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オレンジ・ビーチ  作者: 恵梨奈孝彦
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民兵

戯曲「死が二人を分かつまで」を小説にしたものです。

「保育園落ちた。日本死ね」と言っていた人がいましたが、「日本が死ぬ」とはこういうことなのでしょう。

『オレンジ・ビーチ』


「ここじゃ、日本に帰れば滅多に見られないものがいくつもある。本物の銃、本物の殺人、本物の死体!」

 肌の色を見た限りでは、現地の人と白人の混血であろう。あごひげを生やした男が、顔を近づけてにやりと笑った。

 藤原貴子は、「あごひげ」の褐色の眼をにらみつけて言った。

「わたしは医者よ。死体なんか見慣れてるわ。それに日本に帰るつもりなんかない」

「なるほど、あんたが日本を捨てるのは、悪くない判断だ」

「おあいにくさま、あたしは日本を捨てたとしても、この国を拾ったりしないわよ!」

 ここは日本から5万キロ以上はなれた小国。いや、国とさえ言えないかもしれない。政府に力はなく国土に武器はあふれ、人心は荒れ果て治安は最悪であり、産業らしい産業もなく、国家に国民を守る力もない。

 貴子はキャンプにいた二十一人の日本人とともに、この「あごひげ」たち、「民兵」に虜にされていた。

 ほこりっぽい、天井ばかりが高い廃倉庫。床には段ボールの切れ端だけが散乱している。金属でできたものは屑鉄屋に売れるため、すべて略奪されてしまったらしい。

 二十二人の日本人は、互いの顔がわかるのがやっとの暗さの中で、倉庫の真ん中に立たされていた。

 民兵たちには民族衣装を着ている者もいれば、作業服みたいなものを着ている者もいる。ライフルや拳銃を持った数十人の男たちに何重にも囲まれている。とにかく囲みを破って脱出するのは不可能だろう。

「あたしたちをどうするつもり?」

「死んでもらう」

「ひっ…」

 貴子の後ろから、男の悲鳴がした。

 フン。いい歳してだらしがない。赤ちゃんを連れた母親までもここにはいるのに!

望月が言った。

「身代金と交換では…」

 あごひげが言った。

「そんなことをしてもこちらにカネが入ってくるわけじゃない。それよりも『日本人を殺した』ほうがいい。ボスが評価してくれる。この国の特権階級が食っていられるのは、日本からの援助のせいだ。無差別に日本人を殺せば援助がとだえる。独裁者が倒れる」

 この「独裁者」というのは、大統領のことらしい。しかしこの国の大統領には日本の荒れた中学校の学級委員ほどの指導力もない。この「あごひげ」がボスと呼んでいるような民兵集団のリーダーたちが、かろうじてリーダーシップを取っている。しかし「リーダーシップ」と言っても、民兵じたいが山賊のようなものであり、この「あごひげ」のような子飼いの部下たちに、略奪した国際援助品を配っているだけで、国土の治安維持などしていない。しかもその民兵集団が、大きなものだけでも四つあり、四つ巴の内戦をいつまでも続けている。こんな場所にまともな産業など育つはずもない。

「ずいぶん流暢な英語じゃないの。ママに教えてもらったの?」

「母はいない。父親もだ。英語は外国語として習った」

「この国で英語を学べるところといったら、国立の上級学校しかないわよね。国のお金で勉強させてもらって、何が特権階級の打倒よ! どうせ本音は、あたしのしたことが気に入らないだけなんでしょ!」

 無論、それによって他の日本人を危険な目に合わせているという自覚はある。

「だけどあたしは、正しいことをしたと信じてるわ!」

「サーディンズ、ヘッド」

「はあ?」

「日本語で言えば『イワシノアタマ』か」

 何を信じても自由だと言いたいのか!

