おまえのせいじゃない
「おんぶ!」
「自分で歩け」
「あたしはあんたの部下じゃないから、あんたの命令なんか聞かないわよ! おんぶして!」
「わかった、わかった」
用を足した後、エリカは恭輔に背負われた。
大股の歩行が与える振動がここちいい。
何が「大人の関係」だ。もう、こいつの前では子どもに返っていい。
あの「おしおき」の夢も、こいつの前で子どもになりたいという願望があらわれたんだろうか。
幼いころ母親に甘えられなかった子どもが、成長したあと幼児退行化することがある。
あの「おもらし」の介抱を同性の高橋ではなく恭輔にさせたのもそのせいだろうか。
用を足すのに恭輔に連れてきてもらったのもそのせいか。
いやあの「おもらし」でさえも、こいつの前で赤ちゃんになりたいと思ったからかもしれない。
まあ、そんなことがわかってもしかたがないのだが。
いまのうちにもうひとつ甘えておこう。
「ねえ…、このあとも危険なんでしょう?」
恭輔は、エリカが期待した通りの答えを返した。
「大丈夫だ。おまえはおれについてくればいい」
この男はなぜいつもこうなんだろうか。
なぜこんなに器が大きくていられるのだろうか。
自分が何を言っても大人として受け止めてくれる。
こいつが高校一年生だった、はじめて話したときはもう大人の男だった。
だれにでもあるはずの劣等感や不必要なプライドが全くないか、よほど少ないに違いない。
どういう育ち方をしたらこんな風になれるんだろうか。
エリートとかインテリとか言われながら、トラウマとコンプレックスの固まりのような自分とはまるで違う。
自分はこのまま、この男に甘えながら生きていくのだろうか。
恭輔にとって、自分は必要なんだろうか。
もし恭輔が大ケガでもしたら、医師としてこいつの役に立てるかもしれな…。
バッシーン!
「どうした!」
恭輔が驚いたように振り返った。
自分で自分をぶっ叩いたら、思ったより大きな音が出てしまった。
車にもどると、高橋が外でライフルを構えて警戒していた。恭輔がエリカを背負っているのを見て、露骨に眉間にしわを寄せた。
「エリカは車にもどれ。高橋、話がある」
エリカが後部座席にもどってドアを閉めると、車の後ろで恭輔が何事かを高橋に言っているのが、ミラーごしに見えた。
田中が前を向いたまま話しかけてきた。
「高橋二尉ですが…、決して無能ではないのですが、人の気持ちがわからないところがあります」
そんなことはわかっている。
「なぜさっき新条一尉がひとりであなたを外に連れ出したか、まだわかっていないのではないでしょうか」
あの子にそんなデリケートなことをわかってもらいたくない。
「一尉が自分を連れて来たのは、運転させるためです。高橋二尉は格闘術ができます。しかし捕縛術として格闘を習う警察官と違って、自衛隊員はあまり格闘訓練をしません。相手が目の前まで来てしまったらおしまいだからです。そしてこの任務では車の外に出ないのが原則です。一尉が高橋二尉を連れてきたのは格闘の腕を見込んでというより、同性であるあなたの世話をさせるためでしょう。しかしあなたは、それをまったく拒否している」
あの子があんな性格じゃなければ、受け入れても良かった。
「高橋二尉はいま、この分隊での自分の存在理由について悩んでいるでしょう。だから待機を命じられたにもかかわらず、あなた方のあとをついていった。そして結果としてあなた方の命を助けた。むろんこれは、いいことではありません。この先あの人は、一尉の命令を無視してでも、一尉のためになることをしようとするかもしれない」
「軍隊って、上官の命令は絶対なんじゃないの?」
それはそれで好きではない。むしろ嫌いなのだが。
「もちろん、自衛隊でもそうです。しかし二尉は中隊長に対して『尊敬すべき上官』以外の感情を抱いている。もしかしたら懲罰覚悟で命令に反抗するかもしれない。むろん、
