第4話
シルフィアはその物腰の低い声音を聞き、改めて確信した。その男がクヌードで相違ないと。
「……っ姫様……ですよね?」
クヌードと思わしき騎士は顔を歪めて尋ねる。その表情の中にある忠誠と親愛は、隠しきれていなかった。
以前と変わらず自分のことを大切に思ってくれているのだと分かり、シルフィアの心は柔らかい毛布で包まれたかのように温まった。
だがそれと共に、罪を犯したはずの自分をいまだ忘れずにいてくれていたということに憐憫の情を抱く。
「あ……」
「おい、再会の挨拶なんてしてねえで行くぞ」
ディオスは現れた男とシルフィアを一瞥し、見つかってしまったゆえにその場から離れようと彼女の腕を掴んだ。
奇しくも死神と言葉が被ってしまい、シルフィアは懐かしいその騎士をただひたすらに眺めることしか出来ない。
呆然とシルフィアを見つめていたクヌードは、ディオスの言葉にはっと意識を戻す。そして、声の主を一瞥すると途端に纏う雰囲気が変わった。
「お前!!」
クヌードのその様子は、明らかにディオスの顔を知っているものだった。地響きのような怒声を上げ、腰に差していた剣を鞘から抜く。
その様子を見た死神は、ちっと盛大な舌打ちをした。
「クヌード……あなた、彼を知ってるの?」
剣呑な空気が流れる中、それを破るようにしてシルフィアは疑問をぶつける。この状況に適さないほど、彼女の声色は穏やかなものだった。そんなシルフィアに怯んだのかクヌードはふっと空気を和らげ、だが緊張しい色の混じった声を絞り出した。
「…………ええ、もちろん知っていますとも」
シルフィアは目を数度、瞬いた。その答えは彼女にとって想定内でもありながら、予想外でもあったためだ。
死神とはこうも容易く人間に知られていても良いものなのだろうか。疑問が湧き上がる気持ちを抑えきれず、シルフィアは「なんで?」とクヌードに問う。
彼女の横で腕を掴むディオスはくっと息を呑み、この状況を伺っていた。
周りの雑木林が風に揺れ、ガサガサの音を立てる。
そんな中、クヌードはシルフィアの問いに答えるよう口を開いた。
「…………その男は《死神》でしょう?だから……」
そう言った途端、クヌードは鞘から抜いたその刃をディオス目掛けて振り下ろした。だが死神はそれを軽いステップで避け、シルフィアの肩を自身の胸に引き寄せる。
「奪わせない」
クヌードは、ディオスにその刃が当たらないという事を分かっていたのだろう。虎視眈々とした様子でそう呟いた。
それに対し死神も、「俺もだ」と言って禍々しい微笑みを手向ける。その笑みは余裕綽々としたもので、クヌードは思わず眉をひそめた。
二人の尋常ならざる様子を傍目で見ていたシルフィアは、訳も分からず右往左往していた。世間知らずに育った彼女は、このような緊張しい空気には慣れていなかった。だが、下手に手を出せば面倒なことになるだろうと予想したため、黙って見守ることに決める。
「おい、死神!お前、姫様をどうするつもりだ!」
「はっ…………決まってんだろ」
ディオスはいかにも馬鹿にしたような面持ちで肩をすくめた。そんな様子にクヌードは怒り心頭といった様子で、憎々しげな顔を死神に向ける。
「貴様!」
クヌードは再びディオスに剣を振り下ろす。だが今度は彼も避けることなく、草木の茂る空気を切り裂くような高い金属音が辺りいっぺんに響き渡った。
シルフィアが彼の手元を見ると、そこには銀色の短刀が月夜に照らされ光っていた。
「……ディオスはどこから武器、出したの?」
シルフィアは様子を伺うということに徹しようと考えていたにも関わらず、反射で疑問を口にする。ディオスはそんな彼女を一瞥すると、口元を歪めて敵を見定めた。
「暗器は全身に仕込んでるんだよ」