「おまえ、医者か。日本じゃ尊敬されているんだな」

「あんたと世間話をする気はないわ」

「医者っていうのは職人なんだろ。人の体を治すのが商売の」

 何かカンにさわった。

「ほう、怒ったのか。日本では職人が尊敬されているって聞いたが間違いだったのか。日本人にもアホウにしか見えない鳥に『アホウドリ』って名づけるような素直さが残っているようだな」

 素直という言葉はそんな風に使われていいものではないはずだ。

「ここの人間はさらに素朴で素直だ。甘いものがうまい。威張ってる奴が偉い。そして…」

 あごひげが拳銃を抜いた。

「銃を持ってる奴が強い」

 銃口をにらみつけた。

「そんなモノを振り回して自分が強くなったような奴の気がしれないわ! 武器がなけりゃなんにもできないくせに!」

 あごひげはにやにや笑っている。

「この国に来てから、あんたたちがぶら下げているオモチャのせいで、死んだり障害

を受けた人をたくさん見てきた! あたしたちが慎重に救いあげている、あんたたちの同胞の命を、あんたたちは簡単に叩きつぶしてしまう!」

 笑っていたあごひげの顔がみるみる蒼白になった。

 拳がとんできた。

 顎を殴られた痛みを実感する間もなく、銃の台尻が脳天に振ってきた。

 頭がクラクラする。

 思わずしゃがんだ。両手を床に着いて体を支える。

 蹴りが水月に飛んできた。

 息ができない…。

 たすけて、きょうすけ…。


 ことの起こりは二日前であった。

 貴子はこの倉庫から10キロほど離れた難民キャンプで、外科医として働いていた。

 この国は初めてだが、海外で医療活動を行うのは初めてではない。

 独立は四十年ほど前だが、この国の場合宗主国の都合で独立させられた、というより切り捨てられのたである。ベトナムやインドネシアのように戦って独立していないせいか、人々にこの国の国民であるという意識が全くない。

 彼らのアイデンティティーは、国民ではなく部族の構成員であることにある。

 そして、旧ソ連が貨幣代わりに置いていったカラシニコフ小銃などの武器がこの国にはあふれている。

 一応警察も軍隊もあるのだが、政府が彼らに給料をほとんど払えないため、警官も兵士も国から預かった銃を使って金をつくるか、銃を売り飛ばす以外に生活する方法はない。彼らがやったのはその両方だった。

 今でもこの国の闇市には武器があふれている。銃器のほか、対戦車ロケットまでが2~3万円で売っている。

 必然的に部族のリーダーたちは武装した子分たち、「民兵」を持つようになった。

 民兵どうしの戦い、いつ終わるともわからない内戦に加え、地雷汚染も進んでいる。キャンプの診療所に、近隣からけが人や病人が担ぎ込まれることがよくある。

 あの少女もまた、その一人だった。

 二日前、彼女は親に連れられてやってきた。民族衣装ではなく、黄色いTシャツを着ている。母親は「咳がとまらず、熱があるようだ」と言う。

 その時、「あごひげ」が割り込んできた。

「そんな奴はどうでもいい。おれの兄弟の治療をしろ」

 怒鳴りつけてやろうと思った。その時、キャンプの責任者が言った。

「彼の兄弟を先に治療しなさい」

 キャンプの責任者は日本人だった。

 望月進哉という。

 もとはジャーナリストらしい。

 真ん丸い顔をしている。こんな土地なのに肥満していてほとんど走ることがない。

 貴子は望月を怒鳴りつけた。

「これは医療に関する問題です! あなたの指図は受けません」

 望月はそんな貴子にかまわず、熱があるという少女と母親をキャンプの外に連れだした。

 患者を連れ去られてしまっては是非もない。貴子は「あごひげの兄弟」という若い男の治療をとても荒っぽくやった。

 あごひげの兄弟はほとんど軽傷だった。

 しかし貴子は納得がいかず、その夜望月のところに怒鳴り込んだ。望月はすかした顔で答えた。

「ここの宗教ではね、前世罪を犯した者が女に生まれるんだよ。だから、女性の治療を男性より前にしてもらうわけにはいかないんだ」

「そんな迷信を治療より優先しろだなんて、あなたは正気ですか!」

「郷に入ったら郷に従え、だよ」

「女性差別にも従えってことですか!」

「そうしなければ、ここでは活動できないんだよ。日本にも、女は穢れたものっていう考えがあった。今でもその名残で、相撲の土俵は女人禁制だ」

「そういう偏見を取り除いていくべきです!」

「あなたは何をしにここに来たのかな」

「治療のためです。そして近代医療を行うためには、そんな迷信は打破しなければなりません」

「君は社会ダーウィン主義者なのか」

 生物学のダーウィン主義とは、「突然変異によって生まれた個体の中に、その環境に最も適応した者がいる。その最適者が、餌の奪い合いに勝利して生き残る」という思想である。

