後編
翌朝早く、馬謖は宿を出た。何故、姜維は現れなかったのか、いくら考えても分からない。とりあえず姜維の後をつけてみようと馬謖は考えた。もしも、姜維の動きがおかしなものであればそのまま逃げだせばいい。程なくすると姜維が現れる。いつもと変わらず役所勤めの服装で歩いているが、その表情は暗かった。また歩く速度も遅く、出会った時の自信に満ち溢れた颯爽とした姜維ではない。
(これはおかしい。もう少し様子を探ろう)
馬謖は見つからないように細心の注意を払いながら尾行を続けた。姜維は相変らずぼんやりしながら歩いて行く。すると不意に役所とは違う方向に向きを変えた。
(あちらには川があるだけだが・・・?)
訝しく思いながらも馬謖はその後を尾行した。やがて姜維は橋の袂まで来ると、その下に入っていった。
(何だ?何故あんな所に入る?)
馬謖は逡巡したが、行くしかないと決め辺りを伺いながら慎重に音をたてないようにその後に続いた。しかし、目の前から姜維の姿は消えていた。勿論誰も居ない。慌てて辺りを見回す馬謖に草むらの中から、
「誰だ。何故俺をつける」
という姜維の声が聞こえる。そちらを見れば姜維は草むらの中に仰向けに寝転んでいた。
「馬願です」
「馬願さんか。昨日は済まないことをした。待っていたのでしょうな」
「ええ、何故おいでにならなかったのかお聞きしてもよろしいでしょうか?」
「言いたくないな」
姜維は呟くように言う。
「ならば聞きますまい」
そういうと馬謖は姜維に近づく。
「では違うことをひとつお聞きしたい。姜維様の生涯の夢は何でございますか?」
「・・・・」
姜維は答えない。馬謖は姜維に近づきその眼を覗き込んだ。死んだ魚のような眼をしている。
「今度は言いたくないでは済みません。答えて頂く」
姜維は馬謖と目線を合わせようとはせずに、
「何故あんたにそんなことを言わねばならない」
面倒くさそうに言う。その言葉に馬謖は間髪入れずに強い口調で、
「あなたは選ばれた者だからです」
それを聞いた姜維は、くぐもった皮肉な笑い声をあげて
「俺が選ばれた者?誰に?」
「私にです」
それを聞いた姜維は、がばっと起き上がると
「俺が商人であるあんたに選ばれたのか?そりゃいい。今日からあんたの弟子になって商人として生きていくか。」
そう捲し立てると姜維は怒りの眼で馬謖を見据えた。
「よし、俺の夢を教えてやろう。俺の夢は将軍になることだ。将軍になり、女手一つで育ててくれた母に恩返しがしたい。また、この世には李嵐のような民の生き血を啜って贅沢をしている役人が大勢いる。そういう奴らを粛正し、正しいことがまかり通る世の中にしたい。」
ここまで言うと姜維はがくっと肩を落として、目にも力が無くなった。
「馬願さん、笑ってくれよ。そんな俺が昨日は一日何をしていたと思う?」
いまや姜維の顔は自嘲の表情に歪んでいる。
「兵士の糞尿を集め、それをかき混ぜて肥料を作る。俺以外の人は、老齢で戦場に出られなくなった者や戦争で負傷し体が不自由な者、五体満足で働いているのは俺だけだった。李嵐の奴に俺は肥溜め係に任命されたんだ。昨日は体に染みつく臭いで一日中眠れなかった。そんな俺が将軍・・・、なあ、馬願さん、おかしいだろう」
そういうと姜維は皮肉な笑い声を上げ横に寝そべった。そんな姜維に馬謖は静かな声で、
「そう悲観するものでもない。肥料はすべての生命の源、私の住む場所では地位の高いお人でも糞尿を担ぎ、それを捏ねることをなさっている」
姜維は寝転びながら、
「気休めは辞めてくれ。この国にそんな奇特な奴が居るわけがない。そんな奴が居るなら名前を教えてくれ」
「諸葛孔明様」
