おれが生きている限り
エリカが田中たちと話を終えてずいぶん経ったころ、恭輔が帰ってきた。
助手席からエビアン水のペットボトルを渡してくる。
よくこんなものが手に入ったものだ。封は切れてない。キャップを回して飲もうとして、恭輔の腰に拳銃がないことに気がついた。
ドアを開けてペットボトルを放り投げた。
「あんた! 何考えてるの! あんたのピストルが人殺しに使われる! あんたのピストルで死ぬ人が出る! あんたはそれをどう考えてるの!」
恭輔がドアを開けて外に出た。エリカの腕を乱暴につかんで外に出させた。
殴りたいなら殴ればいい。あたしは間違ってない!
いきなり鼻をつままれた。息ができない。思わず顎を上げて口を開けた。
口にペットボトルが差し込まれた。
むせてせきこんだ。しかし、舌の上に水が乗った。
体が水を欲していた。
もう止まらなかった。次々に落ちてくる水を飲みこんだ。
ボトルが空になった。
恭輔が背中を向けた。
「どうやって水を調達したかの責任はおれにある。おまえには関係ない。…乱暴して悪かった。すまん…」
田中が叫んでいるのが聞こえた。
「敵襲!」
確かに街の方角から二台のトラックが走ってくる。民兵が乗っているようだ。
恭輔が叫ぶ。
「乗れ!」
エリカは車に飛びこんでドアを閉めた。
「やはり…、街でおれを見かけた奴が、民兵に知らせたか!」
田中が言った。
「砂漠に逃げますか!」
「いや、街に入る」
エリカは叫んだ。
「なんでっ!」
街には民兵がウロウロいるだろう。
恭輔ではなく高橋が答えた。
「わたしも街に入った方がいいと思います。砂漠に逃げるということは後戻りするということです。街から民兵の車両がいくつも出てくれば、砂漠から出られなくなり、海岸に近づけなくなります。街を突っ切った方が確実です」
「行きますよ!」
エンジンはかけたままだ。田中はクラッチをつないでアクセルを踏みこむと大きくハンドルを切った。
街に向かうには、二台のトラックとすれ違わなければならない。
読者は、自分が巨大な時計の文字盤の中央に、12の字に正対して立っていることを想像してほしい。そうすると、真正面が12時の方向であり、真後ろが6時ということになる。
田中から見て10時の方向から来る一台は日本車の軽トラだ。「鈴木とうふ店」と書かれている。12時の方向のもう一台は4トントラックだ。「アリさん引っ越しセンター」と書いてある。
この国だけでなく、日本車の中古や盗難車が民兵たちの足になるのは世界中でよくあることだ。高性能の保証として日本語のロゴを消さずに使っている。これらのクルマも、豆腐を売ったり引っ越しの手伝いをしていたころは平和だったろうに。
とうふ店に向かっていけば、アリさんがぶつけにくるだろう。しかし巨大なアリさんに、とうふ店はぶつかってこられないはずだ。
正面からアリさんに向かって走る。ギアをトップに入れてさらにアクセルを踏む。
無論正面衝突すれば大破するのはこちらだ。後ろから女の悲鳴が聞こえる。
アリさんの運転手の表情が見えた。怖いのか。焦っている。田中はギリギリでハンドルを大きく右に切った。車体が右にずれる。左側の車輪が浮く。ダンッと音がする。車輪が地面を叩く。横転しない。こっちはただの四駆じゃない。戦闘車両だ。おなじ日本車といっても運動性能はケタ違いだ。
「いいぞ! そのまま街につっこめ!」
助手席の一尉にレインジャー隊員としての返事をする。
「レインジャー!」
街が見えてきた。入口に向かって疾走する。西洋風の石造りの建物が林立している。
灰色の四階建てと、くすんだオレンジの五階建ての間を通って街に入った。大きな道に出た。舗装されていない。後ろに砂煙が上がるのがミラーにうつる。走るたびに道幅が狭くなっていくのがわかる。
真奈美が叫んだ。(田中は心の中でだけは高橋のことを「真奈美」と呼んでいる)
「6時の方向、RPG! 二本、四本、六本…、数えきれません!」
「そのまま直進しろ。道幅は狭くなるが、そのまま抜ければ海岸だ!」
「レインジャー!」
道の終点はすぐそこだ。あの幅ならぎりぎり通りぬけられる。スピードを緩める気はない。
しかしその出口に見えたのは、黄色いシャツの女の子を縛り付けた磔柱だった。
間違いなくあの子だ! なぜあの子があんなことをされているんだ! 生きているようだ。遠目で見ているエリカにも、彼女が大声を上げて泣いているのがわかる。
自分がしたことは何だったんだ…。
「反転!」
恭輔が叫ぶ声が聞こえる。
「レインジャー!」
ギァァァァァッ、というかん高い音を立ててタイヤが鳴った。体が振り子のように回転し、乱暴にドアに押しつけられる。いつのまにか車両の向きが反対になっていた。フルスピードで来た道を驀進している。
エリカは大声を上げた。
「なんなのあれ!」
恭輔が答えた。
「防盾だ」
「だから、なんなのあれ!」
「だから、タマよけだ!」
銃を抱えた男たち、女たち、子どもたちが次々に建物から飛び出してくるのが見える。フロントガラスの向こうには肩にミサイルをかついだ民兵が何人も見える。恭輔が言った。
「田中! まかせる!」
「レインジャー!」
エリカは兵器にくわしくはないが、見ただけでわかる。あのごついミサイルが当たれば、この車など紙のように貫くだろう。
高い音を立ててミサイルが飛んでくるのがガラスごしに見える。田中がギリギリでハンドルを切る。次のミサイルが来る。もどす。民兵たちが撃ったミサイルが、次々に直進してくる。そのたびに田中がギリギリでかわしていく。しかしこんなこといつまで保つんだろうか。
いきなり体をぐっと倒された。高橋の体が自分の上半身を覆っている。この時ばかりは髙橋が隣にいることがありがたかった。恭輔が何か叫んでいる。
「エリカ、約束を覚えているか!」
「約束?」
この男がしてくれた約束ならたくさんある。
「おれがいるかぎり…」
高橋の膝の上で叫んだ。
「あたしは死なない!」