 それを社会学に応用したのが「社会ダーウィン主義」だ。「近代」を産んだアメリカ、ヨーロッパが20世紀の地球という環境に適応して勝利者となった。取り残されたアジア・アフリカでも、「近代」を取り入れた国家、民族、個人のみが生き残るという思想だ。

 しかし現代では、「文化に優劣はなく、それぞれ全てに価値がある」という文化多重主義的な考えのもと、「社会ダーウィン主義」は否定されている。

「君は迷信というがね、彼らにとってはそれが唯一の宗教なんだよ。近代化っていうのは結局西洋化だ。文化そのものを西洋化する必要がある。男女平等も基本的人権も、多数決の原理も、全て西洋の文化だ。この国が近代的な憲法を持って数十年経っても少しもデモクラシーが定着しない理由がここにある。もちろん、『列を作って順番に恩恵を受ける』というのもこの国の文化にはない。この国の人間が『近代化』って奴を受け入れて、自分たちを西洋化しようっていうならそれもいいだろう。しかし君が、ここの『文化大革命』をするのはやめてくれ。近代文化がその他の文化より優れているっていう証拠はどこにもないんだからね」

「しかし、医療には人の命がかかっています」

「そうだ。だから日本では医者は権威であり、権力だ。だれでも健康を害したら医者にかからなきゃいけないんだからな」

 そんなことはどうでもいい。

「医療とほかのこととを同じに考えるべきではありません!」

「だけどここではドクターより呪術師の方が尊敬されている。医者は死人をどうにもできないが、呪術師は死者の魂を呼び出せるからな。医者の権威が世界中どこででも通用するとは思わないことだ」

 この男は文系らしく理系の人間に対する劣等感がはっきりとある。少なくとも貴子はそう思った。

「要するに、医療にしても何にしても、ここの文化に従ってやってほしいということだよ」

 これ以上話しても無駄だと思い、貴子は望月のもとを辞した。

 次の日、昨日の少女がまたやってきた。悪いと思ったが男達の診察がすむまで待ってもらった。

 やっと少女を診ることができた。

「あなた、名前は?」

「ピス」

 …「おしっこ」という意味だ。

 この国の前宗主国は、植民地の人間にわざと汚い苗字を与えて辱めた。もともとこの国の文化にファミリーネームはない。

 少女の胸に聴診器を当てるとごうごう音がする。風邪かと思い、熱冷ましと咳止めを与えて帰した。

 その翌日、つまり今日のことである。キャンプに来る途中、外であの黄色いTシャツの少女が母親に抱かれているのを見た。

 吐く息が荒い。脂汗を流している。

 結核だ!

