【第340話】未来への約束
「パティ……俺は、君と話すために戻ったんだ……」
目の前に立つパティーユをシリューは見上げた。
降り注ぐ蒼ざめた月の光が、彼女の姿を怪しいくらいに夜の闇へと映し出す。
「話す? 何を? 私は話す事など有りません。戻ってほしいとも思っていません」
冷たく言い捨てて、パティーユは握った短剣の切っ先をシリューに向ける。
「貴方は世界にも私にも邪魔な存在。分かりませんか? ああ、分からないから戻ってきたのね」
目の前に向けられた短剣とパティーユの瞳が、凍えるような光を同時に放つ。
「馬鹿な人、私に殺されたのを忘れたのですか? 私が何を望んでいるのか、まだわからないの?」
突き放すような声、蔑むような視線。
「パティ、それはこの世界を守るために……」
あの時、パティーユがそう言ったのをはっきりと聞いた。
彼女の流した涙も、彼女が囁いた最後の言葉も、あれは紛れもない彼女の本心だったはず。
「くっくっくっ……」
パティーユは喉を鳴らすように笑った。
「本当に馬鹿ね。私を、それほど善良な人間だと思っていたのですか?」
全てを拒むような冷たい声で尚も続ける。
「世界など、どうだっていい。私は、私が助かりたいだけ。勇者が完全な力を取り戻さなければ、私を守る事ができないでしょう?」
まるで狂気を宿したかのように、パティーユは歪に口元を歪めた。
「私はこの下らない世界よりも遥かに尊い存在。勇者は、ただ私のためだけに大災厄を打ち倒せば良い。せっかく手懐けた勇者たちに、あれこれ話されては、ねえ? だから貴方はここで、もう一度死になさい」
腕を引き、短剣を構えるパティーユ。
「本気なのか?」
シリューは真っすぐにパティーユを見据えて尋ねる。
「当然でしょう? 今度は正面から心臓を貫いてあげる。さあ、立ちなさい。それとも、このまま頭を砕きましょうか?」
「そう……」
シリューはゆっくりと立ち上がった。
「剣を抜かないのですか……」
両手をだらりと垂らしたまま動く素振りのないシリューに、パティーユは訝し気な目を向ける。
「必要ない」
落ち着き払った態度でシリューは答えた。
「馬鹿にしているのですか? 私は、邪魔者を殺す事に躊躇しませんよ」
「ああ、分かってる」
その言葉がきっかけになったのだろう。
「剣を構えなさい! 明日見僚!!」
パティーユは抑えていた感情を爆発させる。
「誰よりも尊い私がっ、虫けらにも劣るお前にっ、最後のチャンスを与えると言っているのよ!!」
激高するパティーユを前に、それでもシリューは穏やかな表情を崩さない。
「もう分かったでしょう! 私がどれほど身勝手で傲慢な女なのかっ!」
短剣を振りかざして、パティーユは叫ぶ。
「私が憎いでしょう! 悔しいでしょう! 恨みを晴らしたいのでしょう! 剣をっ、剣を抜きなさい、僚!!」
だがシリューには彼女の意図が分かっていた、十分すぎるほどに。
「全部、嘘だ」
「な……っ!?」
無防備なシリューに対して短剣を振り下ろそうとするパティーユだったが、その手は僅かに震え金縛りにあったかのように動かない。
「俺を殺したいのなら、前みたいに後ろから黙って刺せばよかったんだ。でも、君はそうしなかった……」
「だ、だからっ。チャンスを与えると言ったでしょう!」
「それも嘘」
どう足掻いても、パティーユがシリューに勝てる見込みは無い。
それはパティーユ自身、よくわかっているはず。
「まだ……分からないのですか」
パティーユはきつくシリューを睨みつける。
だが、彼女は気付いていなかった。
「分かるよ……だって、泣いてるじゃないか、パティ」
そう言われて、パティーユは初めて理解するのだった。
すぐ目の前にいるシリューの姿が、ぼやけて滲み揺れている理由を。
「わ、私、は……」
溢れた涙が堰を切ったように頬を伝い地面へと落ちる。
その涙を抑える事が、パティーユにはもうできなかった。
「あの時も、今も……その涙は嘘じゃない。君だって、十分苦しんだんだろう?」
