【第172話】ポードレール家
ハーティアは、自分の部屋に置かれた、水を張った洗面ボウルで顔を洗い、首に掛けたタオルで拭いたあと、カートに載せられた朝食に目を向けた。
ハーティアが目覚める前に、メイドが運んできたのだろう。
時間はそれなりに経ってはいるが、トレイ自体が保温の魔法具のため、スープからはいまだに湯気が昇っている。
いつもの朝の光景。
もう一年以上になるだろうか、ハーティアは家族と共に食事をしていなかった。
一人で過ごすにはやや広すぎる部屋に、ベッドと机、壁際にはハーティアの伸長よりも高い本棚が二つ。
調度品も花さえもない、無機質で殺風景なこの空間が、この屋敷でのハーティアの唯一の居場所。
「病気がうつるとでも、思っているのかしら……」
猫科の獣人族だった母は、人族の先妻が事故で亡くなったあとハーフエルフの父に嫁いだ。
父の狙いは、エルフと獣人のハイブリッド効果による、超人の誕生だった。
だが、生まれたハーティアは、非常に高い魔力を持ってはいたものの、身体能力はごく普通の人間程度でしかなかった。これでは魔導士にはなれても、父の望む騎士にはなれない。
「私は、失敗作だから……」
その母も5年前、ハーティアと同じ病気で亡くなった。
「ポードレール家の……お荷物ね……」
それが、ハーティア自身の認識だった。
ハーティアは、昨日の父親へ帰還の報告にいった時の事を思い返す。
「父さま、只今戻りました」
父親の執務室で、ハーティアは執務机の向かいに立ち、椅子から立ち上がりもしない父のクラウディウスに頭を下げた。
「ああ、そうか……」
クラウディウスは、ハーティアの顔を覗き込むように凝視し、感情のこもらない声で言った。
「今日は、顔色がいいようだな」
「はい、ありがとうございます。レグノスでニーリクス先生に頂いた薬が効いているようです。ご迷惑でしょうが、もう暫く生き長らえそうです」
ハーティアの言葉に、クラウディウスは、ちっ、と舌打ちをし、苦虫を噛み潰したように表情を歪めた。
「いつまで、冒険者など続けるつもりだ」
「……死ぬまで……でしょうか、そう長くはないと思います。ですが、父さまにも、勿論ポードレール家にも、けっしてご迷惑はお掛けいたしません」
実際、ハーティアは、学費も研究費も冒険者としての報酬で賄っていた。
クラウディウスは諦めたように大きくため息を零す。
「分かった……好きにしろ」
「はい。我儘を聞いてくださり、ありがとうございます」
「お前はっ……」
眉をひそめるクラウディウスの目に、僅かに憂いの光が宿る。
「もういい、下がりなさい」
「はい、父さまの手を煩わせてしまい、申し訳ございません……」
ハーティアはゆっくりとお辞儀をして、ドアへと向き直った。
ノブに手を掛けドアを開こうとした時、クラウディウスが呼び止めた。
「ノエミ……」
クラウディウスがその名で呼んだ事に、ハーティアは少しだけ違和感を覚えた。
「……いや、何でもない……」
ハーティア・ノエミ・ポードレール。
ノエミは、母親がつけたミドルネーム。
そして母親が生きていた頃、クラウディウスは当然のように『ノエミ』の名で呼んだ。
〝『ハーティア』に変わったのは、母さまが死んでから、だったかしら……〟
その後、ハーティアに母親と同じ病気が見つかって以来、クラウディウスは笑わなくなった。
〝父さまは、何を言おうとしたのかしら……〟
結局、昨日はそのままクラウディウスの執務室を後にした。
「出来損ないの死にぞこないなんて、父さまには目障りね……」
ハーティアは、自嘲的な笑みを浮かべて首を振った。
それから、一人きりで食べる味気ない朝食を終え、簡単に身支度を済ませて部屋を出た。
二階の廊下から一階のフロアに至るまで、一人の使用人にも出会わないのは、彼らが示し合わせてハーティアを避けているのだろう。それもいつもの事だった。
「ハーティア!」
玄関のドアを押し開けた時、フロアの奥から呼び止める声がして、ハーティアは半分開いたドアをそのままに振り返った。
