プロローグ
〜日曜日、佳作座に行かない?〜
その一言が、尊の口から言葉となって出て来るまでかなりの時間がかかった。
少し後ろを俯きかげんに歩いている酒井千夏のセーラー服姿が、振り返った尊には眩しかった。
遠い過去の出来事。
小田尊は、ここ数ヶ月この日の情景が脳裏をよぎる事が多く、自分でもそれが何故なのか不思議だった。
彼が、千夏の存在を知ったのは、中学校入学後一ヶ月が過ぎた頃だ。
同じ中学校に通いながら千夏の事を知るまでに時間がかかったのは、尊が学区域外の小学校から入学したためだ。
区立市谷第三中学校には、周辺の三つの小学校そ卒業した生徒達が集まっていて新入生は皆、三分の一は顔見知りということになる。
市谷三中の在る新宿区の小学校ではなく港区の小学校を卒業した尊には当然、顔見知りの生徒はひとりもいなかった。
尊のクラスはE組だった。
このクラスの担任は、大田黒という理科が専門の教師だったが、その風貌から生徒達は彼に《熊さん》というあだ名をつけた。
『え〜新宿区には、中学校が15校在る。そして各校に1学年のクラスが5つ。併せて75クラス。え〜その中で75番目のクラスが、お前達のE組であ〜る。』
大田黒は、新学期早々の朝礼で芝居っ気たっぷりにこう言った。
大きな身体に、ボサボサの頭髪は逆立ち、いつ洗ったのだろうと思ってしまう染みだらけの黄ばんだ白衣にはあちこちに鉤裂きがあった。
この映画や小説の世界でしか出会えないような教師は、たちまちのうちに生徒達の心を掴んだ。
小学校の時とは違い全教科を担任が教えるという事がないために、理科の授業がない日は朝礼と終礼、その後の掃除の時にしか会うことは出来ない。
生徒達は、大田黒と出会う時間を楽しみにしていた。