これはとても危険なことです。ですから…」
「あたしに我慢しろって言うの?」
「その通りです。先生が高橋二尉を立ててくれれば、彼女もきっと気持ちを安定させるでしょう。少なくとも、刺激しないでほしいのです」
「冗談じゃないわ。そんなのはそっちの都合でしょ! あんたまさか、こんなことを言い出すってことは、あの子に片思いでもしてるの!」
言ってから後悔した。なんでも色恋沙汰で考えるべきじゃない。低俗すぎる。
しかし田中は言った。
「ええ。その通りですよ」
まもなく恭輔と高橋が車にもどってきた。再出発だ。高橋に言った。
「さっきは助けてくれて、ありがとう」
早く言っておかないと、礼が言いにくくなりそうな気がしたのだ。
「先生、ちょっと聞きたいのですが…」
高橋が「どういたしまして」も言わずに別の話を始めた。この子のこういうところが苦手なのだ。
「先生は、『武器を持っている者がいるから平和が乱れる』と言います。たしかにそうでしょう。しかし現実に、ここは武器を持たなければ暮らせません。それについてはどうお考えですか?」
「高橋! 余計なことを言うな」
恭輔がたしなめたが答えることにした。逃げたと思われたくない。(こういうところが戦闘的平和主義なのだが)
「あいつらもあんたたちも、いっせいに武器を捨てればいいじゃないの。そうなったら軍隊も自衛隊も必要なくなるわ」
「しかし民兵という武装した集団が現実にいます。彼らがいなければ、我々は必要ない。それはそうでしょう。しかしそれは、火事がなければ消防士はいらず、犯罪がなければ警官はいらず、病気や怪我がなければ医者はいらないというのと同じ理屈ではないですか?」
この言い方にカチンときた。
「あのね、病気や怪我の原因のほとんどは、もともと自然にあるものでしょうが! だけどあんたたちは、自然とは関係なく存在している。武器をもった『人間』がいっせいに武器を手放せば、だれも武器を必要としなくなるのよ!」
「しかし現実に…」
これは水掛け論だ。結論が出るはずがない。恭輔が怒鳴った。
「高橋! いい加減にしろ!」
「しかし…」
「おれたちは毎日人殺しの訓練をしている。こいつは人の命と健康を救っている。こいつの仕事のほうが、おれたちの仕事よりも高尚なことは明らかだ。エリカに謝れ!」
「ですが!」
「命令だ、謝れ!」
「はい!」
となりで高橋がだらだらと詫び言を言っていたようだが、聞いていなかった。ある言葉がぐるぐるとエリカの頭の中を巡っていたからだ。
おれたち…。
「だけど恭輔、結局この子がさっき命令を無視したことへの罰はいいの?」
「おまえもさっき言ってただろうが。おれたちはそのおかげで助かったんだ」
「フン。あんたも若い女に甘いわね」
恭輔が振り返らずに言った。
「『あんたが負けたら、あたしは死ぬのよ』」
「…何が言いたいのよ」
「おまえだっておれに甘いじゃねえかよ」
…なんとなく沈黙した。エリカは無理矢理沈黙を破った。
「カッコつけてるんじゃないわよ!」
さっきもこんなことを言ったような気がする。
「あたし知ってるのよ! あんたがあたしに一目ぼれしたことも! ずっと好きだったことも! 今でも好きなこともね!」
「そんなこと自慢になるか」
あたしを好きになったことが屈辱なのか、こいつは。
「そんなことはだれでも知っている」
田中が言った。
「ぼくも一目でわかりました」
高橋は何も言わなかった。
その時無線機が鳴った。恭輔が取った。
「はい、第一分隊。はい…、はい…、えっ…。………。………。………。了解しました」
恭輔が無線を切った。
「三人とも聞け。第二分隊が民兵の襲撃を受けた」
さっきとは別の意味で全員が沈黙した。最初に高橋が口を開いた。
「それで、被害は…」
「民間人か隊員かはっきりしないが、死者がひとり出た。数人負傷者がいるようだ。石井二尉は民兵に気づいていたが、交戦規定のために手出しができず、包囲されてしまったらしい」
