バイカル湖
昭和二十一年六月七日
未明出向。船は北へ北へと進む。
嗚呼!
矢張り帰れないのだ。
もう此処まで来たら終りだ。「生かすとも殺すとも、どうにでもしてくれ」というのが皆の心境だ。
三合里以来今日まで何度も、"ヤポンスキー スコーロ 東京 ダモーイ(日本人は近いうちに東京へ帰る)”と言われて、本当に信用していた訳ではないが、心の隅に、或いは本当に帰されるかも知れないと思う希望の入った気持があった。しかし今こそロスケの大嘘つきが明確になった。
昭和二十一年六月八日
船はポセットの港へ入った。マダム連中が二十人程大声で、”ヤポンスキー ハラキリ ハラキリ”と言いながら私等の上陸を見ていた。
三キロ程歩くと大草原に一大捕虜収容所がある。鉄道を境にして北側にロスケの幕舎が三十位並び、南側には日本人捕虜の幕舎が見渡す限り続いていた。
今夜は幕舎もなく,北斗七星を頭上に見ながら寝た。
昭和二十一年六月九日
各人の毛布を縫い合せて幕舎を作る。ここに四万人位いると聞くが、側には細い水道が二本あるだけで、炊事用の水は遠方の川まで、馬車にドラム缶を積んで汲みに行くと聞き、私等は早速井戸掘りを始めた。しかし、粘土の層が深くなかなか水が出ない。
昭和二十一年六月十二日
幸い高熱も出ず、全快したと思われるが、毛布の幕舎では雨漏りが多く寝ることも出来ない。
昭和二十一年六月十七日
内地の入梅のように毎日毎日雨が降る。
炊事用の水汲みと薪割使役がよくあった。糧秣は案外よく油飯とパンとメンタイが多く出た。
全員注射をするといわれて、往復四キロ程の場所へ行き、馬に使うような太い注射器で随分乱暴な打ちかたをされて帰った。
昭和二十一年六月二十四日
二回目の注射と天候不良のためか、病人が多く出た。入室患者の話では、看護婦のサービスが良いので、言葉は通じなくても、全く不自由しないらしい。
昭和二十一年六月二十九日
夜十時頃か、照明弾を盛んに撃ち上げる。脱走兵を探しているのであろうここまで来て何故逃亡したのか。うまく逃げとおせれば良いが、と心配になる。
この辺はウラジオストックから約百キロ南西で、ソ連、満州、朝鮮の国境に近いと聞く。
昭和二十一年六月三十日
ロスケの話によれば昨夜の照明弾は、矢張り逃亡者を探すためであった。
五名の内三名が射殺され、二名は捕えられたそうだ。この二名を探すのに飛行機も使用したという。
昭和二十一年七月七日
ポセット出発は支那事変の始まった日であった。丘の上で装具検査が始まった。幾度も検査しているので、ロスケの欲しい品も無いだろうと思っていたが、ジャープ、ローソク、鏡等を捕虜から取り上げ、将校まで入って奪い合いの喧嘩をしている。馬鹿々々しくて捕虜の我々が呆れてしまう。この日、終戦直前に事故で死亡した戦友の遺骨を持った者に対する検査は実にきびしく、骨箱の中まで調べられた。火葬を知らないロスケには話しても判らないようである。
三合里以来の大隊も半分位に分散した。同年兵の山本は本部付のため別れる。
六十トン貨車に八十名も乗り、暑くて困っているというのに、扉を閉め表から施錠されてしまった。
昭和ン二十一年七月八日
昨日は携行食と水筒一杯の水があったが、今日は水も飯もない。汗を出し出し一日断食となった。
昭和二十一年七月九日
今日から朝、夕二回、食事分配が始まる。この時ロスケが点呼をとった。点呼はどうでもいいが、貨車の扉は少しでも永い時間開けておきたいのでいろいろ考え用事もないのに話しかけることにした。
飯はカビの生えた黒パンと籾の1杯入っている燕麦だ。水は停車の際、時間があれば汲ませるという。
昭和二十一年七月十一日
ハバロフスク着。日ソ開戦の場合は真先に占領する筈であった此の地へ、今は捕虜としてやって来た。
昭和二十一年七月十五日
バイカル着。世界一深いと聞いているバイカル湖、海と少しも変らない。既に先客が通ったらしく、湖畔に日本人の大便が並んでいた。洗濯と水浴のための停車である。
水浴中、目がだんだん見えなくなり、急いで浅瀬に戻り坐り込んでしまった。真夏の太陽が輝く朝の十時頃だというのに,僅か一分か二分間くらいの間に、夕暮のように暗くなってしまい、慌てて眼をこすって見たが、いよいよ見えなくなってしまった。今日まで貧血になったこと等一度も無かったので驚いた。
深い所で泳いでいたら多分水死していたと思う様な事故であった。
大平原のシベリヤも、このバイカル湖畔に至ると山も多く,大小三十個程のトンネルもある。
列車は湖畔だけで十二時間位走った。
先程拾った紙に歌が書いてある、誰か朝鮮で書いたものと思われる。
・此の林通り抜ければ我家と
振り返りつつ追われ行くなり
・この海の彼方に母の師走かな
昭和二十二年七月二十二日
最近昼間が長く朝三時頃には明るくなり、夜も十一時頃まで明るい。
点呼の時ロスケの兵隊が、”間もなくモスクワに着く”と言うので、「私等を何処まで連れて行くのだ」と聞いても、”ヤ ニェズナーユ (俺は知らない)”と言う。