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オレンジ・ビーチ  作者: 恵梨奈孝彦
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わたしは罪でできている

貴子が高校三年生の四月のことである。

 前年度の修学旅行いらい、彼女はひどい不安と焦燥感におそわれ続けていた。

 すでに四ヶ月も続いている。

 不安は一秒の例外もなく貴子を襲い続ける。

 他のことを考えようとしても、いつの間にか不安で頭の中がいっぱいになっている。

 座っていることができない。

 立っても何かできるわけではない。結局立ったり座ったりしている。

 母に相談した。

「下らないことを考えていないで勉強しなさい」

 そう言われた。

 既に両親の離婚は成立していて、父親はもういない。

 眠ることができない。

 きっと自分で気がついていないだけで眠っているのだとは思うが、眠ったような気がしない。

 一日が終わったような気にならない。

 実感として、24時間不安とともに生活している。

 もしかしたら、もはやこの状態が変わることなどないのかもしれない。

 自分は一生このままなのかもしれない。

 ある日、恐ろしいことを思いついてしまった。

 もしかしたら、死ねばこの苦しみから抜け出せるんじゃ…。

 それから、刃物や紐がそばにあるのが怖くなった。

 使ってしまいそうで恐ろしい。

 自分が自殺してしまいそうで恐ろしい。

「ママ、実はこのまえ、『死んだら楽になれるんじゃないか』って思っちゃって…」

 言い終わる前にビンタがとんできた。

「何を甘ったれたことを言っている! わたしは生きたくても生きられない子供をたくさん見てきたんだ!」

 母親はその日の夕方、貴子を丘の上に連れて行った。

「見なさい、あの夕日を。きれいでしょう…。今日の太陽が沈んでも、明日になればまた日が昇る。あたりまえだと思っているでしょうね。だけど、あしたの朝日を見ることができるかわからない人がたくさんいる。だから、夕日を見るたびにこの光景を再び見たいと思う。わたしは、そう思わない人が許せないような気がするのよ…」

