【第164話】いつか……聞かせて
窓から望む薄闇色の空がすっかり青に染まり、地平線の下から差し始めた陽光が、白い雲を明るく照らしくっきりとコントラストを描いてゆく。
恵梨香は、窓の外を一望した後ハンガーから外した上着に袖を通し、ちらりと姿見の鏡に目をやって襟元を正す。
ドアを開けて廊下に出ると、同じように部屋から出てきたほのかと目が合った。
「おはようございます、ほのかさん」
「おはよう、恵梨香ちゃん。直斗君はもう起きてるかなあ?」
「昨日話しておきましたから、もう準備できてると思いますけど、問題は……」
恵梨香が廊下の奥に目を向けたのと同時に、一番奥のドアが開き直斗が顔を見せる。
「おはよ、あれ、有希は?」
「さっき声は掛けて、返事はありましたけど……」
二度寝してなきゃいいけどな、と直斗が笑って、向かい側のドアをノックした。
「はいはーい、ちょっと待って、今いくから」
ドアの向こうで、いかにも寝起き、といった有希の少ししゃがれてテンションの低い声が答える。しばらくして出てきた有希は、ぼさぼさの髪を手で撫で付けながら、半分しか開き切っていない目を直斗たちに向ける。
「ねえ、やっぱりあたし寝てていい?」
「ダメだ」
直斗がぴしゃりと言った。
現役時に朝練のあった直斗とほのかは勿論、日ごろから規則正しい生活を送っている恵梨香も朝は早い。その三人に比べ、少々夜型の有希は朝が苦手で寝起きも悪い。
「お前さ、いい加減自分で起きられるようになれよな」
「うるさいなあ、あたしには恵梨香姐さんがいるからいいのっ」
小学校の時から変わらない直斗と有希の朝の風景に、恵梨香もほのかも、ここが異世界である事を忘れ、顔を見合わせて笑った。
「それじゃあ、いきましょう」
ぴんと背筋を伸ばして階段へ向かう恵梨香の隣に直斗が並び、のろのろと歩く有希の背中をほのかが押して後に続く。
「ほら、はやくはやくっ」
「ち、ちょっとほのかっ、階段っ、押さないでってば」
「二人とも、朝早いんだから、もうちょっと静かにしろよ」
楽しそうに騒ぐ有希とほのかに、直斗が口元に指を当てて振り返る。
「これは皆様、おはようございます」
一階のフロアに降りた時に、ちょうど出口付近にあるのレストランのドアが開き、出てきたパティーユと鉢合わせになった。
「あ、姫、とエマーシュさん。おはようございます」
パティーユの後でエマーシュが深々とお辞儀をし、それに倣って恵梨香たちも丁寧に朝の挨拶をする。
「随分早いですね?」
直斗がパティーユに尋ねた。外は明るくなっているがまだ日は昇っておらず、レストランも営業前で明かりも灯されていない。
「ええ、朝のお散歩でもと思いまして。その前に少し我儘を言って、お茶を頂いていました。皆様は?」
パティーユが優雅に笑って首をちょこんと傾けた。
「朝食前に人を探そうと思って……恵梨香」
直斗は振り返って恵梨香に続きを促す。
「昨夜、旅の商人から聞いたのですが、どうやらこの街に『深藍の執行者』が来ているらしいです」
「それは……報告書にあった、シリュー・アスカという冒険者ですね?」
パティーユの問いに、恵梨香がゆっくりと頷いて続ける。
「その商人のキャラバンが、途中魔物の群れに襲われたのですが、その時彼は、たった一人で災害級のオルデラオクトナリアを瞬殺したそうです」
「オルデラオクトナリアをたった一人で? そんな事が可能でしょうか……勇者である日向様ならともかく……」
たとえAランクの冒険者であっても、災害級を一人で倒すのは常識的に考えて不可能だ。だがもし、それを可能にする者があるとするなら、異世界からの召喚者である事も十分考えられる。勿論、その方法は不明だが。
パティーユはふと、昨日街ですれ違った人物の顔を思い浮かべた。
“ 彼が、シリュー・アスカ? ”
「……ほんとうだとすれば、それは日向様と同等の実力者……という事になりますね……」
パティーユの後ろで腕を組んだエマーシュが、眉根を寄せて誰ともなしに呟く。
「てか、あのアリゾナ・コルトだって相当強かったし、結構いるんじゃないのかな、俺と同等のやつなんて」
直斗は、同意を求めるように有希たちを見渡した。
「うん……たしかにそうだよねぇ」
ほのかが頬に指をあててこくんっと頷く。
「それさあ、同一人物、って事は?」
「でも、髪の色も長さも違うだろ。シリュー・アスカの髪は黒っぽかったって言ってたし、あの銀の髪ってかつらには見えなかったぞ? それに、冒険者ならなんで顔を隠すんだ?」
有希の疑問はもっともだったが、特徴も大きく違う。それに、成功を収め名声を得る事が冒険者たちの目的の筈で、そもそも顔や正体を隠すメリットがない。