シリューの声が、そよ風のように心を吹き抜けてゆく。
「それでも、私は……貴方、を……っ」
歯を食いしばり取り繕った仮面が、涙と共にぼろぼろと剥がれ落ちる。
「守るべき命と、すてるべき命……君は、優先すべき命を正しく選択した。日向さんたちの呪いが解けたことで、本来の力を発揮できるようになって、それで、たくさんの命が救われたんじゃないかな」
シリューがどんな表情をしているのか、涙に歪んでしまってわからない。
「それに俺も同じだよ。一度死んだことで能力に目覚めて、ほんの少しだけど、救えた命もあるんだ」
だから、恨みはない、と。
だとしても。
そうだとしても。
「私はっ……私のした事は……許される事ではありません! 許されて良いはずがありません!! どうか、どうか……私を、殺して……僚……」
縋るような眼差しのパティーユに、シリューは黙って首を振る。
次の瞬間。
かっと目を見開いたパティーユは、短剣の切っ先を自分の喉元に向け、戸惑いもせずに突き立てた。
「パティ!」
だが、間一髪。
シリューの伸ばした手がパティーユの手を掴み、僅かに皮膚を裂いたところで剣を止める。
「放してっ、放してください……私はっ、私には、貴方の傍にいる資格が、ありません。生きながらえる権利もありませんっ。私は……私が許せないっ……だからっ」
「だから、俺に恨みを晴らさせようと思った?」
「貴方には、その権利が、あります」
剣を向けて言葉巧みに煽り、咄嗟にでもシリューが反撃するのを待つ。
それで、全てを終わりにするつもりだった。
「パティ……」
シリューは取り上げた短剣を投げ捨てた。
「もういいんだパティ。神が、世界中の誰もが君を許さなくても、俺が……許すよ。俺には、その権利があるだろ?」
「僚……でも、でも……」
泣きじゃくるパティーユに言葉は続かない。
許されるなど、そんな事があって良いのだろうか。
「ただし、条件がある」
毅然とした態度で、シリューはパティーユを見つめる。
どんな条件でも構わない。
どんな罰でも受ける覚悟はある。
だがシリューの言葉は、そんなパティーユのちっぽけな覚悟さえも折ってしまうものだった。
「もう二度と自分で命を絶とうとしないこと、自分の命をぞんざいに扱わないこと、それから、この事を誰にも言わないこと、だ。いい?」
「僚……?」
一瞬、何を言われたのかパティーユには分からなかった。
じっくりと噛みしめるように、シリューの言葉を心の中で繰り返す。
「約束できる?」
そして、思いもよらぬ現実にパティーユの中の何かが弾けた。
「私、は……私は……許されても良いのですか、僚……」
地面に両膝をつき、呆然とシリューを見つめるパティーユ。
「ああ。『龍牙戦将』の俺が許す。誰にも文句は言わせない」
シリューは片膝をつき、パティユーに視線を合わせる。
「それともう一つ。俺は、これ以上君の涙を見たくない。だから、そろそろ笑ってくれないかな」
「む、無理です……私には……」
今は涙を拭う事で精一杯だ。
上手く笑える気がしないし、笑い方すら思い出せない。
「じゃあ、いつか……」
シリューはそっとパティーユを抱きしめる。
全てを包み込む優しさと温もりに、パティーユは声をあげてむせび泣いた。
泣いて、泣いて。
今までとは違う感情で心を満たし、泣き続けて。
ようやく落ち着きを取り戻したパティは、顔を上げてまっすぐにシリューを見つめる。
「一つだけ……許可をもらえますか?」
「ん?」
パティーユの目に涙は残っていても、映し出された光には一点の曇りもない。
「私は、貴方のために、貴方を守るために命を懸けます……その自由を、私に、ください」
それは義務でも贖罪でもなく、心からの望み。
当然、シリューに断る理由はない。
「わかった」
深まってゆく夜の闇は、何処までも穏やかに二人の心を癒し、満ち溢れる安らぎで過去を塗り替えてゆく。
満天の星たちが、二人を優しく包むように煌めきを放つ。
それは、いつか辿り着く未来へと向かう標。