 今から思えば母親は、感動的な言葉を娘に語る自分に酔っていたのかもしれない。

 それから貴子は、不安や焦燥だけでなく罪悪感にも責められるようになった。

 自分は許されない人間だ。

 自分は罪でできている。

 コンビニに入れば自分が万引きしないかと不安になる。

 ライターを見れば自分が放火をしないかと不安になる。

 自分がしなければいいだけだとわかっていてもどうにもならない。

 だれかにむかし、「人間は都合の悪いことを忘れたがる生き物だ」と言われたような気がする。

 もしかしたらおぼえていないだけで、自分はかつてとんでもない罪を犯したのかもしれない。

 向こうで人が話していれば、自分が悪く言われているような気がする。

 家の中でも、外から聞こえてくる車の音さえも自分を責めているような気がする。

 駄目だ。

 そんなバカなことがあるはずがない。

 理屈ではわかっている。

 こんなことを考えていてはだめだ。

 だけどどうすることもできない…。


 そんな放課後、当時生徒会長だった貴子は生徒会室の一番奥の、窓際の椅子に座っていた。

 副会長の百合江と、新しく入ってきた一年生の会計の男子(彼が入学する前から顔だけは知っていた)が裁断機で紙を切っている。

 自分がもし、裁断機に自分の頸を入れて、刃を落としたらどうしよう…。

 自分がもし、裁断機に百合江の頭を入れて、刃を落としたらどうしよう…。

 そんなことはありえない。

 やらなければいいことだ。

 だけど、もしやってしまったらどうしよう。

 自分がそんなことをするはずがない。

 だけど、もしやってしまったら…。

 裁断機から目を逸らした。

 裁断機が見えないことが恐ろしい。

 裁断機を見た。

 裁断機に頸を入れて刃を落としたらどうしよう…。

 裁断機の刃の下に頸を乗せるように自分は寝転がる。

 両手でレバーを思い切り下に落とす。

 そんな妄想が…。

「ちょっと、タカコ!」

 百合江がこっちを見て叫んだ。

「あんたも手伝ってよ! このごろ何も仕事してないじゃん!」

 たしかに今は、椅子に座っているだけで億劫だ。ゴミをゴミ箱に捨てるほどの気力もない。

「ごめんね…」

 貴子は絞り出すように返事をした。

 貴子が椅子に座ったままなのにひどく荒い息をしていることに、百合江も気づいたらしい。

「大丈夫なの? 最近変な痩せかたしてるし…」

 ちょっとためらったが、話してみることにした。

「沖縄の修学旅行でガマに入ったことは覚えてる?」

「それはまあ…。去年の十二月に行ったばかりでしょ」


「あたしあそこで、幽霊を見たんだ」


 言って後悔した。

百合江がこちらを気味悪そうに見ている。


「会長は、幽霊を見たような気がしているだけですよ」


 突然男の子の声がした。

 新入生の男子は、そのまま裁断を続けている。

「どういうことなの?」

 男子は作業をしながら言った。

「だから会長は、見たような気がしているだけです」

「霊を信じないって言ってるの? 非科学的だから?」

「幽霊がいるかいないか。そんなことはわかりません。しかし、会長が幽霊を見ていないということだけは断言できます」

「そんなことない! ガマから出てきたあたしに、地元の人が塩をかけてお祓いをしてくれた! そうしてもらったら気分がよくなった! これはあたしが見たのが、本物の幽霊だった証拠でしょ!」

 少年は作業の手を休めて、まっすぐに立ってこちらを見た。

「それはその地元の人が霊を祓ったつもりになっていただけです。そして会長は、祓ってもらったつもりになった。だから気分がよくなったんですよ」

「その地元の人に、失礼だと思わないの!」

「顔文字をご存知ですよね」

 バカにしているのか。

 少年はホワイトボードに貼りついていたマグネットを使い、大笑いしているような顔を白板の上に描いた。

「ただのカッコと棒の組み合わせだけで人間はそれを顔と認識する」

 少年が再びこちらを見た。

「会長は、予備知識として『このガマでたくさん人が死んだ』ということを知っていました。霊が見えてもおかしくないと思っていた。だからガマの壁の何でもないような模様を、『霊』として認識したんですよ」

 自分が見たのはそんなものではない。しかし今は、もっと言わなければならないことがあると思った。

「地元の人が言っていた! このガマでは民間人がたくさん死んだ! だから霊が出てもおかしくないって!」

「会長は、軍人がどんな死に方をしても全く恨みを残さないような、人間ができた人たちばかりだと思っているのですか?」

「そんなわけないでしょ!」

 母親の影響だろう。貴子には軍人に対する偏見がはっきりとある。

「戦争なんて勇ましいもんじゃない! いきなり名前も知らないような島に連れて行かれて、飢え死にしたり、マラリアにかかったり、下痢をしたあげくに体力を使い果たして死んだ人がたくさんいた! 国や天皇を恨みながら死んでいったに決まってるわ!」

「にもかかわらず、軍人が幽霊にならず民間人だけがなるって、怪談そのものがひどく政治的です」

「日本軍は、最初から沖縄を見捨てるつもりだった!」

「『日本軍』と言っても百万人以上いました。いろんな考えの人がいたでしょう」

「軍の上層部は、沖縄を見捨てていた!」

「見捨てるなら貴重な搭乗員と機体と燃料、それに大和まで出して特攻をさせたりしません」

「それでも、沖縄戦でたくさんの民間人が巻き込まれて殺されたことは事実だ!」

「台湾ではなく沖縄に上陸したのは、日本軍ではなく米軍の都合です」

「そんなことはどうでもいいの! あたしははっきりと見たんだ! 赤ちゃんを抱いた若い母親の姿が…」

「なぜ赤ちゃんと母親なんです?」

「ガマの中に、日本軍の守備隊と民間人が避難していた。ある夜、すぐそばまで近づいていた米軍の部隊をやりすごすために、全員が物音一つ立てずに緊張していた! だけど避難していた民間人に、若い母親と赤ちゃんがいた。赤ちゃんは周囲の異常な緊張に耐えられずに泣き出した! 守備隊の隊長は、母親に赤ちゃんを殺させた!」

 何度も何度も母親から聞かされた話だ。

 その守備隊の隊長こそ、自分の父方の祖父なのだ!