「何?」
姜維は飛び起きると、馬謖を見つめた。目の前に居る男からは、商人らしい慇懃さは消え、かわりに威厳のようなものが漂っている。
「馬願さん、あんた一体何者なんだ?」
「まず一つ謝らなければなりません。私の名前は、馬願ではない。私の名は馬謖、字は幼常」
「馬謖?知っているぞ。蜀の将軍でまだ若いが孔明の秘蔵っ子と言われているという噂を聞いている」
「孔明様の秘蔵っ子とは恐れ多いが、いかにもその馬謖です」
「何故その馬将軍がこんなところに・・・?」
「そう、それを聞かせに来たのです。しかし、ここは話をするのに不向きですね」
おりしも風が強くなり雨が降りそうな天気になっていた。
「では、むさくるしい所ですが拙宅においでになりませんか?」
「それは助かります」
早速二人は姜維の家に向かった。途中でいつもの飯屋により弁当と手土産を馬謖は買い求め姜維の家へと向かった。その飯屋を出る時に、一人の男が二人の後をつけ始めた。それに気付かずに二人は姜維の家へと入っていった。
「母上、戻りました」
姜維が声を掛けると一人の老婆が咳込みながら奥から出てきた。
「コホンコホン・・・、お勤めはどうしたんだい?おや、この方は?」
「えっと・・・」と言って慌てる姜維を馬謖が手で制して、
「姜維殿のお母上、初めてお目にかかります。私は馬謖と申す者です。今日は、ご子息に重要なお話がありましてお伺いさせていただきました」
姜維の母は戸惑いながら姜維の顔を見た。姜維がそれに頷くと、姜維の母は、
「どうぞ、お入りください」と馬謖を中に案内した。その時も咳込む。
(おや、この咳は・・・、胸を病んでいる。恐らく姜維殿の母上の命は長くは無い)馬謖は多少の医術の心得がある。好奇心旺盛な彼は色々な道に興味を示し、その中には医術も含まれていた。
「失礼します」
居間に通された時に馬謖は姜維の母に手土産を渡した。
「これはご丁寧にありがとうございます」そう言いつつも表情は硬い。明らかに馬謖を警戒している。手土産を持ち姜維の母は奥に向かっていった。姜維と向かい合い馬謖は腰を下ろす。姜維は興奮した面持ちで、
「馬謖様、先ほどの続きを」
と話を促す。馬謖はそれに頷くと、
「私がここに来たのは、私の志を継ぐ者を見つけるためです。」
「志?」
訝しがる姜維に馬謖は微笑みながら、
「そう、志!民を労わる心、これこそが国の支柱であり、それを妨げるものを粛正する。先ほど伺った姜維殿の夢、それこそが志です。私はこの心を持つ若者を探すために旅に出たのです。そしてようやく出会えた」
馬謖は嬉しそうに姜維を見つめた。
「姜維殿、今の魏国では正義がまかり通らない。そうですね?」
その言葉に姜維が頷く。
「それは何故でしょうか?」
「李嵐のような奴がはびこって居るからです。」
間髪入れずに姜維が答える。
「さよう。しかし、奴のような害虫をのさばらせて居るのはその上官だ。それを辿っていくと一番上に位置するのは・・・?」
「曹叡」
姜維が呟く。それに馬謖が頷く。
「曹叡というよりは曹一族でしょう。一人ではここまで毒を撒ききれない。奴らは、害虫をばら撒きその養分を吸い取って肥え太っています。どうですか。貴方が将軍になったとして曹一族を粛正できるとお思いになりますか?」
姜維は俯きながら、
「私一人では無理だ。でも、仲間を集めればきっとできます。」
「仲間?貴方に心当たりがおありか?しかも将軍クラスでないと何の力にもなりませんぞ」
姜維は再び下を向くが、一人の人物を思い出し、きっと顔を上げ、
「司馬仲達様、彼は民を想う清廉の士と聞く。彼ならば名声・実力共に申し分ない」