「エドワール兄さま、おはようございます」
近づいてきたのは、ポードレール家の嫡子で母違いの兄、エドワールだった。
「ああ、おはよう」
白い歯を覗かせにっこりとほほ笑みながら、エドワールはハーティアの頭越しに玄関ドアに手を掛け押し開いた。
「どうぞ、わが姫」
「ありがとうございます、騎士様」
エドワールは二十三歳で、十八歳の頃から王国騎士団に所属している。そして、この家で唯一、いやもう一人の兄エルネストも含めて二人だけは、ハーティアを避けるどころか、過保護なくらいに甘やかしていた。
「丁度よかった、途中まで一緒にいこう」
「途中、と言っても、門を出て曲がり角まで、ほんの二分ですけれど」
「ゆっくり歩けば五分だ」
通りに出て二人並んで歩く。
「まずは、無事な顔を見られて安心したよ」
一般人には知らされていないが、ハーティアたちのキャラバンが災害級に襲われた事は、冒険者ギルドは勿論、騎士団にも伝えられていた。
「ありがとうございます」
ハーティアはこくんっと頭を下げた。
「父上には、報告を?」
「はい、昨日のうちに」
「……なにか言ってたか?」
「いいえ、何も。でも、私が冒険者を続けるのが、迷惑な様子でした」
「迷惑……ね……」
エドワールは何か思うところがあるのか、腕を組み空を見上げる。
「なあハーティア……もうそろそろ、一緒に食事をしたらどうだ……」
「父さまが、嫌がります……私は、出来損ないだから……」
「君が出来損ないなら、俺や弟のエルネストも、ついでに親父も十分出来損ないだよ」
エドワールは優秀な騎士だが、国で一、二を争うほどではない。せいぜい全騎士の一割に入るかどうかというところだ。
弟のエルネストに至っては、学業に優れてはいたが騎士としての才能はなく、今は家を離れ医者を目指し勉学に励んでいる。
「親父の『鳳翼闘将』も、ただの名誉職だしな」
数百年前。大災厄の際に勇者と共に戦い、その危機を救った英雄として『鳳翼闘将』の地位を国王より賜ったのが、ポードレール家の始まりだった。
ポードレール家の者の多くは他を圧倒する高い魔力と身体能力で武勇を馳せ、男女に関係なく、何代にも渡り勇者と並ぶ英雄を輩出する名門と称された。
「親父も爺さんも、その先代も、普通より少しだけ優秀という程度で、英雄とは程遠い。堕ちた鳳凰、燃え滓の鳳凰、張子被りの鳩……ポードレールを揶揄する言葉には事欠かないよ」
クラウディウスの望みは、英雄ポードレール家の復興。
だがそれは、ハーティアたちの代ではかないそうになかった。
〝騎士にもなれない、まして病気で長くないとなれば何処かに嫁ぐ事もできない……父さまにとっては、ただ目障りなだけの存在……〟
ハーティアは、自分が何の期待もされていない事を、十分すぎるほどに分かっていた。
「親父が嫌がる……か……」
溜息交じりに零したエドワールの独り言は、ハーティアには聞こえなかった。
「ところで、わが妹よ」
エドワールは場の空気を変えるように、わざとらしく仰々しい声で言った。
「何でしょう?」
「一度くらい恋人を家に連れてきたら、兄としては安心なんだがね?」
「おりません、ですので、連れてきようがありません」
ハーティアは無表情に答える。
「うーんそうか……それは、残念だなぁ」
「残念ではありません」
エドワールも、ハーティアの病気の事は知っている。だが、彼はその事をまったく気にする様子なくハーティアに接していた。
そんな話をしているうちに、曲がり角に辿り着いた。
「なあ、ハーティア」
別れ際、エドワールが思い出したように振り返った。
「家の事も、親父の事も、気にするな。君は君の自由にやればいい、楽しめばいい」
「……楽しんで……いますよ」
それは、ハーティアの本心だった。
堅い、重い話はあまり得意ではありません。
ですので、さらっとこのくらいで。
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