 内科は専門ではないが直感した。

 その子を抱き上げると、何も言わずに診療所のテントに入った。

 外からわあわあ言う声が聞こえる。思わず飛び出した。

 言葉はわからないが、何人もの男たちが大声を上げて威嚇している。

 「あごひげ」には英語が通じるはずだ。

「何を言われようとこの子をまず治療するわ! 文句があるなら帰りなさい! 言っておくけどあたしは、治療の邪魔をする奴を診察したりしないわよ!」

 しんとなった。

 最初からこうすれば良かったんだ。

 望月が入ってきた。オロオロしている。

「ちょっと、困るじゃないか…、こんなことをしたら…」

「やかましい!」

 診療所から追い出した。勝手に困っていればいいんだ。

 少女を横にさせて抗生物質を投与する。ストレプトマイシンが効いてくれれば…。

 数時間経って、ようやく熱が下がった。峠をこしたようだ。

 外に出てみた。男たちはいない。あきらめて帰ったようだ。

 医師は、時として独裁者にならなければならないときがある。それが多くの命を救うことにつながるはずだ。

 そう考えた数時間後、「あごひげ」たち武装した男たちにキャンプは急襲され、そこにいた他の日本人とともにこの倉庫跡に連れて来られた。

そしてその「他の日本人」には、ここで急に産気づき、昨日このキャンプで分娩を終えた母親とその新生児までも含まれていた。


「おれたちの体はおまえのオモチャか! おまえは積み木遊びをしたくてここに来たのか!」

 あごひげが何度も何度も貴子の腹を蹴り上げる。

 痛い。苦しい…。

 その時、バーンという音がして外光が差し込んできた。

 明るい。

 扉が蹴破られたのだ。

 世界とはこんなに明るかったのか。

 倉庫の床上五メートルくらいのところに、壁にそって手すりのある足場が取り付けられている。足場は長く、二十メートルくらいあった。外からそこに出入りできる扉が破られ、次々にオリーブドライブの迷彩服を着た男たちが入ってくる。迷彩服の男たちは、足場いっぱいに等間隔に広がると、一斉にこちらを向いた。

「構ええ、(つつ)!」

 日本語? 自衛隊がここに?

 思う間もなく上方から、数十丁の銃が整然と民兵たちに向けられた。

 陸上戦においては上空に位置した側が絶対に有利だと聞いたことがある。

 ガチャッという音が響いた時には、民兵たちに抵抗する術はなくなっていた。

 いつの間にかあごひげも、貴子を蹴るのをやめていた。

 続いて下の扉が破られた。迷彩服の男たちが次々に入ってきて、みるみる民兵たちを包囲していく。

 意外なほどあっけなかった。

凶悪で知られた民兵たちが、実戦経験などないだろう自衛隊員たちにあっさりと無力化されていく。

 なぜこんなに簡単に抵抗をやめてしまうのだろう?

 最後に、男がひとり扉をくぐって入ってきた。男の顔は逆光で見えない。ただ、彼の背後に、切り取られた四角い空間の中央に、まぶしいほどの夕日が見える。貴子はその図柄をどこかで見たような気がした。

 男が入ってきた。顔が見える。涼やかな眼、通った鼻筋、きりりと引き締まった口元。

 むろん他の隊員と同じ迷彩服を着ていたが、彼は貴子の初恋の人に似ていた。というより、彼が大人になったらこうなっているだろうという姿そのものだった。

 民兵たちを包囲した隊員たちは、あっという間に彼らを床に伏せさせ、武器を取り上げている。

 「あごひげ」が腕を極められながら体を起こされている。入ってきた男に唾を吐きかけた。男はポケットからハンカチを出して顔をぬぐった。冷静そのものだ。その雰囲気さえも初恋の彼に似ていた。

 男は、ゆっくりと貴子に近づき、挙手の礼をした。

「『ボーダーレス・ドクターズ』の藤原貴子医師ですね。陸上自衛隊第一師団第三十八連隊、第二中隊長、一等陸尉新条恭輔です」

 …本人だった。


「ここでは復興支援の一環として、防疫給水活動をしていたのですが、臨時に邦人保護の任務につきました。本来なら四分前に着けそうだったのですが、倉庫の特定に手間取ってしまいました。申し訳ありません」

 そっぽを向いてやった。

「あの…、藤原先生」

 この、余所行きの声も気に入らない。

「先生…」

 もちろん返事はしない。


「やっぱりおまえのことはこう呼ぶべきなのか…、エリカ(・・・)」


 恭輔の眼をまっすぐにらみつけた。

「こんなふうにおまえに睨まれるのも久しぶりだな…。何年ぶりだろうか」

 怒鳴りつけてやった。


「おそいっ!」


「さっき謝ったろうが…」

 この男は何にもわかってない!

「あのねえ、あんたがさっさとここに来てくれれば、あたしはあんな目に会わなかったのよ!」

「とにかく陸自の宿営地まで送る」

「あたしはね、兵器ってものがどんなに人を傷つけるかいやというほど見てきた。武器を持っている奴は信頼できないわ」

「ここは丸腰で歩けるような土地じゃない」

「そういう土地になったのは、あんたたち武器を持ってる奴らのせいじゃないの! あたしは、今のあんたの世話になったら、自分の収めた医学っていう学問への裏切りになるのよ!」

