奇跡がぽんと起きる世界
花がぽんと咲いた。高層ビルの52階のガラス窓に。
おれはゴンドラに乗って窓拭きをしながら、それをどうしようか迷った。迷った末に、そこを避けて窓を拭き終えた。綺麗な薔薇に似た真紅の花だった。
恐らく拭き残したことを後で雇い主にうるさく言われるだろうが、どうでもいい。どうせこの世界はニセモノだ。
奇跡というのはめったに起こらないから奇跡と言うのだ。この世界ではそれがいとも容易く、ぽんと起きる。
それもおれの周りでばかりだ。他人は皆、ふつうに叶わないような、あり得ない夢を見ながら暮らしている。
この世界はたぶん、おれが見ている夢か何かなのだろう。
あまりにおれに都合のいいことが起こりすぎる。試しにおれはまた、ゴンドラの上から飛び降りてみることにする。
「うわあああ!!」
さすがに恐怖は感じた。52階、約200メートルからの落下だ。眼下のオモチャみたいな街の景色がぐんぐんと現実となって迫って来る。
何も起こらなかった。おれは足からスタッとアスファルトの上に着地した。いくらなんでも映画だってこういう時には『どーん!』とか効果音が鳴り響き、アスファルトが割れたりするものだろう。あまりにも普通に着地してしまった。まあ、これも立派に奇跡ではある。
足が痛くもなんともなかった。おれは作業着のまま、そこにたまたまあったパステルカラーの移動販売の店でホットドッグを買うと、歩き出した。
このホットドッグもどうせニセモノなのだろう。しかしパンは噛み応えがあり、ソーセージもジューシーで、美味しかった。
さて昼飯を済ませた。どこに行って何をしようかと考えていると、暇潰しにもってこいのものを見つけた。
モンスターだ。しかも強敵だ。『死にそう体験タランチュラ』の名で恐れられ、街を騒がせているやつだということをおれはなぜか知っていた。
逃げ惑う人々をよそに、やつはおれを見つけるなり飛びかかって来た。八本の恐ろしい脚で。剛毛が痛そうだ。
「フッ。どこを見ている」
おれは後ろからタランチュラに言った。やつはおれの見せた幻影に飛びかかったのだ。
街の人々がおれに声援を送っている。
タランチュラは言葉を喋れない。しかし「こいつは殺し甲斐がありそうだ」みたいに笑うと、二体に分身した。
おれは挟み撃ちにされた。それぞれの方向から毒牙で襲いかかって来る。よし、ギリギリで避けて、味方同士で顔をぶつけ合ってもらおうか。
あっ。
おれは声を上げた。分身は二体ではなかった。三体目がいた。そいつが背後から身を低くしてこっそりと近づいていて、おれの尻に毒牙で注射をしやがったのだ。
まぁ、大丈夫だろう。今回も何か奇跡がぽんと起きるはずだ。神風が吹いて金ダライでも飛ばして来るか、横から「待てっ!」とか言いながら思いもよらない仲間が駆けつけてくれるか。
二体の毒牙もあっさりと、おれに噛みついた。左の頬と、右の側頭部だ。痛い。
毒がおれの中にちゅーちゅーと音を立てて注ぎ込まれる。おいおい奇跡はどうした。
おれはヒーローに変身するシーンもなく、窓拭きの作業着姿のまま、アスファルトに倒れ、死んだ。
……。
いや、待て。なぜ死んだやつがこうやって文章を書くことができる?
そう思っていると、上のほうから神様の声らしきものが降って来た。
「おいおい……。死んでしまうとはなにごとだ」
おれは答えた。
「いやいや……。今回たまたま奇跡が起こらなかったもんで」
「いくら主人公だからって、そんなに漫然と運命任せにしてたらダメだろ」
「しゅ、主人公?」
「目的意識をもって、しっかりと物語を作れよ。キャラがしっかりしてたら物語は勝手にできるものなんだからな」
「も、物語? きゃ、キャラ?」
「描き直しだ。これ、今回の新人賞に出すやつなんだから、しっかり動いてくれよな」
上からGペンが降って来た。おれの姿が描かれる。また作業着姿にされた。
そうか、ここはマンガの中だったのか。作者は下書きはおろかネームも起こさずに直感的な即興で描くタイプらしい。
おれは再び奇跡がぽんと起きる世界の中に飛び込んで行った。
タランチュラが歩道に立っておれを待っていてくれた。「しっかりしろよ」と言いたそうな表情で。
さーて、それじゃ宝くじでぽんと3億円ぐらい当てますか……。