第185話、宝くじ「お金は人を変えてしまうのよ」
大変長くお待たせしてしまい申し訳ありませんでした。
書き上がりましたので投稿します。
どうかよろしくお願いします。
そこにいつもの広樹はいなかった。
「た…から…く…じ……」
暗雲を透かせる硝子を支えにして、彼は一歩一歩と絨毯を踏む。
「たか…ら……くじ…………い…ち…億…円…」
生気を宿さない表情と不安定な歩調。それはまるで亡霊の姿を思わせ、その半開きの口からは呪言と間違われてもおかしくない曇声が淡々と漏れ出ていた。
「いち…億円……欲し…い……貰いたい……」
それは欲望。人間なら誰しも持っている欲だ。それを今の広樹は恍惚に求めていた。
「俺のだぁ……俺だけのぉ……俺の金だぁ……」
欲望には『物欲』『性欲』『金欲』と種類がある。その中で広樹が手を伸ばそうとしているのは『金欲』であり、その始まりは一枚の紙が原因だった。
「家に…帰って……早く…換金しに……行くんだ……」
それは広樹の原点。その一枚が広樹を詩織に出会わせ、戦闘学に導いたと言っても過言ではない。
そう。その一枚から広樹の危険な人生が始まった。それは疫病神ならぬ疫病紙である。
「銀行で……貰う……札束ピラミッド……欲しい……貰う筈だったのに……」
本来であれば既に手にしていた筈の光景。だが一人の女の子に邪魔をされ、そこから全てが狂い出したのだと過去が語りかける。
「詩織……あの時……あの場にいなければ……」
手に入っていた。幸せな人生を送る筈だったのだ。だが彼女に全てを見透かされ、脅迫から彼女との関係が始まり、幸せになる未来が奪われた。
「俺だけの……誰にも……渡さない……」
独占欲を露わにし、他の思考が闇へと消える。あるのは一枚の紙を手にしたいという広樹の蘇ったばかりの欲望のみ。
数秒前、数分前、数時間前、数日前の記憶を全て落として、荻野広樹は一心不乱に廊下を進む。
だが、そこに邪魔者が現れた。
響いたのは一発の銃声。広樹の脚を掠めた銃弾が、絨毯に焦げ跡を掘った。
「そこで止まれ!」
背後から聞こえた男の怒号。そこには銃口を向けて佇む一人のテロリストがいた。
「一般人か?チっ、取り逃しがいたのか」
隠れず歩いていた広樹の行動に、テロリストは油断を示さず引き金に指をかける。
「武器があれば捨てろ。そして両手を高く上げるんだ」
「…………」
「聞こえねえのか!両手を高く上げろと言っているんだ!」
二発目の銃弾が壁に撃たれ、そこに罅割れを作る。そんな誰もが恐怖する脅しにも関わらず、
「────」
広樹は震える事なくテロリストを見た。
ただジッと視線に視線を交わらせ、口から小さく呪言を漏らすだけの広樹。
そんな少年の姿にテロリストは激怒した。
「何をぶつぶつ言ってやがる!」
その銃弾は一直線に広樹の右脚へと向かい、肉を抉って血飛沫を晒す。そしてバランスを崩し、広樹は絨毯へと転んだ。
「舐めてるからそうなるんだ。さぁ、これからお前をどうするかだが…………ん?」
撃たれた脚に手を伸ばさず、依然と小言を漏らし続ける広樹。その姿にテロリストは不審を抱いた。
「おい、さっきから何を言っているんだ?テロでイカれちまったのか?」
広樹を白い目で見ながら、テロリストは銃片手に歩み寄る。そして足で腕を小突き、何も持っていないのを確認した。
「さてどうするか。連れて行くのは面倒なんだよな」
「────」
「さっきからブツブツと…」
テロリストは広樹の背中を膝で押さえ、髪を引っ張り顔を上げさせる。
「ああ…何語だ?……タカラクジ?」
聴き慣れない言語にテロリストは理解を諦め、掴んでいた髪から手を離す──その時だった。
「──お前か?」
「なっ!?」
テロリストが油断した一瞬に、広樹は銃口を掴み取る。そして突如と身体から光が溢れ出した。
「お前か……お前もか……お前もなのか……」
「くっ!このっ!なんだテメェは!」
銃を引っ張るが一向に離れない広樹の右手。それに我慢できず、テロリストは引き金に力を入れた。
火花と銃声を廊下に響かせ、放たれた銃弾が無数の焦げ跡を周囲に作る。
そして無作為に向けた銃口だが、確実に青年の身体を捉えていたのをテロリストは見た。
血と肉が飛び散り、悲惨な光景が廊下に広がる。そうテロリストは想像していた。だが──
「!?」
そこには血を流さず、平然と抵抗し続ける広樹がいた。
