屈辱
それだけじゃない。胸のあたりが本当に痛くなる。
あのメールのことを母親から聞いたあと、このまま恭輔がそばにいたらますます彼を傷つけるのではないかと恐れた。
勝手なことはわかっているが、大学を卒業したころ(恭輔のおかげなのだが)エリカの精神はずいぶん安定していた。
そしてあの「おまえがどこにいようが、おれがいるかぎりおまえは死ねない」という言葉が強く心に残っていた。
自分が危機に陥ったとき、自分が地球上のどこにいようが、この男はどこからともなく現れて自分を救ってくれるのではないか(現状はその通りであるが)と、たいした根拠もなく信じていた。
ならば、恭輔のそばで彼を傷つけるより離れた方がいいのではないか。
今でさえも、命を助けられていながら、この瞬間さえ守られていながら、「ありがとう」さえ言えない。いや、勝手なことばかり言って困らせてばかりいる。
困らせるだけじゃない。ひどい言葉ばかり投げつけている。
人が人を傷つけるのは、何よりも「言葉」なんだ。
今さら気づいてしまった。
かつての自分がどんなに簡単に人を傷つけていたか。
自分がどんなにバカだったか!
恥ずかしくて恥ずかしくてたまらない…。
「自分があの、告白してくれた子にどんなに恨まれてもしかたがない。どんなに軽蔑されてもしかたがない。それだけのことをしたんだからしかたがない。だけどあんな恥ずかしい過去を、あんたに指摘されるのだけはいや! バカバカしいことかもしれないけれど、あたしはあんたの前でだけはカッコつけたい!」
さっきの夢は、現実にあったエビソードと微妙に恭輔と自分の立場が交換されていた。そしてあの「おしおき」は、年下の子の前で自分を罰したいという気持ちのあらわれだったのかもしれない。
だいたい、昨日あったばかりの高橋が、恭輔の同級生として出てくるというのも出来すぎている。
「相手が自分の思う通りに動いてくれるだろうという前提で立てた作戦が成功するとは思えません」
隣りで話を聞いていただけの高橋が、エリカが何を考えてあの男子を罵倒したのか、わかったかのような口を聞いた。
エリカが口を開く前に、田中が言った。
「だれでも十代のころには、思い出したくない過去があるものです。ぼくは、地震の縦揺れ横揺れっていうのは、前後に揺れるのが縦揺れで、左右に揺れるのが横揺れだと思っていました」
それだと自分が90度向きを変えただけで、縦揺れと横揺れが逆転するではないか。この男はお調子者というより、馬鹿なのではないか。
「それから、二グロの人たちは暑いところに住んでいるから、日焼けして肌が黒いのだと思っていました」
これは…、なんと言っていいのかわからない。
「車の外でそんなこと言うんじゃないわよ」
この男に運転させて大丈夫なんだろうか。いや、今はそんなことより、もう一つの気がかりがせっぱつまったものになりつつある。
車はさっきから砂漠を走り続けている。突然左側に叢が見えた。
「止めて!」
「どうした!」
恭輔が叫んだ。
「いいから止めて!」
恭輔が田中に言った。
「止めろ」
車が止まると同時に、ドアを開けて飛び出した。
「おいっ!」
砂に足が埋まって走りにくい。叢に向かって駆けた。汗がだらだら流れる。
「止まれ!」
恭輔が追いかけてきた。
あんたには…、あんたにだけは…。
しかし男と女、屈強の現役自衛官と、運動不足の医師である。
間もなくおいつかれ、腕をつかまれた。
「離して!」
「勝手な行動をするな! このあたりにも地雷が…。なにより、視界が悪い草の中は危険だ!」
「ばか…」
下着が一気に熱くなった。
…この絶望感。
一度堰を切ったものを止めることなどできなかった。
あふれたものが下着をのりこえ、ジーンズの股間を濡らし、裾にまで被害が及んでいく。
永遠の時間がすぎたような気がしたころ、エリカのおもらしは終わった。
恭輔も、さすがに驚いているようだ。
バッシーン!
ものすごい音の平手打ちが響いた。
バッシーン!
往復びんたの二回目が恭輔の頬に炸裂した。
「だから! カッコつけたかったのに!」
三回目を放とうと腰を回転させたとき、恭輔が一気に距離をつめた。手を上げているため脇が空いている。そのまま抱きすくめられてしまった。いつのまにか自分の顎が恭輔の肩の上にある。腰を逃がした。いま、自分のズボンはおしっこまみれだ。そんなものを恭輔にこすりつけるわけにはいかない。すると恭輔の右手が腰の下、つまり尻をぐっと押した。さすがに動揺して上半身を離した。一気に唇をふさがれた。
なんというか、あまりの展開に気持ちが追いついていかない。
「エリカ、好きだ。つきあってくれ」
だから、気持ちが追いつかないって!
