あんたが負けたら、あたしは死ぬのよ
銃声がした。
おそるおそる目を開けた。
恭輔が、さっきと変わらない姿勢でしっかりと立っている。
道路に拳銃が転がっている。「あごひげ」が逃げていく背中が見えた。
恭輔がふり返った。
「高橋、ありがとう。助かった」
エリカもふり返ると、ライフルを持った高橋が走って近寄ってくるのが見えた。
「お怪我は…」
「ない。しかし今のはまずかったな」
エリカは口を挟んだ。
「どういうこと?」
「軍隊っていうものは、いちいち現地の法律を守ってはいられない。戦時国際法の規定を除けば、国内法によってのみ縛られる。自衛隊は国外では『軍隊』として扱われている。つまり地球上のどこにいようが、日本の国内法によって縛られている。『専守防衛』の交戦規定があるんだ。自己または自己の管理下にあるもの、つまりおれかおまえが撃たれたあとじゃなきゃ撃ち返せないんだ」
だから、アンブッシュ(待ち伏せ)があるとわかっていながら撃たなかったのか。
だから、自分を撃たせて高橋に撃ち返させようとしたのか。
「自衛隊員は、法律を守るように徹底的に教育されている」
「法律を守る? 笑わせないでよ! あんたたち自身が憲法違反じゃないか!」
「それだけじゃない」
「なに!」
「恥ずかしいからだ」
「何が!」
「おまえの前で人殺しなんかできるか!」
「そのためならば、負けてもいいと?」
ビンタをくれてやった。
「カッコつけてるんじゃないわよ!」
「こんな時男がカッコつけてないと、女が不安になるだろう…」
「あんた…、わかってるはずよ! あんたが負けたら、あたしは死ぬのよ!」
興奮のあまり息があらくなっている。
むろんエリカは、軍人に対する偏見を捨てたわけではない。「いかなる思想、信条を持っているにしろ、いかなる立場にいるにしろ、武器を持った者が平和を乱す」という信念を捨てたわけでもない。
エリカは絶対的な平和主義者であり、そしてそれは平和のために、彼女自身が周囲の人間に流されることを意味しない。
エリカが無理矢理にでも平和を説き伏せようとする、いわば戦闘的平和主義者であることも変わらない。
ただこのときは、「専守防衛の交戦規定」や、恭輔自身の言い草に耐えられないような偽善を感じたのだ。
恭輔が言った。
「ちょっとこいつに話がある。高橋、車にもどれ」
「しかし、まだ危険では…」
「命令だ、もどれ!」
たしかに、そろそろまずい。
高橋は不服そうだったが、恭輔に敬礼して立ち去っていった。
恭輔は草むらから自分の銃を拾うと、くるりとエリカに背中を向けた。
「おれはこちらを警戒している。おまえは反対方向を警戒しろ。離れてもかまわないが舗装道路の外には出るな。地雷があるかもしれない」
エリカは恭輔に背中を向けると、ベルトを外してズボンを下ろしてしゃがんだ。
なんとか間に合った。下着をはいていないのも勝因だ。
しかし、目の前の砂漠と草むらがたまらなく恐ろしくなってきた。
見知らぬ土地で、下半身を露出しなければならないだけではない。
この危険な土地で、恭輔の姿が見えないのが恐ろしい。
恭輔はいま、自分の背中を守っている。
しかし自分に、恭輔の背中など守れるわけがないんだ。
ならば…、よし。
しゃがんだまま、アヒル歩きで180度向きを変えた。
この視点から恭輔を見たのは初めてだ。
背中が、いつも以上に大きく見える。
初めて見たときは、ほっそりした美少年だったのに…。
そんなことを考えながら、お腹の力を抜いた。
女の子の音は大きい。しかし、恭輔のいないところでズボンを下ろすことを考えれば、これくらいのリスクは許容しなければならない。
しかしエリカには誤算があった。
「きょ、きょうすけ!」
叫んでしまった。
あ…、あたしはバカだ! いまこいつが守っているのは、あたしのプライドでもなければ尊厳でもない。
あたしの「安全」なんだ!
ここで悲鳴を上げたりしたら、振り向くに決まってるじゃないか!
恭輔は拳銃を抜いてふり返ったが、エリカが自分の方を向いて放尿しているのに気づいてぎょっとしたようだった。
「あ、あし…」
恭輔の靴のそばに自分のおしっこが流れつきそうになっていたのだ。
「ああ…」
恭輔は落ち着いた動作で立ち位置を変えた。当たり前だ。もしあわててとびのいたりしたら、脚にひっかけてやる!
この道路は、見ただけではわからないが微妙な高低差があったらしい。
おしっこは乾いたアスファルトの上を流れていき、エリカの身長の何倍もの川となった。
それを太陽が照らしつけ、むわっとしたアンモニアの臭気がたちのぼる。
…恥ずかしい。
だけどいまさらだ。
好きな男に、「おもらし」の介抱をさせたんじゃないか。
好きな男に、下半身を丸出しにしてしゃがんでいるところを見せたんじゃないか。
好きな男に、おしっこをしたまま止まらない姿を見せたんじゃないか。
だけどこれは、女の子としての最後のプライド、最後の女の尊厳。
恭輔を怒鳴った。
「拭くから後ろ向いてなさい!」