家族
藤原貴子がこの国に来たのは、言わば自暴自棄の結果である。
貴子は、大きな私立病院の院長の娘として産まれた。
院長は父ではなく、母である。
両親ともに医者であるが、父は何の役職にもついていなかった。
貴子には四つ年上の兄がいた。
こういう言い方はよくないと思うが、あまり出来のいい兄ではなかった。
子供のころから「できた」貴子とは違い、勉強もできなかったし、しようともしていなかった。
母親はそんな兄を、いつも汚い言葉でののしっていた。
「勉強もできないし、運動もできない。できることが一つもない」
「体ばかり大きくなって、ゲームばかりしている」
「こいつのバカさは、誰に似たんだろう…」
「私の子供だからと言って特別だと思うな。私は優秀でない人間を認めるつもりはない」
「男の子がなんでおまえだけなんだよ!」
「たった少しくらい年上だからと言って、貴子よりも偉いと思うな」
貴子はそれを聞きながら、自分は母親に兄よりも愛されていると感じていた。
父親は、貴子よりも兄を愛しているように見えた。
母が兄のことをののしるたびにつらそうな顔をしていた。
いつの間にか自分の部屋にとびこんで耳をふさいでいたこともある。
母は父にこう言った。
「あんたが言わないから私が言ってるんだからね! 耳をふさがないでよね!」
母は子供たちの前でも父を怒鳴りつけた。こんなことを言っていたこともある。
「これがあんたの息子なんだよ!」
父はこう言い返した。
「つまり、いいところは全て母親譲りで、悪いところはおれに似たんだな」
母は父をこう責めた。
「あんたはなんで、子供の前でそういうことを言うの!」
父は、母に罵倒されるたびに子供のように拗ねるところがあった。
貴子が小学生のころにこんなことがあった。
夕食を食べ始めようとした時、来客があった。
父は「ママがもどってくるまで待ちなさい」と言った。
そういう躾というよりも、母がいつも「私は家政婦じゃないんだから、私が座るまでは挨拶しないでよね」と言っていたため気を使っていたのだろう。
しかし貴子はそのとき、とてもお腹がすいていた。
客間まで言って、母に「先に食べていいか」と聞いた。
母の了解を得ると、挨拶して食べ始めた。
そのころすでに貴子は、両親のうちで母の言うことしか聞かなくなっていた。
兄もまた食べ始めた。
父だけが、不機嫌そうな顔をして母の帰りを待っていた。
母がもどってきて食べ始め、誰も言葉を発しない夕食が終わった。
父は自分のことを「可愛くない子だ」と思っていただろう。
しかし貴子は、母に愛されていると思っていたから平気だった。
しかし父としては、赤の他人である母から、自分の息子をひどく罵倒されるのがつらかったのだろう。
親というよりも男どうしの連帯から、兄のことを気に掛けていたらしい。
兄は、子供のころから本が好きだったため国語はある程度出来ていたが、理系科目は全く駄目だった。
兄が地元の底辺校を受けると決まったとき、母はこう言った。
「息子がこんな高校を受けるだなんてプライドが許さないけど、それでも応援してやらなきゃならないと思ってるんだから感謝しな!」
もっとも、母は貴子に対しても甘くはなかった。
勉強をさぼったりすると、容赦なく叩かれた。
しかし愛されていないとは思わなかった。
母は、自分のために厳しくしているのだと信じていた。
兄がそこそこのレベルの私立大学を卒業したとき、両親の離婚が成立した。
もともと母親の方が収入が高く、父は何の条件も出さなかったため、話はすんなりと決まった。
それから父と兄に、一度も会っていない。
しかし平気だった。
自分は父よりも兄よりも、母に愛されていると信じていたから。
風の噂では、父は離島の診療所で働き、兄はその島の分校で教師をしているという。
のんびりした土地で親子の江尻先生と呼ばれ、島民にけっこう慕われているらしい。
離婚してから、母親は貴子にこんなことを言うようになった。
「あの男は、わたしの体だけが目当てだったんだ。子どもができてわたしが体を許さないようになったら、さっさとこの家を出て行った」
このころ貴子はまだ高校生である。この年頃の他の娘と同じように、男の性欲を理解できなかった。ひたすら気持ち悪いと思っていた。母親に同情した。
「おまえの兄だった奴は、もうわたしの息子じゃない。だからおまえの兄でもない。ただの敗北者だ。気持ちからひねくれていた。殴っても蹴っても同じだった。その点おまえは、素直でとても助かる」
そのころの自分を「素直」と言っていいのかわからないが、母親の言葉をそのまま受け入れていたことは確かだった。今から思えば母親の兄の評価は、一種の負け惜しみのようなものだとわかるが、この「素直」な貴子は自分は愛され、兄は愛されていないとだけとらえていた。
母はよく、こんなことを言った。
「おまえの父方の祖父は、軍人で人殺しだった。だからおまえは、医者になってその罪滅ぼしをしなければならない」
父親と離れて良かったと思った。
「男に頼って生きているようではだめだ。男なんて頼りがいのない生き物なんだから」
母親がこのように言うのは、自分を発憤させるためだと思った。これも自分のために言ってくれていると信じていた。
しかし、あるできごとからこの認識が崩れていく。
貴子は県下でも有数の進学校から、私大の医学部に進んだ。
六年間必死に勉強した。国家試験に合格し、いよいよ卒業という時、母がある手紙を持ってやってきた。
受け取ってみると、便箋の中央にこれだけ書かれていた。
もう、つきまとったりしません。安心してください。 恭輔
「ママ、これは…」
「あんたのスマホを覗いてみたら、『これから任務で海外に行くから、一度会いたい』って、男からメールが来てるじゃないか」
直感した。告白だ!