死神はそう言ってからからと笑った。初めて彼と出会ったときのように、生の感じさせられない死神らしい笑いだった。
グレーの瞳の瞳孔は完全に開いており、まるで野生の獣が狩をする場面に出くわしたかのように思える。
戦闘という状況が、彼の底に眠る死神の本能を呼び覚ましたのだろうか。
シルフィアはここで騒ぎになるのはまずいと考えた。傍観に徹しようと思ってはいたが、やはり状況が状況だ。いつ、兵がこの騒ぎを聞きつけやってくるか分かったものではない。
自分が捕まってしまい、再び罪人の塔へと戻ってしまうことは別段仕方ないと考えていた。だが、何故だかこの死神ディオスを巻き込みたくないと考えてしまう。ーー彼には自由がお似合いだから。
「ねえ」
シルフィアが声を掛けると、ピリピリとした空気に少しだけひびが入った。ディオスはいまだ好戦的な様子を崩さないが、クヌードは気が緩んだように感じる。彼女は再び続けた。
「そろそろ行こ」
この場にそぐわぬシルフィアの発言は、二人の男の戦闘意欲を削いだらしい。
突拍子のない言葉を発する罪人姫に対し、拍子抜けした面持ちのディオスは「は?」と言いたげな顔を向ける。一方のクヌードは、困った様子で「……ひ、姫様」と口走る。
シルフィアは自身の肩を抱くディオスの服の袖口を引っ張ると、クヌードに背を向けた。そして足場の悪い道を一歩一歩と進み始めた。呆気にとられたディオスは、彼女に引っ張られるがまま歩を進める。
しかし、背中越しからクヌードの張り上げた声が聞こえた。
「姫様……!その男は危険です。早くこちらに戻ってきてください」
「…………」
「はっ。そっちへ戻ってどうする?また、あの辛気臭え塔に逆戻りしろってか?そんなこと、この罪人姫様が願うことだと本気で思ってんのか?」
ディオスが鼻で笑いながら馬鹿にするような声色で述べる。するとクヌードはぐっと息を飲み込んだ。その表情には、そんなこと俺だって分かってると言いたげな感情がありありと書かれているが、前を歩くシルフィアは気が付かない。
「クヌード…………ばいばい」
シルフィアはクヌード方を振り向かず、彼に優しく語りかけるように言った。
そして男の方を振り向くことなく、暗い雑木林の中へと歩みを進めていった。
シルフィアとディオスは草木を避けながら歩く。そんな道すがら、彼女は思いを馳せていた。
シルフィアには分かっていたのだ。クヌードは恐らく罪人の塔を抜け出した罪人姫を追いかけることはないと。何故ならーー。
『姫様…………私とともに、逃げましょう。あなたを塔に閉じ込めるなんて、私には見ていられません』
過去の記憶が頭を巡る。
クヌードはあの日、シルフィアの手を取って逃げようとしてくれたのだ。罪人の塔へと閉じ込められると決まったその日ーー。
彼は誰よりも主であるシルフィアの罪を否定していた。常に一途にシルフィアのことを考えてくれていた。だが、その信頼を裏切ったのは他でもないシルフィア自身なのだ。クヌードには、彼女を恨む権利がある。
それなのに。
クヌードの薄氷色の瞳を見た瞬間、彼はまだ自分を信頼してくれているのだと分かった。長い年月が経っても、誰よりもシルフィアの幸せを願っているのだと。
シルフィアは、自身の心が軋む音を聞いた気がした。
クヌードの優しさに漬け込み、遠回しに自分とディオスを見逃せと命令しているようなものだ。シルフィアはそのことを考え、視線を落とした。
いつの間にかディオスが隣に並び歩いていた。彼は何も言わなかった。
二人はただひたすら、周囲を伺いながら城の敷地内を抜けることを目指した。
遠くで一人、男が夜空を眺めている。
「……それが、姫様が幸せなら。私は……」
クヌードが紡いだその言葉は、誰の耳にも届かなかった。