「返事をしろ!」
「はいっ!」
恭輔に連れられて車にもどった。
「高橋、エリカを介抱してやれ。…余計なことは言うなよ」
恭輔はさっとと車に乗ってしまった。
確かにこれだけは男性にやってもらうことはできない。かわりに高橋が出てきた。
高橋に連れられて、車の後ろの、バックミラーの死角まで来た。
屈辱だ。
「さっき、だれにでも思い出したくない過去があるという話をしましたね」
「余計なことを言うなって言われてるでしょ」
「余計なことじゃありません」
自分の恥でも告白するつもりなのだろうか。
「先生は、中隊長の前で恥をかいた気になっているかもしれませんが、我々の訓練でも排泄の失敗などよくあることです。げんに中隊長も…」
高橋を置いて車に向かって歩き始めた。
「待ってください! わたしがこんなことを言ったなんて、中隊長には…」
「勝手に怒られなさい」
あいつはそんなことで怒ったりしないだろうけど。
「軽蔑されます!」
キレた。
「軽蔑されなさいよ!」
車の助手席のドアをドンドン叩いた。この軽装甲機動車というクルマ、中は狭いのに市販の四駆よりもひとまわり大きく、そしてごつい。自分が叩いたくらいではビクともしないだろう。
恭輔がドアを開けて顔を出した。
「どうした」
「あんたが介抱して!」
「正気か、おまえは」
「あたしはね、女だろうが医者だろうが、あんた以外の人間に下着を触らせたりしないわよ!」
一方、石井二尉たちの分隊である。
石井は先頭の軽装甲機動車の助手席に座っていた。
恭輔たちが砂漠を走っているのに対して、森の中の舗装道路を移動している。
護衛対象の感情から、恭輔たちとは別のコースを取らざるを得なかったが、戦力が分散されるため好ましいことではない。
しかし、「常に万全の態勢でいられるわけではない。手持ちの戦力でできるだけのことをするのが指揮官だ」と思い直した。
軽装甲機動車には運転手のほか、望月進哉と、新生児を抱いた母親が乗っていた。母子を先頭に乗せたのは、装甲された中に入れる必要があったからだ。
ラヴはまがりなりにも装甲されているが、四人しか乗れない。
後ろに続く高機動車二十三台に、隊員と邦人を分散させて乗せるしかなかった。
高機動車は、ラブに比べるとかなり平べったい外観をしている。十人乗せるためなのだが、装甲はなされていない。ただのトラックだ。
「ですからね、ここの住民を未開人扱いしている先進国の人間、とくに日本人を許せないんですよ、ぼくは」
さっきから望月が急を要しないことをしゃべりつづけている。
「わたしたちは二回民兵たちに襲撃されましたが、彼らはあっけなく抵抗をやめました。だからこんな風に、大げさに警備する必要はないんですよ」
なら、後ろの高機動車に乗ればいいのに。
「ぼくはやはり、責任者ですから、先頭で様子を確認する必要があります。…聞いているんですか!」
「聞いてますよ」
それほど的はずれなことを言っているとは思わないが、ひたすら自分の考えだけをしゃべり続けていることが大変うっとうしい。
「ぼくは間違ってますか!」
間違っていようがいまいが、何の役にも立たないことは間違いない。というより、この男が間違っているか正しいかを考えている余裕などない。余裕があってもやる必要がない。
「今はあなた方を無事に送り届けるという任務に集中しなければなりません」
「あなた、孫子を読んだことはないんですか。『敵を知り己を知れば百戦危うからず』。この国の文化を知らなければ、ここで自衛隊の仕事なんかできませんよ。すべて植民地支配が悪いんです。日本人は、この国を未開だとか民度が低いだとか、順法精神がないとか好き勝手に言いますが、この地方が部族の共同体社会だったころはそれで良かったんです。男女差別とか言うけれど、部族を維持するのには必要だったのでしょう。それを西洋人がやってきてさんざん資源を収奪したあげく、近代国家の外面と近代兵器だけを残して去っていった。かつて数百キロ離れた部族どうしの抗争などありえませんでした。そんな移動手段なんかないからです。この国では伝統的に、部族を初めて訪れる者を警戒する場合は大人が対応し、歓迎する場合は子供が出迎えるという習慣がありました。美しい風習だと思いませんか。しかし今では…」
突然ラブの無線機が鳴った。隊列の最後尾の車両からだ。
「民兵の車両が背後からついてきています」
「距離は」
「約300メートル」
「数は」
「日本製らしいピックアップトラックが三台。民兵を満載しています」
「武装は」
「カラシニコフのみのようです」
アフタマートカラシニコフ47。旧ソ連製の自動小銃である。値段が安く手入れがしやすいため、途上国の内戦でもっとも多く使われている。
「RPGは」
