5 悪魔の海域
ギリギリ間に合いました。
「いよいよ濃くなってきたわね……」
ツォーネが手で庇を作りながら呟く。
辺りを包む霧は刻々と深さを増し、もはやこの船以外に何も見えなくなっていた。
まるでどこまでも広がる真っ白な世界。
バレルがハンドルを握って操舵しつつ、真面目なトーンで言った。
「いよいよ入ったのかもな。悪魔の海域に」
悪魔の海域……ひとたび迷い込めば、二度と出る事ができないと言われる、禁断の海域。
どうやら、確かに入ったらしいな。
濃霧もそうだが、大気中の魔力濃度が跳ね上がっている。
重苦しい空気が漂っている。
不気味だ。
「ゼクス、周囲に敵はいるか?」
「今はいない、が……。すまない、【感知】が効かなくなってきた」
「この魔力濃度じゃ仕方がない。よし、全員で警戒するぞ。この霧でほとんど見えないだろうが、何か見つけたらすぐ知らせてくれ」
バレルの指示により、四人揃って船の周囲を見張る。
緊張感が高まっていく。
刻々と過ぎる時間。
未だモンスターの影はない。
恐ろしいほど静かだ。
「……」
ふと、アイルが霧に包まれた空を見上げた。
「どうしたアイル」
問うと、アイルは静かな口調で答えた。
「……嵐が来ます」
警戒することしばし。
アイルの言った通り、次第に天候は悪くなり、雨が降りだした。雨音が甲板を打つ。
更に風が吹き始めた影響で波が強くなり、船体が揺られている。
そんな折、【感知】を巡らせていたオレは船に接近してくる存在に気付いた。
船の左後方、二百メートル。
【感知】が鈍っていて姿形は不明だが、巨大な影が物凄い速度で接近している。
「モンスターだ! アイルッ!」
「わかりました」
ダダッ! とオレはアイルとともに船尾へ走る。
オレは船首付近にいるツォーネに向かって叫んだ。
「ツォーネ、霧を払ってくれ!」
「了解! 風よ!」
ツォーネが腕を振ると突風が吹き、船後方の霧が晴れて深青の海が露わになる。
アイルが呟いた。
「あれは……」
水面を切り裂くようにして猛スピードで迫る、巨大な背びれ。
その下に見える影は、二十メートルは優にある。
あいつは――
「メガロドンだ……ッ!」
メガロドン――遥か古代、海の王者に君臨していたと言われる、巨大なサメのモンスター。
図鑑でしか見た事のない、既に絶滅したはずの生物だ。
(そうか……)
恐らく悪魔の海域は、未開拓地域の一部。
通常の海域にいないモンスターがはびこっているんだ。
メガロドン……まさかあいつが、“悪魔の海域”に棲む怪物――
「っ、きます……!」
直後、激しい水しぶきとともに海から飛び出てきたメガロドンは、オレ達を船ごと食らわんと飛びかかってくる。
もしも直撃すれば、船は一瞬で木っ端微塵だ。
仕方ない、ここはリスクを承知で外すしか――
「「!?」」
オレが魔力を解放しようとした時だった。
突然、霧の中から伸びてきた大きな触手にメガロドンが絡め取られ、そのまま引っ張られるようにして霧の中へと消えた。
「なっ……」
あまりの唐突な出来事に、オレは何が起きたのか分からず絶句した。
横のアイルも口を開けて固まっている。
(二十メートル級の巨体が一瞬で消えた、だと?)
一体何が――
「!? お前ら、気をつけろッ!」
バレルが大声で叫んだ、直後。
ごうっ! という音ともに霧の中から何本もの触手が現れ、次々と船に巻きついた。
それは一本や二本どころではない。
十本近くもの太い触手が絡みつき、強い力で船を引っ張っていた。
「な、なによこれ!?」
「狼狽えるなツォーネ、航行を続けろ! くそッ……なんだこいつは!?」
悪態を吐くバレルに、オレは言った。
「バレル、このままだと船が海底に引きずり込まれるぞ」
「くっ……アイル、ゼクス! 船に巻きついているこのくそったれなモノを船から剥がしてくれ!」
「了解」「分かりました」
オレとアイルはまず、船に巻きついている触手を素早く観察。
見れば、触手には吸盤があり、船体に吸い付いていた。
「吸盤……蛸足のようですね」
「生半可な事では剥がれそうにないな。ショックを与えて離させるしかない」
「ショック? それはどうやって――」
「少し離れてくれ」
オレは船の中央付近にいくと、船に巻きつく触手たちに手を向けた。
「第二階梯魔法――【エレキショック】」
――バチチチチチチィッ!
