【第300話】沈黙
暑くもなく寒くもない。
水面に浮かぶ木の葉のように、シリューとクリスは、ふわふわと揺られ薄闇の中を漂う。
それもつかの間。
状況は一変し、見覚えのある景色たちが、次々と浮かんでは消え、激流となって通り過ぎて行く。
たった今までいた山岳地帯。
魔神との激闘を繰り広げた王都。
マナッサでの、勇者たちとの共闘。
出会いのレグノス。
再起のエラール。
「な、なんだ、これ……」
そして、始まりのエルレイン。
「シリュー、くん……?」
まるでシリューの記憶を手繰るその情景に、クリスは声を詰まらせる。
これが、ブラエタリベルトゥルバーの作る亜空間なのか。
やがて二人は、激しい光の奔流に飲み込まれる。
シリューが意識を保てたのはそこまでだった。
◇◇◇◇◇
〝僚ちゃん、起きて〟
まどろみの中に、懐かしい声が響く。
〝僚ちゃん〟
穏やかに反響を繰り返す、木霊のような優しい声。
いつの間に眠ってしまったのか。それになぜ、聞き慣れたはずの声を懐かしいと思ったのか。
「シリューくんっ!?」
今度ははっきりと耳に聞こえた。
同じ優しさの込められた、こちらも聞き慣れた声。
「ん……」
シリューの意識が徐々に覚醒してゆく。
重い瞼に抗いながら目を薄く開くと、辺りには闇が広がっていた。
どのくらい気を失っていたのか、すっかり夜になってしまったようだ。
「シリューくん……良かった、気付いたんだね」
ぼんやりとした薄明りに照らされ、目の前のクリスがほっとしたように微笑む。
「あ……」
ブラエタリベルトゥルバーの作る亜空間に捕えられ、その後……。
シリューは状況を把握しようと、首を左右に動かしてみる。
「あ、んっ、シリューくんっ、そんなに動くと、くすぐったい」
「え?」
ようやく意識がはっきりとしてきたシリューは、そこで自分が寝かされている事、そしてクリスに膝枕されている事に気付いた。
「あ、えとっ……クリスさん!?」
慌てて起き上がろうとするシリューの肩を、クリスは優しく押さえる。
「ダメだよ、そんな急に起き上がっては」
「いえ、あのっ、もう大丈夫ですからっ」
肩に置かれたクリスの手を取り、シリューはゆっくりと起き上がる。
「そうだクリスさん、ブラエタリベルトゥルバーは?」
今更ながら、シリューは自分の不甲斐なさに後悔した。
敵のエリアに捕えられながら、呑気に寝ていたとは。
だがクリスは、穏やかな表情を変えることなく、安心させるように首を振って頬を緩める。
「それが、近くには見当たらない……よくわからないけど、取り敢えず危険はないようだ」
クリスの言葉通り、周囲にブラエタリベルトゥルバーらしき気配はない。
「なかなか目を覚まさないから、少し心配したんだが……どこも、怪我はしていないようで良かった」
「はい。クリスさんは?」
「私も大丈夫。ただ……」
クリスは辺りを見渡すと、困ったように眉根を寄せた。
「いつの間にか夜になってしまったようだし、ここが何処かもわからない。とりあえず人目を避けられる場所をと思って、ここに君を運んだが……これはガゼボかな? 少し違うようなかんじだけど」
三方向を柵で囲った四角屋根、中心にテーブルがあり木製のベンチも置かれている。
「これって……たしか、東家ですね」
元の世界、美亜の通う高校近くの公園に同じものがあったのだが、それによく似ている。
「いや、まてよ……同じ物……?」
不意に記憶が蘇る。
あれは、春を過ぎて日の長くなった季節。
学校帰りに待ち合わせて美亜と二人、よく公園の東家でお喋りをした。
毎日養護施設で顔を合わせているにもかかわらず、それこそ日が暮れるのも構わず、とりとめのない会話で盛り上がっていた。
少しでも長く、今の時間を噛みしめるように。
柵の模様、テーブルとベンチの形、見上げた屋根の造り。
どれもが、シリューの記憶に残っている物と一致する。
「そんなっ……」
シリューは強い疑念を覚え、辺りを見渡した。
薄明りに浮かぶ景色は、シリューの知る公園そのもの。
