ハゲてきた話
生まれ落ちてこの方、数十年ぶりに髪が薄くなってきた筆者。
一さじの恐怖をスパイスにご笑覧あれ。
この試練、次はあなたかもしれないのだから――
髪が減った。
結論から言うと、ハゲてきてしまった。
弱冠――というには少し歳を食ってしまったが、二十と数歳。
この文章を書く、ほんの半年前からの出来事である。
抜けたてほやほや――というには少々散らかってしまったが、とにかく初期段階である。
どうしてこうなってしまったのか。
なかなか頭が痛い。いや寒い。
先達として、若人らへ。
何かの役に立てばいい。
そういう想いで、今から、それを綴っていきたい。
遅ればせながらご挨拶。
私は名をみしんという。しがない個人消費家である。
◆
髪が減る理由など相場は決まっている。遺伝かストレスだ。
みしん、遺伝子については自信があった。
そう、一族内のハゲ率はさして高くない。
直系親族のなかでハゲているのは父方の祖父のみであり、近しいところみなフサの家系といってよい。
それこそ既出の父方祖父以外、母方祖父、叔父、従兄弟、そして無論父も年齢の割には相対的にフサの者、すなわち髪エリート一族なのである。
髪エリートの血族に連なるからには、己が血に刻まれし遺伝子もまた髪エリート。それは絶対不変の神話であり、疑うことなき自明の真理であった。
まあ結局、そのちんけな毛髪神話とやらも気付けば絨毯に横たわる陰毛が如く簡単に揺らぎ抜け落ちる程度のものでしかなかったことになるのだが。ともかく。
ゆえに、その日みしんは戦慄した。
こ、これは……左前髪が、すかすかになっている……!
私は外見に対して割合ずぼらであるから、普段ちらと覗いて「うんオッケー♡」くらいのノリでサヨナラしていた鏡にとっくり向き合ったのは久方ぶりのことであった。
そして少しよくみれば、その様子は手に取るようにわかった。
当然である。もうそれは執拗にも、手に取って眺めているのだから。少しよくみるどころの騒ぎではない。
まず少量――もとより少量しか残っていないのだが――手繰ってあわせて引っ張って、寄せて上げて、えーこっちの髪もってこれねーかないやまーそりゃー無理だ無理無理、当然?わかって?ましたし? いやーまいったなー(笑) まじでなー。……まいったなー……
間違いない。薄くなっている。
この時、事態に怯える無力な自分がいる一方、頭の片隅で冷静な自分が見つけた小さな発見があったことをお伝えしたい。
諸兄らは育て上げた左右どちらかの髪を反対側へ持ってくる、あの伝統的なヘアスタイルをご存知であろう。
そう。俗にいうバーコードである。
ここで、諸兄らに問いたい。
仮定してほしい。万が一、諸兄らが男性だったとして、それなりの年齢だったとして、頭頂部の毛髪が著しく減少してしまったとき。諸兄らは、バーコードという選択をとるだろうか?