「むろん、その隊長に責任はあるでしょうが…」

「だからあたしは、罪によってつくられている!」

「隊長には、その場にいた者すべての命に対する責任がありました。このままでは部下といっしょにいた民間人だけでなく、その赤ん坊と母親さえも皆殺しにされると思った。もしかしたらその場にいた人の中には、赤ん坊を殺させてほしいと思った者もいたかもしれない。軍人である以上、敵を殺す覚悟はあったでしょう。しかし日本人の赤ん坊を殺す覚悟などあったはずがない。多くの人を生かすための、苦しい決断だったのでしょう」

「アハハハハ…」

 貴子は大きな声を上げて笑った。

 そんな貴子を少年は、つまらなそうに見ている。

「多くの命のための決断? 笑わせないでほしいわ! 武器を捨てて、手を上げて出て行けば、みんな助かったのに! 何が『生きて虜囚の辱めを受けず』だ! だから軍人っていやなのよ。武器を持っているから自分が強くなったみたいなつもりになる! だけど道具がなければなんにもできない! そんなに武器を手放すのがいやなら、自分ひとりで死ねばいいのに! 」

「米軍を信頼できなかったんでしょうね」

「当時の民間人には、米軍のことをよく知っている人もいた! 『手を上げて出て行けば殺されない』とみんなを説得して出て行って、全員が助かったガマもあった! だけどわたしの祖父は、だれの命も助けていない! ただの赤ん坊殺しだ!」

「お祖父さんは赤ちゃんを殺したくはなかったでしょう」

「なにを考えていたかなんか関係ない! 赤ちゃんが死んだ! それが事実だ!」

「当時、ガマの外は安全だったのでしょうか」

「そんなわけないでしょ! 『鉄の暴風』っていわれるほどの、爆弾と砲弾の嵐だったそうよ! だけど日本軍は、ガマに避難していた住民を外に追い出した!」

「その通りです。米軍は機銃掃射をし、爆撃をし、艦砲射撃までしました。沖縄を、住民もろともすりつぶそうとしていたんです。そんな相手を信頼できると思いますか? イスラム国の兵士に『武器を捨てれば助けてやる』と言われて、素直にそうできますか?」

「だけどわたしの祖父は、自分が助かりたかっただけかもしれない!」

「『かもしれない』としか言えません。会長の言う通り、なにを考えていたかなんて関係ありません。心の中について、だれも責任なんか取れませんよ」

「あんたに、その時の母親の気持ちがわかる?」

「わかりません。会長にもわからないでしょう」

「その時の赤ちゃんは何も知らされずに殺されてしまった。私の祖父だって、牛島にだって、赤ちゃんだったころがあった!」

 「牛島」とは、沖縄戦に派遣された日本陸軍第三十二軍司令官、牛島満中将のことである。

「牛島は『おれが死んでもおまえらは戦え』と言い残して死んだ! だから部下も住民も降伏できなくなった! 少なくとも牛島は、沖縄を捨石にした!」

「牛島満も赤ちゃんだったころがあった。そのとき沖縄戦は起きていない。あなたのおじいさんが赤ちゃんだったときも沖縄戦は起きていない。牛島中将は、自分自身も捨石だと思っていたでしょう。彼が中将だったときに、おじいさんが守備隊の隊長だったときに沖縄戦が起きたのは偶然にすぎません。そしてこの二人に開戦の責任も、沖縄戦が起きた責任もありません」

「聞いたふうなことを言うんじゃないわよ! あんたの言っていることはただの抽象論でしょ! あんたに沖縄の何がわかるって言うのよ!」

「確かに。ぼくは本で読んだ知識しかありません。実際に経験してみたわけじゃない。しかしそれは会長も同じことでしょう」

「だけどあたしが実際に沖縄に行って経験したことがある。自分の耳でしっかりと聞いた。ガマに霊が出るっていう話を『沖縄の人々が語り伝えてきた』っていうことだ! 何人もの地元の人から聞いたわ。この『語り伝えられてきた』っていう事実は、日本軍の仕打ちを沖縄の人々がどう思っているかのはっきりとした証拠になる。沖縄の人たちは自分たちにひどいことをした奴らに、不幸な死に方をした人たちの霊を見てほしかったのよ!」


「だからおまえに見えるはずがないんだ」


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