「なるほど、私の耳にも司馬仲達殿はそのような男という情報が入っています・・・。が、それ故、すでに曹叡に疎まれているとも聞いています。そのような者に近づいたら、将軍になるどころか粛清されてしまうのではと思いますが?」
「・・・」
姜維が黙り込む。馬謖はさらに、
「貴方が将軍になれないとは言いますまい。それだけの才幹をお持ちだ。しかし、魏国で将軍になるためには長い年月と莫大な賄賂が必要です。貴方はそれに耐えられますか?いや、耐える耐えないではないな。それは屈伏です。それに屈伏したとき、貴方は姜維という男ではなくなっている。それを私は憂う」
姜維が黙って下を向いている。構わずに馬謖は続ける。
「我らと同じ志を持つ姜維という若者を私は惜しむ。そこでです。私の後継者として蜀においで下さいませんか?それなりの地位はお約束させていただきます」
「馬謖様の後継者、貴方の弟子になるということでしょうか?」
顔を上げた姜維の眼は輝き、先ほどの死んだような眼を微塵も感じさせなかった。
その姜維の言葉に馬謖はかぶりを振る。
「私はもうじき死ぬ。言葉通りの後継者です。」
「御病気ですか?」
「いえ、違います。私の恥になることなので、あまり話したくないのですが、貴方にはすべて知っておいていただかねばなりませんね」
そう言うと馬謖は、軍令違反の話を細かく説明した。
「なるほど・・・、では馬謖様は命がけで私を推挙するおつもりなのですね」
「そうです。私は貴方に我が命を賭けるだけの価値があると思いました。ですから是非一緒に蜀へおいでいただきたい」
「この姜維、そこまで見込まれたならば命を懸けてお供したいが・・・、私には年老いた母が居ます。女手一人でここまで育ててくれた母が。私が国抜けをしたら残していった母は、きっと捕らえられ殺されましょう」
その言葉が終わらないうちに隣の部屋から姜維の母が入ってきた。
「維や、母のことなど考えなくてもよい。」ここまで言うと姜維の母は激しく咳込んだ。
「母上・・・」
咳が収まると、母は馬謖に向かって
「失礼とは思いましたが息子の大事と聞き、聞き耳を立てておりました。お恥ずかしい限りです」
「なんの。むしろ好都合、お聞きいただいた方が話が早い」
姜維の母は丁寧に馬謖に頭を下げてから、姜維を見据えた。
「維よ。私の事は心配せずに自分の信じる道を進みなさい」
「しかし、病が篤くなる母上を一人置いては・・・」
「黙りなさい。息子の希望を捨てさせてまで生にしがみつく母だと思いか?息子の足かせになるくらいなら私はここで命を絶ちます。それすらも分からない・・・。ああ、情けない」
そういうと姜維の母はまたもや激しく咳込んだ。姜維は駆け寄るとその背をさすろうとする。
「ええい、汚らわしい。そのような女々しい男に育てた覚えはない。」
母はその手を払いのけて、姜維を睨みつける。
「我が夫、お前の父が無念の死を遂げてから私はあの世に居る夫に「良く育ててくれた」という言葉を頂けるようにお前を育てたつもりでした。しかし、一生の大事に親子の情に囚われ道を誤ろうとする。私はあの世でお前の父に会わせる顔がありません。維よ、私は死んでもあの人の元にはいけません」
そういうと姜維の母は口をおさえて泣き出してしまった。姜維は母の前に両手をついて、
「私が間違っていました。母を言い訳にして一生の大事から目を背けていました」
「維よ、目が覚めましたか?」
「はい、しっかりと」
その言葉を聞くと母は、姜維の手を取り、
「おおっ、それでこそ我が息子です。今日はごちそうを作りましょう。馬謖様もお召し上がりになって、その後お発ちになってください」