「だからわたしがあんたの代わりに、あんたのスマホから返事をしておいてあげたよ」
そう言って母親は、気の弱い男なら自殺しそうなワードを次々に、10分間に渡って並べ立てた。
「ついでにこのスマホの、あの男のメールアドレスと携帯番号を着信拒否にして、電話帳から削除しておいてあげたよ。そうしたらあの男からあんた宛てに手紙が来たから封を開けてみた。変なことが書いてあったらどうしようかと思ったけど、うまく縁が切れたみたいでよかった。何回も言っているけれど、男なんかに頼ったらいいことはないんだよ。あんたはあたしの跡を継いで、病院長になるんだから!」
「そう…、ママ、ありがとう…」
ラストストローだった。
いや、遅すぎる反抗期だったのかもしれない。
医師免許を手にするとその足で「ボーダーレス・ドクターズ」の事務所を訪れ、卒業と同時に海外に出た。
母親には「私も敗北者になる」とだけ書き置いた。
子供は自分が愛されていないとはどうしても信じたくない。だから、どんな扱いを受けていても、「自分のために厳しくしてくれている」と信じたがる。
私はこれまで、「母親に愛されている」と自分に言い聞かせていただけなのだろう。
自分は愛されてなどいなかった。母は自分を病院の跡継ぎにするという打算を抱いていたんだ…。
はじめてそんなことを思った。
貴子の母親は、彼女を純粋に愛していたわけでもないし、純粋に打算を抱いていたわけでもない。世間の母親と同じように彼女を愛しながら、世間の母親と同じように打算を(「夢を」と言い換えても同じだが)抱いていただけだとも考えられるのだが、反抗期にさしかかったばかりの貴子にそんなことがわかるわけもなかった。
それから日本に一度も帰っていない。
物音ひとつしない部屋の中で、赤ちゃんの声だけが大きく響く。
きっとこの部屋の異常な緊張に耐えきれなくなったのだ。
この声を民兵が聞きつけてきたら…。
母親はあわてて乳をふくませたが、泣き声は全く止まない。
恭輔が振り返ってそろそろと母子の方に近づいていく。
拳銃を握ったままだ。
自分の母親から聞いた、父方の祖父の逸話を思い出した。
赤ちゃんを殺そうとしてるんだ!
いや、あんな男が赤ちゃんを殺したりするだろうか。
いや、あんな男だからこそするかもしれない。
止めなきゃ。
だけど止めたら、民兵がなだれ込んでくる…。
死にたくない。
死にたくない。
夕方の倉庫では死の恐怖など感じなかった。
きっと「自分が死ぬ」ということが感覚としてわかっていなかったのだろう。
しかし今では、恭輔に一度命を助けられた今は、死ぬことが素直に怖い。
「中国政府が死の覚悟を決めた日本軍人の戦犯を取り乱させるために、わざと一度『助けてやる』と嘘をつき、家族に会えると喜ばせた後で、『やっぱり殺す』と言った」という逸話を思い出した。
体が動かない。どうしたらいいのかわからない。
母親が恭輔をにらみつけている。
その時、引き戸がそっと開いた。
高橋だった。
恭輔がくるりと高橋の方を向いた。
高橋は拳銃を構えたまま恭輔に近づいてくる。撃つつもりだ…。
恭輔は銃を下げたままだ。
高橋はゆっくりと歩いてくる。
恭輔のすぐ前までくると、銃を構えたまま歩みを止めず、恭輔の背後に回り込んだ!
恭輔が拳銃を「前に」構えた。
二人が背中を守りあっている。
次の瞬間、引き戸から民兵たちがなだれこんできた。恭輔と高橋、日本人たちを囲んでいく。
「3.2.1…やれ!」