プロローグ
9月2日ミズーリの甲板に連合国の代表として立っていたのは、ダグラス・マッカーサーではなかった。
連合国軍最高司令官に任ぜられたのは、イギリス軍人のアーサー・アーネスト・パーシバルだ。
なぜイギリス軍人が最高司令官なのか、それは太平洋戦争の進み方にある。
この世界で日本軍の真珠湾攻撃は大成功に終わった。
アメリカは空母と戦艦を艦隊ごと沈められ、燃料タンクも破壊されてしまう。
さらには燃料が湾内に流れ出し一面火の海になり、真珠湾はしばらく使用不能となってしまった。
日本軍はこの勢いに乗って連戦連勝と行きたかったが、次の作戦ではいきなり壁にぶち当たってしまう。
マレー作戦において日本軍はイギリス軍に大敗を喫し、マレー沖海戦では艦隊を見失い撃沈できなかった。
しかもその艦隊は戦艦6隻と空母3隻からなる大戦力だった。
そこで日本軍は一時的にシンガポールの攻略を諦め、フィリピンに注力する。
フィリピンの戦いでは打って変わってアメリカ軍の大敗北、日本軍の大勝利に終わった。
それからというものアメリカ軍はボロ負けが続き、次々と太平洋の島々を占領されてしまう。
しかし蘭印やビルマなどの東南アジアでは日本軍は全く勝てなかった。
ミッドウェー以降もアメリカ軍は海戦では勝てるが陸戦では負け続ける。
そんなアメリカ軍に代わってフィリピンやグアムを解放したのがイギリス軍だった。
遂にはイギリス軍が沖縄上陸を行い日本占領の主導権を握った。
ヨーロッパではアメリカが主導権を握っている代わりに、イギリスはアジアで主導権を握ろうとしたのである。
この一連の戦いの中で司令官として戦っていたのがアーサー・アーネスト・パーシバルだ。
アーサー・アーネスト・パーシバル(以後アーサー・パーシバル又はパーシバル)はイギリス軍はもちろん、アメリカ軍やオランダ軍からも英雄と言われている。
そんな人物を差し置いて、流石のアメリカもマッカーサーを最高司令官には出来なかった。
8月14日にパーシバルは連合国軍最高司令官となり、イギリスによる日本統治が始まるのである。
8月30日にパーシバルはランカスターで厚木に降り立ったのだが、淡々とタラップから降りて日本の政府要人と握手したらそそくさと車に乗ってしまった。
服装もおそらくは正装の軍服なのだろうが着古されたものであり、偉ぶる素振りはひとつもなかった。
それもそのはず、彼は一兵卒から叩き上げで陸軍元帥になった人物である為、非常に素朴な人物なのである。
その後パーシバル一行は帝国ホテルに向かい、そこで一応記者会見を行った。
ミズーリで行われた調印式も簡素なものであり、列席していたマッカーサーはとても苛ついていたらしい。
パーシバルは明治生命館に連合国最高司令官総司令部を置き、イギリスによる日本の統治を始める。
GHQはとりあえず復員を進めるが、残存している兵力の武装解除は先送りにした。
次に行われたのは戦争犯罪人の逮捕であるが、ニュルンベルク裁判と比べて非常に緩かった。
逮捕された人数は少なく、A級戦犯の殆どが永久公職追放と終身刑が言い渡される。
軍人にしても下士官以下は見逃され、士官や将校も適当な刑が科せられた。
パーシバルは9月27日に自ら皇居を訪れ天皇との初の会談を行う。
天皇に会う際パーシバルは自国の王と謁見する時と同じように振る舞った。
この行為は日本国民に対して好意的に受けれめられた。
庶民派で気取らず礼儀正しい老兵は日本人の価値観に受け入れやすかったのである。
新聞記事の一面に載った写真も着古されてはいるが正装で礼儀正しく立っているものであり、イギリスは日本を尊重してくれていると国民は感じた。
パーシバルによって日本の民主化が進められるが、何もかも全てがイギリス式となる。
例えば華族と貴族院は維持されるのだが、華族は貴族へと名称を変えイギリスと同じような制度になる。
世襲貴族・一代貴族の二つに分けられ、宮家は世襲貴族の皇族公爵という型であるが存続を許された。
日本にはナイトや準男爵などの爵位は無かったので、そういう細かい所は位階や官位などによって補っている。
議会では新たに職仗が作られ黒仗官と守衛官の役職ができた。
これらから分かるように、イギリスと同じく君臨すれども統治せずの原則により、天皇は実務上の権力を有しないことになる。
しかし名目上、日本の三権の源とされるのは天皇とされ、実際には議会・内閣・裁判所がそれぞれの統治権力を分け合うのである。
つまり戦前日本よりは民主的に、史実日本よりは立憲君主的になった訳だ。
さてGHQというかイギリスは日本に再軍備して欲しいと考えていた。
イギリス首相のウィンストン・チャーチルが反共主義であるのと、戦後のイニシアチブを取るためにソ連に対する防波堤にしたかったのである。
日本を再軍備させよとの命令を受けたパーシバルはどうやって再軍備させるか悩んだ。
そしてパーシバルが最終的に目をつけたのが禁衛府であった。