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オレンジ・ビーチ  作者: 恵梨奈孝彦
19/20

エリカは泣かなかった

田中はエリカの後を追って走り続ける。

 すでに第一分隊の生き残りは自分だけになった。

 しかしその任務はもうすぐ終わろうとしていた。

 アゴが少し痛い。さっきは完全に不意打ちだった。

 全くこの人は…。

 自分が感じていることの筋の通らなさはわかっている。

 この人は隊員ではなくただの保護対象だ。自衛隊に協力する義務などない。

 しかし、「この人が真奈美を刺激しないでくれたら」「もっと真奈美に気を使ってくれたら」という気持ちがどうしても首をもたげる。

 もしそうしてくれたら、真奈美はあんな無茶をしなかったのではないか。

 もっとも、もしあの場面で真奈美が無茶をしなければ、四人とも死んでいたかもしれない。

 しかし、あの無茶をしたから真奈美は死んだ。

 ついさっき自分は、前を走る女の思い人の無惨な姿を見せながら、この人が飛び出すことができないように押さえつけた。

 任務だった。

 やらなければならないことだった。

 しかしその時、「自分の思い人も死んだのだから、あんたの思い人も…」という気持ちがなかったろうか。

 むろんこんなのは筋違いだ。

 あの時真奈美を止める責任は、だれよりも上官である新条にあった。

 しかし真奈美や新条と違い、彼の思い人は何の傷も負うことなく、自分のすぐ前を走っている…。

 戦車の天蓋が開いて戦車隊員が上半身を出した。

 右の拳を突き上げている。

 万国共通の、兵士から民間人への、遠くからでも見落とすことがないというサインだ。

 その意味するところは…


「止まれ。止まらなければ撃つ」



 恭輔が

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。

 生きていますように。


「生きてろおっ! こん畜生っ!」

 エリカはいつの間にか叫んでいた。

 二両の戦車が見えてきた。

 砲塔のハッチを開けてツナギの戦闘服を着た隊員が上半身だけを外に出した。

 顔をこちらに向けて拳を空に突き上げている。

 ガッツポーズか?

 あたしを観客か何かと勘違いしていないか?

 そんなことをしている場合か!

 そちらを見ずに走り続けた。


 いきなり両脚が動かなくなった。

 両太股がしっかりと抱えられている。

 背後からタックルされたのだ。

 顔が地面に向かってダイブする。

 思わず両手を赤い砂の上につく。

「何するのよ!」

 田中はエリカの問いに答えず、戦車隊員に向かって叫んだ。

「陸上自衛隊、第一師団第三十八連隊、第二中隊所属、三等陸曹田中祐一。認識番号G7206679! こちらは新条一等陸尉の知り合いで…」

「恋人だっ!」

 あたしは何を言ってるんだ。そんな場合じゃないだろうが!

「外国で武器を持った人間に逆らってはいけません。たとえそれが自衛隊員であろうと…」

 しかし田中のおかげでこちらの身分を察したらしく、隊員が迎えに来た。

立ちあがって走り寄る。

案内された場所まで走ると、恭輔は戦車に護衛されるように、地面の上の担架に横たえられていた。

下半身に毛布がかけられている。

薄く目を開けている。エリカが駆け寄った時、少しこちらを向いたような気がした。

「どうなの!」

「心音、呼吸音ともに確認しました。間違いありません、生きています」

 今のところは、と隊員は短く付け加えた。

「意識は?」

「あるようです。もっとも、痛み止めのモルヒネを打ったため混濁していると思われます」

 エリカが毛布をまくり上げると、隊員が声を上げた。

「ちょっと!」

「黙って! わたしは医者よ!」

 性器を中心に下半身を丹念に見た。傷らしいものはない。戦闘服の上着をめくりあげた。

「腹を撃たれています…」

 大きな貫通銃創が三つある。

 ここでは難しいのだろう。止血が十分でない。それよりも、内臓はもともと横隔膜によって無菌状態にされている。それほどデリケートな器官なのだ。しかし内臓の中には雑菌の固まりがある。便だ。腹を弾丸に貫かれれば、雑菌が一気に横隔膜の中に入る。一秒でも早く開いて、感染を防がなくてはならない!

 あの、平たい形のヘリコプターが降りてきた。田中や隊員たちと、担架をヘリに乗せる。エリカも同じヘリに乗ることができた。

 ローター音を響かせながらヘリが離陸する。エリカは操縦士に叫んだ。

「どこに行くの!」

「『いずも』です」

 護衛艦には、本土の大学病院並の医療設備があると聞いたことがある。

「何分かかる!」

「8分もあれば…」

「遅い! 6分で行け!」

「しかし!」

「あたしは医者だ。行け!」

「わかりました…。5分で行きます。舌噛まないで下さいよ!」

 ローター音がさらに高くなる。ヘリの床がブランコのように揺れる。

 恭輔の手を取った。

 なにか言っているようだ。

(せいじゃな…。おまえのせいじゃ…)

 そんなことはもうどうでもいい!

「しゃべるな! 体力を温存しろ!」

 恭輔の瞳が、だんだん乾いていくのがわかる。


「おまえのせいじゃない」


 これが呼び水になった。

「決まってるじゃねえか…、日本を守るんだよ」

「おまえに幽霊なんか見えるはずがないんだ」

「いいからおまえは、だまっておれについてこい!」

「人間はすべて、恋によって作られている」

「大丈夫だ。おまえはおれについてくればいい」

「おれはずっとおまえの味方だ。…死が二人を分かつまで」

「おれはおまえが生きてさえいればいいよ」

「おれが生きている限り、おまえは死ねない」


 恭輔の言葉が頭の中をぐるぐる回る。

「おれが生きている限り、おまえは死なない」

「おれが生きている限り…」

「生きている『限り』…」

 この地球のどこにも恭輔がいない世界で、何十年も生きなければならない!

 エリカは泣かなかった。


吐いた。


恐怖のために縮みきった胃から液体が逆流する。だらしなく口から垂れ流した。

嘔吐の止まらない女と血を流し続ける男を乗せて、UH-60J ブラックホークは轟音を立てて飛びつづける…。


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