そしてポツリポツリと絨毯に何かが落ちる。それを見てテロリストは叫んだ。
「そ、そんな馬鹿な事があるかぁああ!」
それは先端が潰れた銃弾。その形状からテロリストは悟った。だがそれは余りにも理解し難い事実である。
銃弾が皮膚を抉れず、負けて変形してしまったのだと伝えていたのだ。
「お前には…渡さない」
「かはっ!?」
テロリストの身体がくの字に曲がり、廊下に重い音が響き渡る。男は予想していなかった一撃に嗚咽を吐き出した。
「ゴホッ!ガハッ!ゲホォ…!くっ…なんだ……いきなり……なっ!?」
そして繰り返される驚愕。テロリストの瞳に映ったのは平気な顔で立っている広樹の姿。だがあり得ない。何故ならその片脚は撃たれて使えない筈だったからだ。
だがすぐに信じられない答えが提示される。そこを見ると、ある筈の傷口がなかったのだ。
飛び散った血の痕跡も見つからず、まるで夢だったのかとテロリストを震わせる。
「……なんで?……そこに…….あるんだ?」
「っ!?近づくなぁ!この化物がぁああ!」
立てないまま銃弾を撃ち鳴らすテロリスト。だが意味はないと、広樹は避ける姿を見せずに、近づいて銃を蹴り上げた。
「なっ!?」
「返せぇ…俺の…物だ…」
広樹の右手が男の頭へと伸ばされ、
「ぇ?」
フサっと二本の指でそれを摘む。そして──ブヂブチブチブチブチブチブチッッ!!
「あぎゃああああああああッッ!!?」
大人の阿鼻絶叫が廊下に上がる。広樹が引き抜いたのはテロリストの髪の毛だった。
「俺の…俺の宝くじだ……」
広樹は色の無い瞳をしながら、嬉しそうに引き抜いた髪を見る。だがすぐに表情は消えて、真実に気がついた。
「違う……なんだ……黒い糸?……んん?」
そして広樹の瞳が再びテロリストの頭部へと向けられた。
「まだ持って……返せ……それは俺の宝くじだ」
「や、やめてくれぇ!ああああああああっっ!」
広樹の腕力に抵抗できず、男の悲鳴が廊下に響き渡る。
「また…黒い糸に……んん?……なんでまだ持っているんだ?」
「ひぃぃ!?や、やめ、ひぎゃあああッッ!!」
「違う…違う…違う…違う……なぁ…何回……すり替えれば……気が済むんだ?……早く返せ……」
「アガッァア!ヒギィいい!ギャオああ!」
「返せぇ…返せぇ…返せぇ…」
「お、俺の髪に触るなぁああ!?ひぎぃい!?」
「返せぇ、返せぇ、返せぇ…」
男の精一杯の抗いを無視して、広樹は一方的な蹂躙を尽くす。そして抜くものが見えなくなった頃には、ピクピクと痙攣する男の姿だけが残った。
「あれ?……宝くじが……紙がなくなった?」
「ァ…….ァ……ァ……」
「そうだ……宝くじ……部屋に……あるんだ」
「ァ……ァ……ァ……」
床一面に散らばった髪を踏んで、広樹は廊下へと顔を上げる。そして心を欲望で埋め尽くしながら歩き出そうとするが、背後から聞こえた銃声に脚を止めた。
「俺の仲間に何してるんだぁああ!」
「撃ちまくれぇえ!」
「仲間の仇だぁああ!」
見えたのは三人のテロリスト。それぞれが怒りを顔に浮かべて、こちらへと銃弾の嵐を引き起こした。
だがその光景を見た広樹は驚愕や恐怖を示さず、恍惚と頬を吊り上げる。そして三人のもとへと走り舞った。
「宝くじの……紙が……いっぱぁい」
床から壁へ。壁から天井へ。身体に閃光を煌めかせて、その脚で男の顔面を抉った。
「ひ、光がっ!?あがっ!?」
「返せぇ」
脚で頬を押さえながら、無造作に髪を引き千切る。
「ひぎぃいいいいいいいいッッ!?」
「違う、違う、違う、全部違う」
「き、貴様ぁああ!」
「…お前のが…本物か?」
向けられた銃口を跳ね飛ばし、顎の芯に拳を入れる。脳を揺さぶられ倒れかける男の髪を広樹は鷲掴みにした。
「これかぁ?」
「あぎゃああああああああッッ!?」
「違う、違う、違う」
草を毟るように髪を抜き続ける広樹。その光景に最後の一人が腰を抜かして尻餅をつき、その音に広樹は反応して笑った。
「寄越せぇ…俺のだぁ…俺の宝くじだぁ…」
「ひ、ひぃいいいいッッ!?」
男は取り乱して銃弾を連射する。たが広樹は怪我を負わず、背後にあった硝子張りの壁がただただ撃ち砕かれ、外気が廊下に満たされるだけだった。
剥き出しに見える暗雲を背にしながら、広樹はゆっくりと男に歩み寄る。そして笑いながら右手を伸ばした。
「俺の宝くじぃ…っ!?」