 むろん、貴子といえども命を助けてくれた相手がこの男でなければ、こんな態度を取らなかったろう。

「たまには素直に言うことを聞け!」

 素直。素直って何なのだろう。

「いやっ!」

「エリカ!」

「絶対いやっ!」


「いいからおまえは、だまっておれについてこい!」


「ぐっ…」

 こんな時なのに顔が熱くなった。動悸が激しくなる。ごまかすために大声を出した。

「何よ、えっらそーに! あんたいったいあたしの何なの!」

「おれはおまえの味方だ。どんなことがあっても、これだけは忘れるな」

 味方…。たぶんこの言葉は、ほかの女の子にはむしろそっけなく聞こえるのだろう。だけど自分の今までの人生で、この男以外に「味方」などいただろうか。

「ついてきてくれるか…」

「うん…」

 その時、横合いから声がした。若い女だ。迷彩服を着ている。むろん自衛官だ。

「空や海とちがって、陸にはいろいろな人たちが入り組んで住んでいます。陸上戦においては、だれが味方でだれが敵かわからなければ戦いようがありません。だからどこの国の陸軍軍人も自分が敵か味方かをまず明らかにします。『私たち』は、あなたの味方です」

 丸顔だ。鼻が低いけれど目はくりっとしている。かわいい感じだ。

「………だれ?」

「陸上自衛隊、第一師団第三十八連隊第二中隊所属、三等陸尉高橋真奈美です」

「あんたに聞いてないわよ!」

 恭輔を怒鳴った。

「だれよこの人!」

「おれの部下だ」

「あっそ」

「我々で邦人全てを宿営地に送る。ただその前に、あの民兵たちをどこか遠くまで連れて行かなきゃいかんな」

「遠くって…」

「だから、『遠く』だよ。武装は解除したが安全な人たちとは言えないからな。中隊で、簡単にここまで来れないところまで送ってやらなきゃいかん。そのために人数を割く必要があるな」

「捕虜にしないの?」

 あんな連中を野放しにして大丈夫か。

「そんな権限はないよ。第一、足手まといだ」

 恭輔が他の隊員たちのところに行ってしまうと、高橋が近づいてきた。

「中隊長に言い過ぎたと思っているなら気にしなくていいですよ。私たちはもともと日陰者ですから。助けた相手に罵倒されるなんてよくあることです。中隊長もああいった反応には慣れていますよ」

 なんだか、この女の言いようが気に入らない。もっと言えば、この女の口から「私たち」という言葉が出てくるのが気に入らない。

 隊員たちが民兵を外に出すと、恭輔がもどってきた。

「では、みなさんにも移動していただきます」


 すでに夜が更けている。

 隊員たちの大半は、民兵を「遠く」まで送りに行っているらしい。

 「この倉庫にとどまっていたら、隊員たちがいない間に他の民兵に急襲される恐れがある」と言われ、すぐに移動させられた。

 そうは言っても赤ん坊を含む二十人以上の大所帯のため、目立たずに行動することは難しい。

 倉庫のすぐそばの廃屋の二階に移動し、夜を明かすことになった。

 日中は摂氏40度にもなるこの土地であるが、夜は氷点下まで冷え込む。

 三十畳くらいありそうな部屋の床に、日本人たちは夜具もなく、身を寄せ合って雑魚寝をしていた。

 不寝番として恭輔が立っている。

 とても快適とは言えない寝床であるが、疲れていたのだろう。やっとうとうとし始めたとき、床がきしむ音が聞こえた。

 闇の中で耳をすませた。

 足音がこちらに向かってくる。

 目を凝らした。

 恭輔の陰が、しゃがんで腰の拳銃を抜くのが見えた。

 足音はさらにこちらに近づいてくる。

 いまこの部屋には、自衛隊員は恭輔だけしかいない。あとは高橋のほか数人が部屋の外にいるだけだ。

 民兵がどれほどいるかわからないが、とても対抗できないだろう。

しかしここは一切光がともされていない。

 もしかしたら、やりすごしてくれるかもしれない。

 帰って! お願いだから帰って!

 貴子は全身を耳にして足音を聞いた。

 この部屋の前まで来ることはなかった。

足音が遠ざかっていく。

 階段を下りているようだ。

 ほっとした。だがまだ安心できない。

 一階に下りただけだ。建物の外には出ていない。


 おぎゃぁぁっ! おぎゃぁぁっ! おぎゃぁぁっ!


 母親に抱かれた新生児が、火がついたように泣き出した!


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