日本を守るということ
恭輔は車の外に出て高橋二尉がいる方のドアを開けた。
エリカは15分以内に手術室に運べば助かると言っていた。しかし敵がすぐそばまで迫っている。背負って逃げることはできない。
しかし、このままここに置き捨てていけば民兵たちのなぶりものにされるだろう。
小銃を構えた。
「たすけて…、しにたくな…」
高橋が大量の血を流しながら、力を振り絞ってこちらに這ってくる。しかし恭輔が銃を構えているのを見て、フラフラした動作ながら腰の拳銃を抜いてこちらに向けようとした。
引き金を落とした。
乾いた銃声とともに高橋真奈美の眉間に穴が開いた。
差し出していた拳銃を奪った。死者の武装を剥ぐなどやっていいことではないが、これが必要になるだろう。
拳銃をホルスターに入れ、高橋に向かって直立不動の姿勢をとって挙手の礼を捧げた。
敬礼から直ると、給油口の蓋を開けてキャップを外した。
気化したガソリンが大気中に拡散する。
恭輔はドラム缶がわに、ラブから十メートルほど距離を取った。
89式小銃のセレクターレバーを動かして単発から連発に切り変える。右の二の腕に床尾板をしっかりとつけ、左手でバレルジャケットを握る。
民兵が、いや女も子どもも含んだ敵が、12時の方向からやってくる。銃を抱え、喚声を上げながら走る。
敵の先頭がラブの屋根に乗ったとき、引き金を絞った。
台尻からの衝撃を体全体で受け止める。フルオートの弾丸が、ラブに吸い込まれるようにとぶ。一斉射が終わったころ、気化したガソリンが発火した。
ラブは大爆発を起こして敵と高橋の死体とともに吹き飛んだ。キノコ形の火炎が上空を覆う。
恭輔は踵を返し、ドラム缶の向こうの海岸をさして走った。
そしてエリカはいま、海岸の防風林の中にいた。
ドラム缶を乗り越え、街を横切り、ここまで走ってきたのだ。
目の前には照りつける太陽と白い砂浜、蒼い海が広がっている。
景色だけ見ればどこかのリゾート地のようだ。
しかし上空に、激しいローター音を響かせながら自衛隊のヘリが旋回している。
そしてエリカのすぐ近くに、田中祐一と新条恭輔がいた。
エリカは後悔していた。自分を責めていたと言ってもいい。
昨日からエリカは何度も後悔し、何度も自分を責めてきた。しかし彼女はいま、これまでの自分の生き方そのものを否定せざるを得ないと思っていた。
高橋真奈美が死んだ。
ついさっきまで生きていた、しゃべっていた、自分を抱きかかえていた女が死んだ。
今まで医師としてたくさんの死を見てきた。
だけどこんな気持ちになったことはなかった。
何年も顔を見ていないが、エリカの母も父も兄も存命している。
親しい人の死など見たことがなかった。
高橋は、特別親しかったわけではない。むしろ「いやな子だ」としか思っていなかった。とうぜん向こうもそう思っていただろう。
だけどほんの少し前自分と言葉を交わした若い女が、もうこの世のどこにもいないことがショックだった。
そしてこのように感じている自分がショックだった。
さっきの戦闘で、高橋がロケット砲を撃ったときに軽トラの荷台にいた民兵が火だるまになった時にもこんなことを感じなかった。
あの、黄色いシャツを着た子が磔にされていたときに自分が考えたことは、「自分のしたことは何だったのか」だった。
自分にとって大切なのは、あの子の命よりも自分の仕事だった。
あの「あごひげ」は、最初は余裕を見せていたのに、「あたしたちが慎重に救いあげている命を、あんたたちは簡単に叩きつぶしてしまう」と自分が言うとともに激昂し、狂ったような暴力をふるった。
「あごひげ」はきっとわたしの態度から、わたしが「つくりかけの積み木細工を壊されて怒っている子供」でしかないことを感じ取ったのだろう。
「おれたちの命はおまえのオモチャか」という言葉はそれを表していたのだ。
自分は命そのものの大切さをわかっていなかった。
母はそれがわかっていたのだろう。
だからこそ、「死んだら楽になれるんじゃないか」と口走ったとき、ビンタを張ったのだろう。
それを「日本人の死」によって思い知らされた。
エリカは以前、「原爆資料館に行ったら、ゲラゲラ笑っている中国人の団体に遭った。日本人の痛みは日本人にしかわからないのだ」と言っている男に、「どうしてその団体が中国人だとわかったんだ。おまえは中国語がわかるのか? ただ日本語以外の言葉をしゃべっていたっていうだけじゃないか」と言って黙らせたことがある。しかし自分が、「日本人の痛みしかわからない」人間だったのだ。
自分は医師になるとともに海外に出た。日本人の患者を診たことがない。外国人ばかり診ているうちに、いつのまにか「死」はただの失敗のように、医者の仕事を人間の体を継ぎはぎする職人のようにとらえていた。
自分は、自分の醜さと向き合わなければならない。
あれほど差別を糾弾してきた自分が、とんでもない人種差別主義者であることを認めなければならない。
自分の差別意識、いや差別無意識だろうか。
そちらの方がタチが悪い。
日本人の体と外国人の体、日本人の命と外国人の命を別のものとしてとらえていたことから目をそらしてはならない。
そして変わらなければいけない。
自分たちに襲いかかってきた民兵にも、大切な人がいる。
襲いかかってきた民兵も、だれかの大切な人なんだ。
だれの命だろうが、同じように尊い。
自分は恭輔が、「あごひげ」を撃たなかったときに「偽善だ」と言って怒った。
そういうことではない。「あごひげ」も恭輔も、武器を持っている。そのこと自体が問題なのだ。