スパークが迸り、紫電が船に巻きつく触手に次々と飛来、感電した。
すると触手たちは跳ねるようにして船体から離れ、霧の中へと消えていった。
今の光景を見ていたアイルが問うてくる。
「今の魔法……【エレキショック】ですか? 威力が通常より高かったように見受けましたが」
「雷魔法は得意だからな。【エレキショック】は電圧が低いが、驚かす事はできたようだな」
「紫電の魔法使い……あなたはまさか……」
アイルが何かに気づいたように呟く。
とその時、操舵しているバレルが声を張り上げた。
「お前たち、気を緩めるな! ツォーネ!」
「【トルネード】ッ!」
ツォーネが両手をタクトのように振るい、船の周囲に強烈な竜巻を巻き起こす。
すると周囲の霧が吹き飛ばされ、半径百メートルほどの視界が晴れた。
「この音は……」
アイルが向けた視線の先……船の左舷、五十メートル程の海面がボコボコと泡立っている。
泡はみるみるうちに大きくなり、やがて一気に海が膨らんだ。
膨大な量の海水をまといながら現れたそいつを見て、バレルが舌打ちする。
「よりによって、一番出会いたくないヤツのお出ましか」
姿を現したのは、巨大な悪魔だった。
丸みを帯びた頭。
吸盤のついた十を超える太い腕。
ぬめりのある苔むした皮膚。
幼い頃、母親に絵本を読み聞かせられた者なら誰でも知っているであろう、深海に棲むモンスター。
アイルが呟く。
「クラーケン……」
――クラーケン。
太古より船乗りに恐れられてきた、海の悪魔。現れるだけで嵐などの環境異常を引き起こし、太い腕で獲物を海の底へ引きずり込む。危険レベルは定かではないが、推定58。危険性でいえば、アンフィスバエナと同等ということだ。
そうか……あいつが、この海域に棲む怪物。
そして、原因不明の海霧を引き起こしていた元凶――。
「ゼクス、アイル」
バレルが落ち着いた声音で言った。
「船は俺とツォーネに任せろ。その代わり、お前たちがヤツを叩け」
さすがはバレル。
クラーケンを前にしてほとんど動じないとは、百戦錬磨の『鬼神』は伊達じゃないな。
「! 来るわ!」
クラーケンが再び触手を伸ばしてくる。
だが、既に霧は晴れている。
目視さえできれば、防ぐのは容易い。
「【雷撃雨】」
紫電の雨が目にも留まらぬ速さで降り注ぎ、幾重もの触手を焼き切る。
切断された触手は、だがすぐに再生した。
その間、約五秒。
なんて再生力だ。
――ごうっ!
再び触手が飛んでくる。
あんなものを叩きつけられたら、船はただじゃすまない。
「――【聖なる光の盾】」
刹那、船を守るようにして光の壁が発現、触手をことごとくはじき返した。
見れば、光の輪と翼を生やしたアイルが触手に向かって両手を伸ばしていた。
次いで、アイルは光の矢を生成、射出。
狙いはクラーケンの頭部。
尾を引きながら飛来した無数の光矢がクラーケンを貫く。
だが数秒後、クラーケンの頭部に開いた穴は瞬く間に塞がってしまった。
(触手以外も再生するのか)
とその時、触手が光の壁をぐるりと回り込み、アイルに襲いかかった。
「アイルッ!」
「っ……!」
死角からの攻撃に、一瞬反応が遅れるアイル。
オレは甲板を蹴った。
ぶぅんっ! と鞭のように振るわれた触手を、オレはアイルを抱きかかえて転がりながら躱した。
「大丈夫か、アイル」
オレが膝立ちになってアイルの体を起こしながら言うと、アイルは僅かに狼狽した表情になって、
「腕が……」
言われて気づく。
左腕が熱い。
ギリギリで避けたつもりだったが、触手の吸盤に掠ったらしい。
肉がごっそり抉れてやがる。
激しく痛む、が……今は気にしている暇はない。
「これくらい問題ない。立てるか」
手を伸ばすも、アイルは動こうとしない。
青い瞳でオレを見つめていた。
「……どうして」
アイルが呟く。その声は微かに震えていた。
「どうして、私を助けたんですか」
