死が二人を分かつまで
男は、初めて「エリカ」と呼んだむときのように、にっこりとわらった。
「おれはずっとおまえの味方でいる…。言葉どおり、『死が二人を分かつまで』」
「ちょっとそれは…」
あの夢にでてきたセリフじゃないか! 何で知ってるんだ! 背後から田中の声がした。
「先生…。寝言をはっきり言い過ぎです」
顔がどんどん紅潮していくのがわかる。あたしの、あんな恥ずかしい欲望を、田中も高橋も、恭輔までも知っていたのか! 知っていながら知らない振りをしてあたしに話していたのか! 知らない振りをするならずっとそれを通すべきじゃないのか! いきなり背中に衝撃を感じた。砂の上にうつぶせに倒される。田中が背中にのしかかってきた。
「何するのよ!」
「交戦条件を作るんですよ…。一尉が飛び出したのは、撃たれるためです!」
いつの間にか恭輔がいない。砂浜を走っている。
「あいつ! 何してるのよ! まだあたしの前でカッコつけたいの!」
どこが大人だ! ガキだ! どうしようもないダダッ子だ! 何が「おまえが生きていればいい」だ! あたしはどうなるんだ!
「カッコなんかつけられません! この作戦には、痛々しくて、惨めで、屈辱そのものの『死』が必要なんです!」
田中は左手をエリカの顎の下に通し、しっかり組み伏せている。痛みこそ無いが、一切身動きができない。
「離せえ…。日本が…、あたしのふるさとが…」
殺される!
恭輔がだれもいない砂浜を走るのが見える。あいつが…、あの男だけが! あの殺伐とした故郷での、たった一つの、宝石みたいな思い出!
恭輔は頃合いと思ったのか、くるりとこちらに振り返った。腰の拳銃を抜くと肘を曲げて頭の上に持っていく。空に向けて撃った。右手を伸ばして拳銃をぽとりと落とした。
「離せ…、日本が死ぬ。日本が死ぬ! あんた自衛官でしょう! 日本を守りなさいよ!」
エリカの悲鳴をカラシニコフの斉射が打ち消した。
あの、根を生やしたかのようにしっかりと立っていた恭輔が、重さを持たないかのようにふきとぶのがはっきりと見えた。手を伸ばせばさわれそうな距離で、日本が殺されようとしている!
うつぶせのまま両手をせいいっぱいに伸ばした。
何もつかむことはできなかった。
「あなたの日本は死のうとしている。だけど新条一尉の日本は、生きています! 中隊長はあなたを守り通すというただ一つの目的のために全ての意志と力を集中しました。そのためにずいぶん無茶をやった。赤ん坊を殺そうとしたのは、実際に殺したわけじゃないから何とか言い逃れができるでしょう。中隊を勝手に二つに分けたのも、何とかなるでしょう。しかし国から預かっている銃を、現地の人間に与えたことはどうにもなりません。そして何より真奈美の件です。自衛隊では上官に、旧軍のような部下への生殺与奪の権があるわけではない。作戦中の自衛隊員は地球上のどこにいても国内法に支配されています。新条恭輔は日本に帰れば第一中隊長でも一等陸尉でも自衛官ですらない。ただの殺人犯です!」
「あんたとあたしが黙ってればすむことでしょうが!」
「あんなバカ正直な人が、そんな嘘をつき通せるわけがないじゃないですか!」
「う、うそつき…。ついてこいって言ったじゃない! ついてきていいって言ったじゃない! 連れて行ってくれるって言ったじゃない! あんた、あたしを守りに来ただけなの。迎えに来てくれたんじゃないの!」
自分が何をしても、例え恭輔を許さなくても、恭輔が自分を見捨てることだけはないと信じていた。
「うそなんかついていません! 恋と戦争は自分で終わらせなくてはならないと。言葉通り、死が二人を分かつ『まで』と! 自分が息絶えた時この恋を終わらせると! あなたのようなフェミニストはこう言われれば不愉快でしょうが、つまりもう、二度とあなたを失いたくないんです!」
ふ、ふざけるな!
「あいつがいつあたしを失くした! 出会ってから一秒の例外もない。ずうっとあたしはあいつのものだ!」
エリカはすでに、自覚したフェミニストではなかった。戦闘的平和主義者でも、命を守る者でも、医師ですらない、ただの女だった。
向こうの林の中から、喚声を上げて十人くらいが飛び出してきた。「あごひげ」の姿が見える。
たちまち恭輔の体を取り囲む。
「あ、あいつら…、何してるのよ!」
「あごひげ」たちが倒れている恭輔のズボンに手をかける。恭輔も手をベルトにかけて防ごうとするが、撃たれている上に多勢に無勢だ。「あごひげ」がズボンを無理矢理脱がせた。子どもが恭輔のズボンを持って彼らの周りを走り回る。男たちがピューピューと口笛を吹いている。女たちが甲高い声でゲラゲラ笑っているのが聞こえる。ズボンの下の下着まで無理矢理ぬがせた。五、六人で胴上げのように仰向けの恭輔の体を空に突き上げ、下半身を露出させた姿を晒した。上半身が戦闘服のまま、靴を履いたままなのが余計惨めだ。あの黄色いシャツの子の母親がいる。どこかで見たような拳銃を腰に差している。恭輔の下着をきたなそうに親指と人差し指でつまみながら、せいいっぱい腕を伸ばして自分の体から遠ざけ、もう一方の手で鼻をつまんで顔をそむけながら、ニヤニヤ笑っている…。