「それはありがたい。では私は旅の準備をしてまいります。直ぐに戻ってきますので、姜維殿もご準備ください」
馬謖は姜維の家を出た。
一方、飯屋から後をつけてきた男は、李嵐が肥溜め係になってからの姜維の様子を知らせるために放った男であった。意地の悪い李嵐は、打ちのめされているであろう姜維の様子を克明に知りたいがためにこの男を放った。しかし、この男は違うものを見てしまった。
(姜維が国抜け。しかも一緒に居る男は蜀の高官らしい)
この情報を掴んだ男は最初、李嵐の元に向かおうとしたが、途中で思いとどまった。
(待てよ。この情報を李嵐に持って行っても奴に手柄を横取りされるだけだ。俺には精々小金をくれるくらいだろう。それならば、奴の上官、李郁の所に持って行こう)
男は行き先を変えた。
「李郁様、壬用という者が「国抜けの情報を持って来た」と尋ねてきましたが、いかがいたしましょう」
李郁は不機嫌な顔をしていた。何故なら彼の愛妻が今朝から熱を出しているからだ。妻は高官の娘であり、大量の賄賂を贈りようやく手にした金の卵であった。その金の卵が体調を崩している。李郁は気が気ではなかった。
「何、国抜け?どいつだ」
「下級官の姜維という者だそうです」
「知らん。そんな奴に構ってられん。壬用といったか?そいつに10人も与えて捕らえてこいと命じろ」
「はっ」
副官は、10人を連れて壬用の前に現れ、
「この10人を率い捕らえよとのご命令だ。ただし、くれぐれも国抜けの証拠を確実にしてから捕らえろよ。早速向かえ」
はいと返事をすると、壬用は姜維の家に向かった。
その頃、馬謖達は母の手料理を満喫し終わり、旅の準備を始めていた。
「ではお二人ともこれに着替えてください」
馬謖は旅装束を姜維と彼の母に差し出した。母は戸惑いながら、
「私が行っては足手まとい。どうか私には構わずお二人で行ってください」
「違うのですよ。お母上が居ないと私の策は上手くいきません。私たちはお母上の湯治に行くことにします。そのための手形も用意しました。しかし、魏という国は金があれば何でもできる所ですね。蜀とは全く違う。我が陛下と孔明様は賄賂が大っ嫌いですからね。さあ、準備を急ぎましょう」
3人は関所へと向かった。役人に行き先を聞かれる。
「母の病を治すために湯治場へ向かいます」
姜維はそういうと通行手形を見せる。姜維の母は本当の病人だから疑う余地もない。役人は馬謖に目を止めた。
「見ない奴だな。こいつは?」
「こいつは薬売りでして、こいつの案内で咳に良く効くという湯治場に案内してもらいます。」
「案内役か。もうすぐ司馬仲達様と孔明の軍がぶつかるらしい。気を付けていかれよ」
そういうと役人は通してくれた。ほっとして3人は先を急ぐ。姜維の母が居るので歩みは遅いが、もう危険なところは無い。後は途中で山に入り孔明の元へ向かうだけである。馬謖は姜維と話しながらのんびりと進み、やがて漢中への道へと方向を変えた。
すると後ろから10騎ほどの騎馬がこちらに向かって来るのが見えた。
「まずい。身を隠せそうなところは?」
あいにく平坦なところで隠れそうなところは見当たらなかった。
「姜維殿、しらを切りとおすぞ」
小声で言う馬謖に姜維が頷く。すぐに騎馬隊は馬謖達の元に現れ、回りを取り囲む。
「おい、姜維。何処に行くんだ?」
馬上の男は勝ち誇ったような笑みを浮かべて問いかけてきた。それに対して馬謖が、
「これはお役人様、何用でございましょう?」
商人用の愛想笑いを浮かべて問い返す。
「おっと、蜀の高官ともあろう者が、俺のような小役人に遜っていいのかな?確か名を・・・、馬謖?」
馬謖の顔色が変わる。すると姜維が、