「わかりませんよ。もし中隊長が指揮を執っていたら、被害を出さずに済んだかもしれません」
「おれはさっきおまえに待機命令を出したが、それは間違いだった。おれの方が石井より有能だとは決して言えない。それよりも、第二分隊はなんとか宿営地まで逃げ込んだものの、そこも安全とはいえず、民間人を宿営地からヘリで脱出させたそうだ。そこで我々も、宿営地ではなく海岸を目指す」
エリカは恭輔の言葉を途中までしか聞いていなかった。
あたしのせいだ。
あたしが、あの黄色いシャツの子の診察を優先させたからこんなことになったんだ。
あたしのせいで、死んだ人がいるんだ。
さっき恭輔に、「赤ちゃんを殺すつもりだったのか」と聞こうとしたのはひどい間違いだった。
恭輔があのとき何を考えていたかなんてどうでもいい。
恭輔はだれも殺さなかった(・・・・・・)。
あのときだれも死んで(・・・)いない(・・・)。
しかし自分のせいで、一人が死に、負傷者が出ている。
「エリカ」
気がつくと、恭輔がふり返ってこちらを見ていた。
「おまえのせいじゃない」
「そんなことわかってるわよ!」
叫んだが、やはり罪悪感にとらわれずにはいられない。
黄色いシャツの子を先に診察しなければ、自分もあの日本人たちも捕えられることはなかった。
昨日捕らえられなければ、だれかわからないが今日死んだ人は、今も生きていた。
捕らえられたあとも、自分は民兵たちに虚勢を張っていた。
あれが民兵を刺激したのかもしれない。
自分が恭輔といっしょじゃなければいやだとわがままを言ったせいで、中隊が二つに分かれた。
彼らは民兵の襲撃を受けて死傷した。
自分はここにいて、無傷で生きている。
自分も、他の民間人とともに民兵の襲撃を受けるべきではなかったのか。
「もう一度言うぞ。おまえのせいじゃない」
顔を上げると、恭輔がこちらを見たままだった。ずっと自分の顔を見ていたらしい。
「石井二尉は有能な自衛官だ。そして彼に分隊の指揮をまかせたのはおれだ。おまえは女の子を先に診察したからこうなったと思っているらしいが、ものごとの原因っていうのはそんなに単純じゃない。おまえがキャンプで住民の意思を無視しなければならなかったのは、原因というより結果だ。この土地の文化からきた結果にすぎない。一応、キャンプの日本人ドクターが現地の文化を無視して診察の順番を変えたからということになっているが、民兵たちの中には無差別で日本人を殺すべきだと考えている者もいる。おまえの行動はただ名分にされたにすぎない。おまえが何もしなくてもあいつらは暴走したろう。死者が出たのは民兵のせいだ。おまえのせいじゃない」
自分でも信じられないようなことを、この男はなぜたやすく信じさせてしまうのだろう。
「田中、直接海岸には行かない。街に寄っていく」
「買い物でもするんですか?」
田中がまた軽口を叩いている。
「そうだ」
どういうこと?
「…しかし、海岸までの途中の街は、あの民兵組織が支配しています。危険です!」
「水を調達する」
エリカは口を挟んだ。
「なんでそんなことを…」
恭輔が答えた。
「エリカ、医師として診断しろ。今のおまえの体は、脱水症状を起こしていないか?」
「…起こしかけている」
砂漠の中を走ったり、けっこうな距離を歩いたりして、汗をかいてしまった。人間は睡眠中相当な量を発汗する。それにエアコンがあると言っても、出てくるのは乾燥した空気だ。口の中の水分も奪われたのだろう。
「水が必要だ」
「何で用意してないの!」
「用意していた水は使った」
「だれが!」
「おれだ」
「飲んだの!」
恭輔は答えない。自分が飲むぶんがあるなら、あたしに分けてくれればいいのに!
高橋が答えた。
「中隊長が、あなたの下半身を拭くのに使いました」
やっぱりあたしは、この子が嫌いだ。