薄明りの正体は、遠くの電柱に取り付けられた街灯の蛍光灯だ。
「まさか……戻って来た?」
はっきり確認するため、【暗視モード】を発動させようとしたシリューだったが、なぜか切り替わらない。
「ん? セクレタリー・インターフェイス? おい、セクレタリー・インターフェイス」
それどころか、セクレタリー・インターフェイスさえ反応がない。
「くそっ、どうなってるんだ……」
言葉にこそ出していないものの、頻繁に表情を変えて考え込むシリューを心配したのだろう、クリスはそっとシリューの肩に手を置き優しく語り掛ける。
「シリューくん、本当に大丈夫? もう少し横になっていたほうが……」
そんな気遣いの言葉すら耳に届かなかったように、シリューは空中の一点をキッと睨んだ。
「セイクリッド・リュミエール」
周りへの被害がないよう、光魔法の放ってみる。
が、何も起こらない。
「麻痺放電」
次に特殊技能を試してみるものの、やはり何も起きない。
それに加えて、ガイアストレージにもアクセスできなかった。
「これはっ……」
何かが起こっている。
ただその何かが分からない。
「シリューくん?」
「……クリスさん、魔法、使えますか?」
魔法の無い世界に生まれ、転移するまで、正確には龍脈から復活するまでは魔法の使えなかった自分と違い、元から魔法の世界に生きる住人であるクリスなら或いはと、シリューは尋ねてみる。
「ええと、うん、試してみる。火よ灯れ、アリュマージュ……あれ? ダメだ……」
その後何度試してみても、シリューと同様に魔法は発動しなかった。
「な、どうして……」
クリスは自分の両手の平を見つめ、半ば呆然とした表情で呟く。
「クリスさん、俺、どのくらい寝てました?」
「え? あ、ああ、そうだな。正確にはわからないけど、一時間くらいだと思う」
「その間、何が起こったのか……わかりますか?」
こくり、と頷いて、クリスはここまでの経緯を放し始めた。
「妙な光に包まれたのは覚えてる? そうか。その光の中を流されるような、落ちるような感覚は? 覚えていない、か」
一つ一つを確認しながら、クリスはゆっくりと続ける。
「時間の感覚も、上下の感覚も無い中を流されていたかと思ったら、唐突に真っ暗になって、闇に目が慣れたら、ここから数分程度の所に立っていた。君の姿を探したら、君は足元に蹲って、まるで死んだように眠っていたんだ……」
幸い、敵であるはずのブラエタリベルトゥルバーの姿はなく、襲ってくるような魔物もいなかった。
ただ、見た事もない街並みに違和感を覚えたクリスは、シリューを抱きかかえ、少しでも危険なさそうな場所を探して歩き回ったらしい。所謂お姫様抱っこで。
「えっと……すみません……」
騎士のクリスに、其処らの男以上に体力があるのはわかっていたものの、女性に抱かれて運ばれたという事実は、何とも言えず恥ずかしい。
クリスはそんなシリューの心情を、知ってか知らずか「ううん」と軽く首を振ってみせた。
「途中で、ブルートベアの三倍はありそうな、光る眼の魔物が何体か、物凄いスピードで通り過ぎて行ったけど、襲ってくる様子はなかったな……」
「光る眼の……?」
それはおそらく、自動車だろう。
先ほどから、遠くで車の走る音も聞こえてくる。
「それから……」
クリスはそこで言葉を切り、じっとシリューを見つめた。
「あれは、君の記憶なのだろう? 私にはまるで夢を見ているようだったけど……ハーティア殿やミリアム殿を助けて、戦っていた……それに、あれはおそらく勇者だろう?」
マナッサでの勇者との共闘は、誰もが聞き及ぶ有名な話だ。
「そして、君にそっくりな、でも禍々しい姿の誰か……」
もう一人の明日見僚であり、魔神アスラ・シュレーシュタ。
「それから……それから……」
クリスの言葉が嗚咽に変わる。
小刻みに震えながらも、涙が溢れるのを堪えるように、クリスはか細い声を漏らした。
「……君が……刺されるのを……見た……」




