第二話 大陸動乱
第二次世界大戦が終わっても尚、世界は混乱から脱せたとは言いがたかった。
日本の降伏後に第二次国共内戦は始まるし、同時に米ソ間の対立も始まった。
そんな中で日本はイギリスの庇護下に入る為に英連邦に加盟する。
ここで勘違いして欲しくないのは英連邦は経済同盟であり、同君連合である英連邦王国とは別物である点だ。
英連邦の中には独自の君主制を持った国もいくつか存在している為、日本が英連邦に居ても問題はないのである。
さらに連合国諸国との平和条約がウィンチェスター大聖堂にて締結された。
署名された場所の地名から通称ウィンチェスター平和条約と呼ばれる。
ソ連が署名を拒否したので国際連合には加入出来なかったが、日本はとりあえず国際社会への復帰を早々に果たした。
さて日本がイギリスの影響下に入っていた反面、中華民国などはアメリカの影響下に入っていた。
中華民国には大量に余った兵器が供与されたり、韓国は米軍が駐留して基地をつくったりしていた。
第二次国共内戦はアメリカとソ連の支援によって泥沼の戦いに発展する。
資源と兵力をすり潰すだけの内戦に国民党と共産党は疲弊し、そんな状況に民衆の心は次第に離れ出していく。
双方はこれ以上民衆の支持が離れる前に講和を行った。
そして西側に広州を首都とした中華民国が、東側に北京を首都とした中華人民共和国が建国される。
後にドイツになぞらえて中華民国は西中国、中華人民共和国は東中国と呼ばれることになる。
それからしばらく経った後、朝鮮戦争が勃発した。
朝鮮戦争が勃発すると日本は後方基地となり、経済界には特需が訪れた。
日本軍もイギリスに要請され、国連に加入してもいないのに国連軍に参加する。
日本は後方での警備活動が主だったが、例外として一部の戦車部隊は最前線で戦った。
何故かというとイギリスから押し付けられた戦車の中には、チャーチル歩兵戦車という戦車があった。
チャーチル歩兵戦車は鈍足であったが装甲が厚かった為、他の戦車の盾として矢面に立たされたのだった。
紆余曲折あり朝鮮戦争は北朝鮮と韓国の停戦という形で幕を下ろす。
さて戦後で一番厄介なのがヤーポン法が日本や中華民国などで使用されるようになった事である。
輸入されてくるのがヤーポン法基準の製品ばかりであり、戦争で何もかも吹き飛んだ後というのもあってヤーポン法が主流となってしまった。
さらに困ったことに日本はイギリスの帝国単位を使用し、中華民国はアメリカの慣用単位を使用している。
同じヤーポン法でも帝国単位と慣用単位では違いがあり、微妙に誤差が生じたりする。
将来的に日本と中華民国の間で貿易が始まると問題が発生するのだが、復興に一生懸命な日中にはそんな事を気にしている余裕はなかった。