「とにかく、会ってみましょう。宿も分かってますから」
恵梨香が、ここで話していてもしょうがないとばかりに、踵を返し出口に向かう。
「あの、皆様」
ドアを開けて出て行こうとした四人を、パティーユが思い立ったように呼び止めた。
「私も、ご一緒して構いませんか?」
パティーユは、にわかに真実味を帯びる疑念を、自分の目で確かめたかった。
たとえそれが、自分の心と命を残酷に引き裂く結果になったとしても。
“ 僚……あなたなの……? ”
「なあミリアム……」
シリューはヒスイを肩にのせたまま、真っ赤な顔で瞳を潤ませるミリアムに背を向けベッドの端に腰掛けた。
「はい……?」
見るつもりではなかったが、どうしても目に入ってしまう。少し動く度にふるふると揺れるミリアムの……。
シリューは妄想をかき消すように頭を激しく振った。朝から刺激が強すぎる、このまま放っておくといろいろヤバい。
「とにかく、服、着ろよ」
「みゅっ」
自分のとんでもない姿に気づき背筋を正したミリアムは、ばいんっと弾んだメロンを両手で抱えるように覆って、零れそうな自分の胸元と、ベッドの脇に腰掛けたシリューの背中を交互に見比べる。
〝またやってしまった……〟
そもそも、今更隠す事にどれくらいの意味があるのか、なんとなく疑問に思いつつミリアムは首を捻る。
「はあぁぁぁぁん……」
甘い響きの混じった溜息が無意識のうちにミリアムの唇から漏れた。
「ミ、ミリアムっ?」
シリューは思わず振り返りたくなる衝動を、必死に抑える。
「あ、わわわ、ご、ごめんなさいっ、何でもないですぅ」
咄嗟に片手で口元を押さえたミリアムだったが、どうしてあんな声を出したのか、自分でもよく分からなかった。
それから、布ずれの音と軋む音をたてながら、ミリアムはそそくさとベッドに散らばった服を集める。
「えっと……あれ? やんっ、ブラが……あ、あった……」
「ミリアムっ」
「はいっ」
「黙って着ろっ」
「はいぃ……」
着替える時にぶつぶつと独り言を呟くのは、ミリアムの少し子供っぽい癖だった。
「あ、シリューさん」
何を思ったのか、ミリアムは手を止め悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「ん?」
「見ても……いいですよ?」
「う、うるっさいっ! さっさと服着ろっ。置いてくぞ、この残念変態神官娘!」
明らかに揶揄われていると悟ったシリューは、ミリアムに背を向けたまま毒を吐くが、動揺を隠しきれてはいなかった。
「シリューさん、かわいいっ」
当然、それはミリアムにも筒抜けだった。
「お前っ……」
襲うぞ、と言いかけてシリューは言葉を呑み込む。結局逆手に取られて、いいように揶揄われたのはつい最近の事だ。
「襲います? 今から? じゃあパンツもぬ……」
「うるさいっっ」
完全に手玉に取られていた。
シリューはミリアムに背を向けたまま、薄く開いたカーテンに目をやる。窓の向こうには青空が覗き、宙を漂う埃に昇り始めた日の光がきらきらと反射する。
「シリューさん、すぐ出発しますか?」
「そうだなぁ、朝食の後でいいだろ」
それまで背後で聞こえていた、忙しない衣擦れの音が止み、お互いの息遣いも聞こえるほどの静寂が部屋を包む。
「あの……シリューさん……」
「ん?」
手を休めたミリアムが、しんみりとした声で囁いた。
「いつか……話してくれると嬉しいです……」
今はまだ、それだけを言うのが精一杯だった。
聞きたい事は山ほどある。それでも今は、まだその時ではないとミリアムには思えた。
「……そうだな……うん。いつか……聞いてくれると、嬉しい……」
〝貴方の傍には、貴方を救う者たちがいます〟
激痛の最中に聞こえたあの声。
彼女の言葉を信じるなら、その一人はミリアムだろう。いや、ミリアムであってほしいと、シリューの心は望んでいた。
「いつか……きっと、話すから。それまで……」
「はい。どんな時だって、私はシリューさんの味方です。言いませんでしたっけ?」
「え? どうだっけかな……?」
ベッドを軋ませながら、ミリアムがシリューの背中へと寄り添う。
「シリューさん」
振り向いたシリューに、ミリアムはそっと、そしてふんわりと触れるくらいに優しく、透き通るように淡いキスをした。
「これがその証しよ、忘れないで」
ミリアムは薄っすらと頬を染め、悪戯っぽい笑みを浮かべて上目遣いにシリューを見つめる。
「さ、ほらっ。朝ごはん、食べにいきましょ♪」
「ミリアム……」
すとっ、とベッドを飛び降りたミリアムを見つめ、シリューは唇に手を添えた。