双方武器を持っていなければこんなことにならなかった。
確かにどんな職業も社会にとって必要だろう。トイレを掃除する人、死骸を運ぶ人、みんなが嫌がっても、いやみんなが嫌がるからこそやってくれる人が必要だ。
だけど、「人を殺す職業」など不必要だ。
さっき街で、恭輔が高橋を撃ったのを見た。
この男は人殺しだ。
恭輔は高橋を殺したあと、彼女の死体に敬礼した。
自分が殺した女に敬意を表す。
この行為を見たことがたまらなかった。
敬礼するより、命を助けるべきなんだ。
あのまま置いていったら、なぶり者にされた挙句殺されたかもしれない。
しかし「かもしれない」は所詮、「かもしれない」にすぎない。
恭輔は高橋を死なせた。
高橋を死なせることによって、この自分を逃がすための足手まといを消した。
ならばあの時も同じことなのだろう。
昨日、恭輔はきっと、赤ん坊を殺そうとしていたのだろう。
そうして、他の日本人を守るための足手まといを消そうとしていたのだろう。
自分は恭輔を許してはならない。
「エリカ」
返事をしなかった。
「30分以内におまえを日本まで送りとどける」
馬鹿な。ここから日本まで5万キロ以上あるじゃないか。
「あいつらは海の上には絶対に手出しできない。この国の領海ギリギリの沖合に、海上自衛隊の護衛艦『いずも』が来ている。自衛隊の復興支援活動の基地として使われるためだが、ここの沖で海賊退治をしている艦隊と合流した。地球のどこにいようと、自衛艦の中は国際法上の日本領だ。おまえが大嫌いな、日本の常識と法律が支配している」
まぎらわしいことを言うんじゃない。だったら、なんでさっさとヘリが下りてこないんだ。
「12時の方向は海で、8時あたりで防風林が途切れている。2時の方向に樹木が密集しているのが見えるだろう。今、敵が400名ほど隠れている。RPGのような重火器を装備してな。しかしヘリってものは案外脆い。下手に低空飛行してRPGを一発でもくらえばおしまいだ。それを避けるために先制攻撃が必要なワケだが、さっき言った通り自衛隊は『専守防衛』に基づいた『交戦規定』に縛られている。向こうが撃ってこない限りは撃てない」
何を言っている。さっき高橋がロケット砲を撃っていたじゃないか。それにあんたも車を撃って爆発させたじゃないか。
「あの局面では、その前にライトアーマーがカラシニコフや重機で撃たれていた。交戦条件をクリアしていた。しかし、ここでは向こうはまだ一発も撃っていない。無線機はライトアーマーに積まれていた。我々がすでに交戦状態にあることをヘリに伝えることもできない。ヘリが飛んでいる以上は向こうも簡単に手出しはできないだろうが、林を通ってここまで来たらすぐにおれたちをみつけるだろう。向こうは約400人。カラシニコフのほかにRPGまである。こちらは2人、自動小銃が一丁と拳銃が一丁。兵力が400対2ってことは、自乗均等の法則からすれば戦力は8000対1だ。あのヘリにしたって、林の中のことは上空からは見えない」
あんたの言うことはすべて偽善としか思えない。あの、高橋真奈美の死を見たあとでは。
尊厳やプライドよりも、命が何よりも大切なんだ。
どんなに痛々しくても、惨めでも、屈辱を味わおうとも、生かすべきなんだ。
高橋は「死にたくない」と言っていた。
死んであんたに敬意を払ってもらいたかったわけじゃなかった。
生きていたかったんだ。
「敵に辱められるよりは死ね」というのは、男たちのわがままだ。
「生きて虜囚の辱めを受けず」と何が違う。
沖縄の集団自決と何が違う。
女性差別そのものだ。
あたしは女を殺して敬礼したあんたを決して許さない。
ひとの命をなんだと思ってるんだ。
一人の命を犠牲にして他の命を助けるなんて、こんなことが許されて良いはずがない。
わたしはあなたを許さない。許してはいけない。
いままで二回不意打ちをかけてきた男が言った。
「エリカ…、目を閉じてくれないか」
田中がそっと自分の背後にまわった。気を使っているらしい。二人とも何を勘違いしてるんだ! 叫んでやった。
「いやっ!」
「自衛隊というのは、名誉とか理念とか普遍的な正義とか、そういう抽象的なものを守ったりしない。もっと具体的な、日本と日本人を守るための軍隊だ」
結局は「日本軍」じゃないか。それがどんなに多くの血を流したか、わかっているのか。「日本」のどこが具体的な存在だ。見ることも、触ることもできないじゃないか。
「おまえは医師としての文化の中で生きているだろう。おれも自衛隊員としての、文化の中で生きている」
文化なんていう曖昧な言葉でごまかされるか!
「文化っていう言葉が大雑把なら、知ったかぶりをして社会科学用語でいう行動様式って言おうか。おまえはだれだろうがどこの国民だろうが、けが人がいたら診察する。そういうエートスを持っている。だけど、おれにとって人間は平等じゃない」
だから、自分の部下なら殺してもいいと思ったのか。その後敬礼したのはただの自己満足だ。死体はもうモノだ。あれは高橋真奈美ではない。
「おまえは日本なしでも生きられるんだろう…。だけどおれはそうじゃない」
そう言って恭輔は、エリカ(・・・)に(・)対して(・・・)挙手の礼をした。
背筋から指の先までピンと伸びた、美しい敬礼だった。
「何のつもりよ…」
恭輔はいつか「人間は全て恋でできている」と言った時のように、にやりと笑った。
「決まってるじゃねえか…、日本を(・)守る(・・)んだよ」
そして男は、はじめて彼女を「エリカ」と呼んだときのように、にっこりと笑った。