そう。とるのだ。
諸兄らは、バーコードにするのである。
いや、これは確かに、多少劇的に断言しすぎたきらいはある。そこは認めよう。
言いたいことはわかる。多くの諸兄らはきっと、おれはあたしは、たとえハゲようともあんな髪型にはしない、しようとも思わない、そう考えたはずだ。そう考えなかった諸兄らも、きっと「いやいやおれはあたしはあの素敵なバーコードにする絶対」積極的に肯定することはなかったのではなかろうか。
確かに、もし諸兄らがそれなりの年齢の男性で頭頂部の毛髪が著しく減少したとしても、必ずしもバーコードにするとは限らない。しかし、そこに至る過程において、少なくとも「うーん、えっと、こっちの髪をこう――」寄せて上げるバストアップを試みる瞬間がきっとあるはずで、その瞬間が、まるでフサフサの毛根がごとくひとつの毛穴から無数に分岐する未来、その中のか細い一本を掴み取った時、その頭頂部にはバーコードが、髪が降臨するのである。
あるものを必要な場所へ持ってくる、その合理的帰結のなすひとつの形がバーコードなのだと言えるはずだ。
いかにハゲ始めた左前頭部を発見し狼狽する最中とて、こういうところを見逃さない知性の輝きを大切にしていきたいと思った。額の輝きは抑えていきたいと思った。
ん-しかしこれ本当にハゲてんのかな。
いや、薄くなっている事実は認める。そこを否定するわけではもちろんない。
しかし、その事実認定が検証という作業の必要性まで拭い去るわけでないこともまた事実なのである。つまり「確かに私はハゲている」と「確かにそうといえるだろうか」はセット、決して現実からの頭皮――もとい逃避を画策しているわけではなく、これはまったく言い訳というわけではなく、そもそも人類は対照実験という実証主義に基づき正確かつ合理的に自然科学を発展させて――
鏡に学生時代の写真を並べた。
めちゃ減っとるわ。
なるほどね。
そうですか。そうきたましたか。
いいでしょう。
あるわね、そこに。大きな課題が。
しかしそこは我が国が世界に誇るエリートビジネスパーソン、みしん。数年の歳月を経て磨かれたビジネススキルにとってみれば、課題は困難であればあるほど料理のしがいがあるというもの。
まず事実の認識は齟齬なく迅速に。要因を分析、コアを抽出、対策を立案そして実行、そして適宜修正。つまり――
みしん、決意した。
うん。退職しよう。
◆
髪が減る理由など相場は決まっている。遺伝でなければストレスだ。
いや、ハゲた事実をベースに考えれば遺伝も怪しいところはある。何が血だ。何がエリート髪だ。しかし、今回より明白な心当たりがひとつある。
職場環境である。
実は私、昨年初夏のころ異動があり、以降性根の曲がった所属長にいびられ倒しているのである。
この異動、今は御社となってしまった当時の弊社においてはそれなりに精鋭を集める意識の高い部署に潜り込むというある種の栄転ではあったものの、問題はその意識の高い所属長が善性の者でなかったということに尽きる。
もうこの所属長がいびるいびる、およそ目下という目下の者はとりあえずいびっておけとばかりに舌鋒鋭くこき下ろすものだからたまらない。なかでも一番仕事のできないみしんはたまらない。なにせチームで一番仕事ができない。当たりだって一番強い。
結果から言えば、所属長殿の立派ないびりは私の立派だった生え際を戦略的撤退へと追い込むことに成功した。業務のパフォーマンスを追い込むことにも成功した。
ただ一点残念というべきは、実務能力という面では上からの覚えもめでたい優秀な所属長殿も、しかし数々のいびりエピソードにおいて本稿のネタにできる水準の面白さが何一つないあたり実に使えない所属長殿なのである。
とはいえ。私の生え際を毟ることでひいては本稿を世に生み出した恩を持ち出されると返す言葉がない。まったく、所属長殿への感謝は尽きぬところがあるのだ。
さておきハゲ発見からもぅマヂ無理退職しょと発想が跳躍するまで秒かからなかったのもむべなるかな、かような経緯のストレスが背景にあった。
そうと決まれば話は早い。
即日転職エージェントサイトに登録、マッハで書類選考を通し破竹の勢いで面接を重ね怒涛の採用通知を得てチキンを食い車を売りケーキを食い二輪を売り新居を見つけ雑煮を啜りキッパリ退職、頭皮も抜け毛も何もかもサッパリ整理して引越したのである。
なあ東京、魔都を吹く北風よ。
お前は私を、何もかも失い辿り着いた私を、その頭をそっと撫でてくれるだろうか。
◆
今日、ハゲ治療のオンライン診療を受けた。
明日から戦っていくぞ。
これは後退の許されぬ飽くなき闘争、その序章たる宣戦布告の一編である。
他人事でないあなた。
どうも先輩よろしくです。