「壬用、何しに来やがった」
敵意剥き出しの顔で姜維が吼える。
「聞くまでもないだろう。お前たちを捕えに来た」
「理由は?」
「おいおい、しらを切るなよ。お前たちの話は全部聞かせてもらっているんだ。志だぁ~、民のためだぁ~、くだらねえことを・・・、全く反吐が出るぜ」
「反吐が出るのはこっちだぜ。日頃からてめえの李嵐に対するおべんちゃらぶりは滑稽を通り越して胸くそが悪くなっていたんだ」
「それはお互い様だ。お前の正義漢ぶりにはこっちも笑いを抑えるのに必死だったぜ」
「勝ち誇っているようだが、李嵐の所の腰抜け役人を何人連れてこようと俺には敵わないぜ」
「馬鹿め。この10名は李郁様の直属の武官の方々だ」
「なるほど、李嵐の上官である李郁の所に訴えたか。てめえにしては上出来だ」
「ぬかせ。即刻ぶち殺したいところだが、捕らえてこいという命令が出ている。皆様方、この者たちの国抜けは明白でございます。召し取ってください」
そう言うと壬用は後ろへと下がる。姜維は壬用にさらに罵声を浴びせようとしたが、騎馬からの攻撃を受けそれどころではなかった。姜維は旅人用の杖で何とか馬上からの槍を防いでいる。馬謖は逃げ回るので精一杯であった。馬謖は逃げ回りながら懐から何かを出し、それを敵へと投げつける。それは彼がこのような時のために用意しておいた目つぶし薬であった。それを喰らった敵はあまりの痛みに馬上から転げ落ちる。その槍を奪い取ると馬謖は姜維に槍を渡した。
「よし」
姜維はあっという間に3人の騎兵を突き殺した。姜維の顔が嬉々としている。
「うりゃ~」
そう掛け声を上げると次の兵に打ちかかろうとする。その時、女の悲鳴が聞こえた。姜維の動きが止まる。
「姜維動くなよ。」
そちらを見ると、壬用が姜維の母の喉元に刀の刃を当てていた。
「動くなよ。二人共だ。ゆっくりと槍を捨てろ。ゆっくりとだ」
「私に構わずやっつけなさい」
そう叫ぶ母を壬用が激しく怒鳴りつける。
「うるせぇ、ばばぁ、黙っていろ」
しかし、それに動じずに
「維や、さきほどの言葉を忘れたのかい。思い出しておくれ」
母は懸命に叫ぶ。
「黙れ」
そういうと壬用は刀を持って居ない方の手を振り上げて姜維の母を殴ろうとした。その刹那、姜維の母は、壬用の刀を持っている手を握り、力いっぱい自分の喉へとそれを動かした。
「やや、しまった・・・」
壬用の刀は姜維の母の喉を貫いていた。
「母上」
姜維が慌てて母の元に向かおうとする。それを遮ろうと一人の騎兵が前に立ち塞がった。
「どけ~」
その男を一槍の元に突き殺すと、敵は恐れをなして騎馬で逃げて行く。壬用も慌ててその後を追った。
二人は急いで母の元に駆け寄るとその体をゆすって見たが、反応は無くなっていた。
「おのれ~」
姜維は叫ぶと、敵が残していった馬に乗り、その後を追おうとする。その前に馬謖が立ちふさがる。
「どけ、踏みつぶすぞ」
いきり立つ姜維に、
「姜維、静まれ。そのまま追いかけてお前の母が喜ぶと思うか?」
「うるさい、どけ」
「どくものか。あいつらを討ったとしても何の仇討にもならんぞ。お前の母はあんな虫けらみたいなやつに殺された訳ではない。もっと大きいもの、魏という国に殺されたのだ」
姜維は槍を地面に突き刺し馬を降りると、
「貴様さえ、貴様が現れなければ・・・」
そういいながら馬謖の胸倉を掴み捩じ上げる。
「そうだ。私が現れなければ、お前の母はこのような最期を迎えなくて済んだであろう。そしてお前は毎日糞尿をかき混ぜ、死んだような眼をしている息子を見ながら憂いを抱いたまま死んだであろうな。お前の母はそれを見抜いておったのだ。全くお前には過ぎた母だよ」
