バイトと待ち伏せ
高校卒業後にうちの研究室に入る予定になっている少女を、夏休みの期間だけアルバイトとして雇うことになった。
昏夏時代の書物や遺物は多く残っているが、特に書物に関してはあまりにも膨大な量が残っているせいで、研究が追いついていない状態だった。
特に娯楽向けに書かれた大衆文学などは顕著で、多くの文豪が残した傑作の多くが日の目に当たらない場所に存在している。
そういうわけなので、色々あって彼女には一般人が読んでも問題のなさそうな小説の翻訳を頼むことになったのだ、翻訳したものはこちらで手が空いているものが確認して、その後で参考資料として原文の画像データとともに誰でも閲覧可能なオンラインの電子ライブラリに載せる予定だった。
その第一弾が本人の希望によってよりにもよってあの『蜥蜴と王冠』になったのはどうかと思うし、その次には続編であるあの『蝉と孔雀』が待ち構えているので、どうしたものかとは思っている。
けど名作だしまあいいか、実はうちの研究室にもあの『蝶のブローチ』の続編があるのならぜひ翻訳を、というリクエストは何度かきていたし。
そんなわけで彼女には平日の午前九時から午後四時まで、翻訳作業をお願いしている。
彼女のことだからあっさり終わらせるかと思いきや、「この言い回しをどう翻訳すれば読み手にいちばん響くのか」とか「これは原文だからこそ至高……! 現代語訳だとどう訳しても陳腐……!!」とか色々あーだこーだと悩みまくっていた。
そうやって悩みまくって真っ直ぐに真剣に取り組んでいてくれているので、気を抜くと定時から一、二時間過ぎているのにまだ作業をしていることが多々あった。
残業OKにしたらいくらでも居座って作業しそうなので、なるべくきっちり定時で帰らせるようにしているけど、忙しいとどうしても確認を怠ってしまう。
そういうわけで、今日も一時間以上残業させてしまっていたのを、慌てて止めた。
「十塚……タイマーをかけるなりなんなりして、定時でちゃんと帰ってくれ」
そう注意すると、彼女は「かけてたけど無意識に止めてたっぽい」と。
タイマーの意味がないな、と思いつつ見送ろうとしていたら、背後からやかましい声が。
「十塚ちゃんお疲れ様ー! タイミングいいからあたし今からコンビニ行こうと思ってるんだけど、途中まで一緒に行っていい?」
「いいぞ」
「やったあ!」
ぴょこんと跳ねたそいつに作業状況を聞いてみると「順調ですよー」と返ってきたので、ひとまずは信じることにした。
「おれもコーヒー飲みたいから、気晴らしにコンビニ行こうかな」
「わーい、じゃあ一緒にいきましょー、室長、可愛い部下に美味しいもの奢ってくださいなー」
なんてちゃっかりしている部下に、たまにはいいかと思いながら外に出る。
そしたら、何やら怪しげな人物が待ち構えていた。
黒いパーカーのフードを目深に被った、いかにもな風体の少年だった。
その少年はこちらを見るなり小さく舌打ちして、まっすぐこちらに向かってくる。
『遅い、何やってたこの馬鹿』
そうして非常に機嫌悪げにそう言ってきた。
現代語じゃない、自分達の研究対象である昏夏時代、その時代で使われていた言語だった。
どういうことだと思っていたら、十塚が一歩前に出て少年にこう言った。
『お前また来てたのか。迎えはいいって前から言ってんだろ』
昏夏語で話されたそれに対して、少年も同じ言語で返す。
『うっさい、お前みたいな無防備なチビをほっとけるか。残業するなら三十分以内にしろって言ってるでしょ』
『あー、もう悪かった、悪かったってば。タイマーかけてたんだが無意識に止めてたっぽくてな』
『また? 何度目だよ、そろそろいい加減にして』
『わかったわかった、明日から気をつける』
『そのセリフ、何度目か覚えてる?』
『……二回?』
『五回目だよこの馬鹿』
などというやりとりを、非常に流暢に、慣れた様子で。
そう言えば以前十塚になんでそんなに昏夏語話せるのか聞いたことがあったことと、その時に「話せる顔見知りが一人だけいて、そいつとたまに話してるのも理由かもな」と言っていたことを思い出す。
なるほどそれではこの少年がその顔見知りなのか、そんなに流暢に話せるのならうちに引き込むのもアリだなと思いながら、話しかけてみた。
『お前さんが十塚が前に言ってた、十塚の話し相手ってことか?』
そうしたら、少年が愕然とした顔でこちらの顔を見てきた。
そのまま凍りついてしまった少年に部下が『少年、昏夏語上手だねー、少年もうち来る?』とか話しかけていた。
『なんでそんなに驚いてるんだよ、お前。この人達、研究室の人。普通に昏夏語わかるし話せる。……お前、ひょっとしていつもみたいに理解されないと思っていつもの調子で話してたのか?』
と、十塚が少年の話しかけると、どうにも図星だったらしく少年の顔がさらに強張った。
十塚は深々と溜息を吐いて、少年に歩み寄り、その手を掴んで引っ張った。
『おい、しっかりしろ。素がバレた程度で固まるな』
少年は愕然としたまま十塚の顔を見て、次に自分と部下の顔を見た。
「も、申し訳ありません、お見苦しいところを……」
それで本当に申し訳なさそうな顔でそんなふうに言ってきた。
その変わり身の早さになんとなく、演技っぽいなと思った。
急に現代語に切り替えてきたのも、昏夏語だと地が出やすいのか単純に昏夏語の敬語を話し慣れていないのか、そのどっちかが理由だろう。
「いや、構わない。悪いな、なるべく残業はさせないようにしているんだが、ちょっと忙しくてこいつが残ってたことに気付かなかった」
「い、いえ……彼女、のめり込むとそれ以外のことが目に入らなくなるのは知っているので……それと、何度か注意してくださっているという話も聞いているので……」
「そうか……おれらもなるべく気をつけるから、今日は勘弁してやってほしい。……それじゃあ十塚、またな」
「はい、また明日」
そう言って軽く手を振って、まだ何か話したそうな部下を引き摺ってコンビニに向かった。
部下はもっとお話ししてみたかったとぶすくれていたけど、今は放っておいた方が無難だろうと思ったのだ。