「仲間を助けるのに理由はいらない」
オレの言葉に、アイルの瞳が僅かに揺れた。
「いいから立てるか」
「……一人で立てます」
「そうか」
アイルとともに立ち上がると、操舵に専念していたバレルが、
「お前たち、思い出したぞ! 確か、クラーケンの体には“核”がある! 恐らくそれを破壊しない限り、永遠に再生し続けるぞ!」
と教えてくれた。
核、か。
だったら話が早い。
「アイル、光の壁で触手を防ぐ事に専念しろ」
「何をするつもり?」
「核を破壊する」
アイルが光の壁で船を守ってくれている間、まずオレは半身になり、怪我をしていない方、右腕をクラーケンに向けて伸ばした。
そして右手の人差し指と中指を伸ばし、その二本に魔力を集中させていく。
クラーケンは巨大で、更にヤツとの間には距離がある。
だが、大技ではダメだ。
恐らくどうやっても船に負担がかかってしまい、今後の航行に支障が出る。
この大海原で遭難したりしたら、“悪魔の海域”の犠牲者の仲間入りだ。
だったら、最小限のパワーで撃ち抜くのみ。
左目を閉じ、右目に魔力を宿す。
途端、クラーケンの体が透けて見えるようになる。
これは【凝眼】という技で、【強化】の一種。魔力を目に集中させる事で対象の内部まで透視、分析できるようになる。
(……見つけたぞ)
クラーケンの右端にある触手の付け根、そこに魔力の塊がある。
あれが核だ。
後は、風を読み、狙いを定めるだけ。
この嵐だ。チャンスは一瞬。
……まだだ。
まだ。
まだ。
まだ。
――今だ。
「【雷閃】」
刹那、指の先から紫の閃光が撃ち出された。
神速の弾丸は空を駆け、海を越える。
そして――クラーケンの核を寸分違わず撃ち抜いた。
アイルが息を飲むのが分かった。
ややあって、クラーケンの肉体は泥のように崩れ、海に沈んでいった。
やがて吹き荒れていた嵐が収まり、雨も上がった。
「……やったか」
オレは息を吐く。
【雷閃】。狙い撃ちに特化した神速の雷。【雷撃】の派生したオリジナル魔法だ。
と、左腕にずきりと痛みが走った。
これは当分、左腕は使えないな。
「よくやった、お前たち」
バレルがタバコを吹かしつつ、笑いかけてきた。額に汗が滲んでいる。
相当操舵に集中していたようだな。
「ゼクスくん、お疲れ様。中で応急処置をしましょ」
労ってくれるツォーネとともに船内に向かおうとした時、アイルが言った。
「待ってください。……まだ霧が晴れてない」
その時、遠くから白い霧が迫ってきて、船を再び霧で包み込んだ。
「おいおい、こりゃどういうことだ」
バレルが周囲を警戒するように目を配る。
「クラーケンは霧の元凶じゃなかったってことか?」
確かに、霧が未だ晴れていないということは、そういうことだろう。
だったら一体、何が霧を引き起こしているんだ?
オレ達の間に重い空気がながれだした、その時だった。
「!」
オレの懐で何かが光っている。
取り出すと、それはサンプトンの街で謎の少女に貰った青い石だった。
「ゼクスくん、それはっ?」
「なんだ、すげえ光ってるぞ……!?」
光は次第に強くなり、やがて眩い閃光が周囲を包み込み、思わずオレ達は目を覆う。
「う……」
しばらくして光が収まり、オレはゆっくりと瞼を持ち上げた。
瞬間、オレは息を飲む。
霧が綺麗さっぱり消えていたのだ。
空は晴れ渡り、穏やかな海がどこまでも続いている。
「み……みんな、あ、あれを見て……!」
ツォーネの指差す方に目を向けた途端、オレ達はそれぞれ驚愕の声を漏らした。
「な、なんだありゃあ……!」
「……!」
バレルだけでなく、アイルも驚きを露わにしていた。
それもそのはず。
ツォーネの指差す先。
そこには――宙に浮かぶ島があったのだから。
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