「うぉおおおおおおッッ!!」
咆哮と共に腰を掴まれ持ち上げられる広樹。その背後には毛根の尽きたテロリストが猛威を奮って立っていた。
「地獄に逝きやがれぇええええええええッッ!!」
そして豪快に投げ飛ばされ、広樹の身体は絨毯に落ちる事なく暗雲へと身を晒した。
────。
────。
「……た…から…くじぃ……」
壊れかけの豆電球。そんな光の明滅を繰り返しながら、広樹は意識を失わず芝生に寝そべっていた。
「……宝……くじ…………ゴホッ」
光が消失してから十秒。その瞬間に広樹は荒々しい鮮血を吹かせた。
「ゴホッ…………ああ……行かないと……早く……」
仄かな光が身体に蘇る。それに呼応するように、夥しかった血の跡が綺麗に消え、何もなかったように広樹は立ち上がった。
「帰るんだ……早く……家に…」
噴き出す執念。剥き出しになった欲望。
最早そこに人間性はなく、『万全到達』を原動力にして動き続ける別の何かと成り果てた。
「ぁぁ……ぁぁ……ぁぁ……」
ざわつく風。ぶつかる葉の音。暗雲が今にも雨を降らせそうに雷鳴を鳴らしている。
だがそんな優しい音の世界で、突如と轟音が耳を貫いた。
「……な……んだ?」
揺れる地面に足を取られ、その光景に視線を奪われる。風圧に襲われながら目にしたのは、凄まじい姿で空に上がる巨大な黒煙だった。
「火…事…?」
足がそこに向けて歩き出す。胸が痛い。身体が重い。息が苦しい。それらを微かに感じるも、自然と脚は歩みを止めない。
何かに吸い寄せられるように、朧げな意識がそこに行きたいと囁き続けた。
「これ…は?」
炎に包まれた世界。赤色を濁した黒煙が緑を覆い、空気を燃やし尽くしたのだと心臓が激しく鼓動を鳴らす。
「メ……メ…リル!……今…行くぞ…!」
「?」
側で聞こえた霞んだ声。そこには焼け焦げた老人が倒れていた。
「…………ない」
一瞬、その老人の頭部に宝くじの紙を見た。
だが炎に焼き消され、幻想だったのだと告げられる。
「っ!?き、君は!?」
「…………」
「まさか、この瞬間とはのぉ」
酷い火傷にも関わらず、その表情には苦痛がなかった。まるで安心を抱いているように、その瞳に笑みが溢れている。
「エリスがいないのは……いや、もう何も聞かん」
老人は微笑みながら銃を投げ渡した。
「任しても良いか?ワシはもう…………ん?」
消えそうにあった声が一転して困惑に変わる。
「な、なんでじゃ?それは紛れもなくサラの──」
身体に薄く閃く白い光。
広樹の今の姿を見て、老人は信じられないと声を震わせた。
「サラは倒れた。なのに何故、能力が続いて……っ!?まさか!君はまだ!」
導き出した真実に触れた直後、突然と突風が吹き荒れる。そして頭上に打ち上がった光の奔流に瞳を見開いた。
「もしやメリルがっ!」
「…………」
「ま、待て!君は──くっ!?」
舞い上がった土煙に広樹の姿が覆い隠される。そして視界が晴れた頃には、答えは歩き去った後だった。
────。
────。
暖かい。夢みたいな光景が見える。
あれを最後に見てから家に帰ろう。
それで終わりだ。
ああでもアレはなんだ?
花火でもなければイルミネーションでもないな。
ん?誰かいる。あれは……誰だ?
見覚えがある。だが思い出せない。
…………?
あれ?
なんであんな場所に宝くじがあるんだ?
宝くじは俺の部屋にある筈なのに。
それもたくさんある。あの女の子達は変人か?どうして宝くじの束を頭に被っているんだ?正気の沙汰じゃないな。
あの傷だらけの顔…どこかで…見たような
違う…それよりも宝くじだ…
分からない…誰だった?…名前が…メリ……分からない
それよりも宝くじだ…
いや……あれは……俺が……守りたかった誰か?
必死になって…助けようとして
黒い怪物から…助けて…
顔が…名前が…頭の中に浮かんで…
違う…それよりも大事なのは…
分からない…分からない
…………ああ……そうか
そこにあったんだ…
光っている…あの中で…あの宝くじだけが…黄金に輝いている
まるで金色の髪みたいだ
きっとあれが……
あれは俺のものだ。近づくな
お前は何に手を伸ばしている?そこに手を伸ばすのは俺だけだ
おい、お前は俺の、
俺の大切な宝くじに何をしてるんだ?
あれ?
俺は今、なんて言ったんだ?
読んでくれてありがとうございます。
これからもよろしくお願いします。