ねない肉体になる可能性も」
嘘ではないからセルジオもヴァンも驚かない。メメルはそういう女神だ。そのことに気がついたのか、小さな悲鳴が聞こえた。
「乙女ゲームが神様の演算結果。ああ、でもゲームと演算、一人を中心に幾つかの未来を予測ってつまりルート分岐だよね。確かに相性悪くないかも」
説明が終わった後、イツキは納得したように頷いた。自分が死んだのもユアよりも落ち着いて受け止めているようで、そこは確かに大人だったのだろう。指摘されれば自分が主人公になったかのような行いも恥じていた。
「自滅令嬢って言われるフィリルって可哀想で。だから彼女が愛される場所を作ってみようと思ったんだけど。フィリルにとっては自分のままじゃ絶対に愛されない証明をされたみたいで辛かったのね」
皆に愛されるフィリルの肉体を使うイツキと、フィリルは別人だ。
「身体を返してもいいんだけど、その後のフィリルが心配。彼女の環境、本当に良くないから」
「では、神殿であずかります。名指しで神に必要とされるのは大変名誉なことですので。真面目で大人しい気弱な本来の彼女には良い環境でしょう」
イツキ曰くフィリルの両親は毒親というものらしく、親と子を切り離すのが一番の対策に思えた。ククルの提案にイツキも「それなら」と、安堵したように息を吐き出した。
「わたしは、えっと、リリル様が戻りたいって思わないと意味ないんだよね。音楽ってピアノじゃなきゃ駄目だったの?」
ユアの発言に場が静まり返る。
「歌とかいいと思うけど」
歌って分からないのかなと呟いて、彼女が抑揚をつけて話した。
「今日は〜、とっても〜、いい天気〜。こうやって、もっと意味のある歌詞とか作ってそれに合わせて音をつくるの。リリル様きれいな声だから素敵だと思うけど」
ククルには思いつかない提案に驚いていると、ククルの横にドカッと誰かが座った気配がした。
「うむ!我はその歌というものに興味があるぞ。リリルの魂も興味を持ったようでな、連れてきた」
視界が戻らないククルはドレイク神の登場に慌てて挨拶をしようとしたが、「そのままでいい」と言われて動かないことにした。ドレイク神の近くで暖かな光のようなものを感じるのでそれが聖女リリルの魂なのだろう。
「リリル、俺は、君と一緒にいて楽しかったよ。確かに君の才能に嫉妬したけど、君にとっては呪いだったんだね。俺よりずっと怖かったのは君だったのに。気づけなくて本当にごめん」
ヴァンの素直な謝罪に場の空気がふわりと温かくなったのを感じた。
(聖女は許すつもりなのだろう。思ったよりもあっさり、上手にまとまりそうだ)
そんな空気を感じたククルは安堵した。
次第にぼんやりとしているが、少し視力の戻ったククルは、歌について話し合うヴァンとドレイク神とユアとイツキを見学しながら心のなかで女神メメルへと呼びかける。
(魔の神があなたよりやる気ですが)
目の前に光る紙が目の前に落ちてきて、ククルはそれを受け取った。
(愛し子に逃げられる自分の行いを反省している。聖女についてはしばらく夫に預けた。巻き込んだ彼女たちには元の肉体の情報をもとに、ポポルに体を作らせることにした)
呆れた内容である。
(いつものメメル神だ)
呆れつつも納得してククルは微笑みを浮かべた。
「わたしは、メメルの導きに今日も感謝しています」
たとえ何も見えなくなっても、自分を支えてくれると迷いなく信じることのできる人にククルは出会えたのだから。
ククルが背後を振り返れば、セルジオが笑顔を浮かべていた。
(他の誰かがメメル神のやり過ぎを悪く言ったとしても、わたしだけは大好きな神様の導きに感謝できます)
ククルは女神こっそりと自分の初恋を教えた。
この世界に歌が生まれた日。メメルの春の国では花が降った。
後に歌の誕生を祝福したのだと語られた出来事である。
実は一人の神官の言葉にメメルがとても喜んだだけ、という真実は女神の夫であるドレイクくらいしか知らない。