RPG7。ロシア製のロケットランチャーであるが、途上国では対戦車ロケットとしても地対空ミサイルとしても使われている。
「確認できません」
走行中に荷台から撃ってくることはないだろう。
「各車両、増速! 80キロで固定!」
「了解!」
運転手がアクセルを踏み込んだ。増速したラヴがぐっと前に出る。砂漠ならば右、左に避けることもできるだろうが、森の中の舗装道路では直進するしかない。
「ちょっと、あんまりスピード出さないでよね。赤ちゃんがいるんだから!」
新生児の母親が毒づいた。昨夜から自衛隊を信用していないらしい。
運転手が叫んだ。
「アンブッシュ(待ち伏せ攻撃)! 12時の方向に民兵!」
読者は、自分が巨大な時計の文字盤の中央に、12の字に正対して立っていることを想像してほしい。そうすると、真正面が12時の方向であり、真後ろが6時ということになる。
12時がある場所、つまり真正面に民兵の姿が見える。もっとも厳密には「攻撃」とはいえない。四、五人のカラシニコフを抱えた民兵が道路を体でふさいでいる。
普通の軍隊なら、民兵を轢いてでも走り過ぎるか、銃撃するだろう。しかし自衛隊はそうはいかない。「専守防衛」である。
交戦規定により、「自己または自己が管理する者」が攻撃されない限り、こちらからは撃てない。
後ろの民兵は道路を走っているだけ、前の民兵は道路に立っているだけだ。
石井は運転手に怒鳴った。
「英語でどけと言え!」
運転手がスピーカーで怒鳴った。
「ゲットアウトオブ、マイウェイ!」
民兵たちはどかない。石井はやむを得ず無線機に叫んだ。
「全車両、停止せよ!」
民兵たちの10メートル手前でラブは停止した。次々に後続車両が停止する。
「英語でそんなことを言ってもダメですよ。それにマイウェイって…。ここは自衛隊の道ではないんですよ!」
望月が何か言っている。無線機に言った。
「後ろの様子はどうだ」
「車両を止めて、荷台から民兵を降ろしています!」
まずい。
一方望月は、石井に無視されてメンツを潰されたと思ったらしい。
「交渉してきます!」
望月が車の外に飛び出した。
「あ、待て!」
無線機に怒鳴った。
「第一小隊、外に出た民間人を止めろ!」
「はいっ!」
母親が言った。
「自分は行かないんだ…。いいご身分だねえ」
ラブの小さな窓から、望月が民兵に向かって歩いていくのが見える。
望月が立ち止まった。
英語でも日本語でもない、聞いたこともないような言語で叫んでいる。
民兵がライフルを構えて一斉射した。
望月の重そうな体が銃弾の衝撃に押し倒された。背後から走ってきた五人の第一小隊の隊員が望月のまわりに人垣をつくる。
隊員のひとりが89式小銃を民兵に向かって構える。発砲はしない。まだ射撃許可を出していない。
無線機に怒鳴った。
「発砲を許可する! 第一小隊は邦人を軽装甲機動車に乗せろ!」
母親が怒鳴った。
「ちょっと、子供がいるのよ! あんなもの乗せないでちょうだい!」
すでに、前方で銃撃戦が起きている。幸いまだ隊員に負傷者はいないが、いつまでもつかわからない。
「命令変更! 第一小隊は望月とともに高機動車にもどれ!」
第一小隊が射撃しながら後退する。
まずい。
車両は機動していてこそ力を発揮する。止まっていたら棺桶と同じだ。
「8時の方向から銃撃!」
後ろの車両から降りてきた民兵数人が撃ってきている。
「第一小隊、収容終わりました!」
「よしっ! 全車両、全速前進!」
二十四台の車両が一斉に発進し、全速力を出す。みるみる民兵たちを置き去りにする。正面にいた民兵は、あわてて左右に分かれて道を開けた。
フルオートの銃声が重なって聞こえてきた。
「1時と2時の方向から撃ってきます!」
森の中からだ。小銃弾が装甲にガンガンぶちあたる。
「6時の方向から、テクニカルが追ってきます!」
テクニカルとは、民間用のトラック(ほとんど日本製だが)の荷台に機関銃やロケットランチャーを無理やりくっつけたものだ。
こちらの高機動車には銃器がついていない。軽装甲機動車は天井のハッチを開ければ銃座ができ、そこから撃つことができるが、銃座は防盾がついているとはいえ、射手の上半身はほとんどむき出しになる。狙撃されればそれで終わりだ。
石井は迷った。いまこの車には、隊員は自分と運転手しかいない。自分が銃座について撃たれれば、分隊の指揮を取る者がいなくなる。軽装甲機動車が一台しかないこと、その一台に二人の民間人を乗せたことの弊害が出ている。
このままでは一方的に撃ちまくられる。高機動車に装甲はない。車の中にいても被害が出る。撃ちかえすためには車を出なければならない。
「民間人を乗せた車両はこのまま走り抜け! 隊員のみの車両は、停止して車を盾にして射撃。民兵の足止めをしろ!」
「了解!」