それを聞いた姜維は、馬謖の胸倉から手を離すと、地面に突き刺した槍を引き抜き、大声をあげてそれを遠くに投げつけた。
「馬謖様、わかった。分かりました。俺の一生は魏を倒すことに費やす。それが民のためでもあり、母の仇討にもなる」
馬謖はそれに頷いて、
「すぐに追手が来ます。逃げましょう」
「母の骸を葬ってやりたいが?」
「埋めるのは無理です。がここに置くのも・・・。そうですね、では隠せそうな茂みに葬りましょう」
姜維が頷き、母と一緒に馬に乗る。馬謖も別の馬に乗り二人は先を急いだ。途中、格好な茂みを見つけそこに母の骸を葬った。
(母上、ご覧になっていて下さい。この姜維の生き様を・・・)
心の中で姜維は強く念じた。
その頃、逃げ帰って来た壬用の報告を聞いた李郁は、馬謖という名を聞いて非常に驚いていた。
「蜀の高官の名は馬謖というのか?」
「はい。確かに馬謖と言っておりました」
「馬鹿者、何故それを早く言わない」
「聞かれなかったものですから・・・」
首を竦めている壬用に見向きもせずに、李郁は追手の支持を出し始めた。馬謖を捕らえれば一躍大出世間違いなしである。しかし懸命の捜索も馬謖達の影を捉えることはできなかった。
馬謖達は、順調に逃げおおせ、明日は孔明の陣営に辿り着くあたりまで来ていた。
「今日はここで休みましょう。明日はいよいよ孔明様の所へ到着します。さあ、今日は私の最後の晩餐です。贅沢に食料を使いましょう」
そういうと馬謖は食料を用意し始めた。贅沢と言っても火を焚くことはできない。すべて乾燥させた肉、魚、米、果実である。
「それに・・・、少しだけ酒があります」
「おおっ、それは願ってもない」
姜維が嬉しそうに声を上げる。まずは姜維が馬謖の盃に酒を注ぐ。しかし、馬謖の杯は震えていて姜維は酒を注ぐことが出来なかった。必死で震えを止めようとしている馬謖の杯を姜維が優しく引きはがした。
「お恥ずかしい所を見せてしまいました。覚悟しているとはいえ、怖いようです・・・」
照れたように笑う馬謖に姜維が、
「死ぬのが怖くない人間など居ませんよ」
優しく言う。しばらく二人は黙っていた。やがて姜維が、
「馬謖様、今夜は語り明かしましょう。そして、貴方の想いやお考え、すべてを私の中に残して行ってください。この姜維が全力を挙げ、その想いに報いましょう。また、我が両親は先にあの世に居りますので、よくよく私からお頼み申しておきます。」
「そうですか。それは心強い。今の言葉だけで馬謖は十分に安心いたしました。さあ、それでは飲みましょう」
そういうと馬謖は盃を掴み姜維に差し出す。姜維はその盃に酒を注いだ。それを一気に飲み干すと盃を姜維に差し出す。姜維はその盃を受け取ると、今度は馬謖がそれに酒を注いだ。同じく姜維が一気に飲み干す。二人は同時に笑い出した。その後、二人は様々なことを語り合った。幼い頃の出来事やこれからの国のあり方、孔明との出会いや一緒に過ごした出来事、劉禅について等・・・。やがて馬謖が、
「いや~、語りつくしました。もうこれで後の愁いもない。いや、あと一つ。あの世に行ってから姜維殿のご両親に出会えるかどうかが気がかりです。今日はもう寝て、夢の中でお頼み申すことに致しましょう」
「はい。私も父母に馬謖様の事をお頼みしながら寝ることに致します」
「うむ、では」
「おやすみなさい」
二人はそれぞれに目を閉じた。
次に日は、鮮やかな晴れである。目を覚ますと二人は身支度を整えた。
「よし、それでは出発しよう。姜維殿よろしいか?」
「はい、いつでも」
その言葉に馬謖は頷くと孔明の陣地へと向かった。(完)




