東京 ダモイ
安城じいちゃんは車が好きな人だった。
日産のブルーバードを何代も乗り継ぎ、黒光りするくらいにいつもピカピカだった。
家の車は触るとザラザラしたが、安城の車はいつもツルツルだった事が印象に残っている。
ただ、安城じいちゃんの運転する車に乗ったことはほとんどなく、一度だけ安城市役所の近くの動物園に連れて行ってもらった事があるだけだった。
手をつないで見た動物園の鹿と、じいちゃんの車の匂いは、なぜか思い出深く、時々夢にみるのだった。
◇◇
昭和二十一年二月十四日
七時集合また港行きだ。今日は満州から来た銅や鉛等を満載した貨車の荷を船へ積込む。昼食は持って来たが、ロスケが早く早くと追い使うので、ヘトへトに疲れて帰った。
昭和二十一年二月〜三月
この頃、港作業の他にロスケの兵舎、官舎の清掃作業もあり、毎日千人以上の者が使役に出た。生野菜を全然食べないため壊血病患者が多く発生した。そこで薪取りに出た者は青松葉を持帰り、細かに切り飯とまぜて食べた。重症患者は松葉を絞り、青い汁を飲むように言われた。
昭和二十一年四月十一日
今日の作業は米俵の積込だ。港の倉庫には数万俵もあろうかと恳われる米俵の山。この米を三千トン位の船へ積むのだ。
内地では米が無くて困っているだろうに、朝鮮の米は全部ロスケが持って行く。
そしてこの手伝いをしなければならない情なさ。
私は船倉へ入り俵の整理をしたが、空腹のため生米を食べたのは初めての経験であった。
昭和二十一年四月中旬
四月も半分以上過ぎたというのに、いつ帰れるのか全く不明のため,同年兵で逃亡の相談をするようになる。その第一歩として私は隊長当番を断わってしまった。人情隊長故に悪いとは思ったが、理由を聞かれても何も話さなかった。
春風が吹き始め、使役も三日に一度位となると退屈しのぎに、種々遊ぶ事に熱が入った。
野球と相撲は中隊対抗から、大隊対抗のリーグ戦までやり、賞品には煙草が出た。
麻雀は誰が思い付いたのか、各部屋の戸の桟を小さく切り牌がつくられた。これが流行してどの部屋の戸も桟が満足に揃ったものが無くなった。囲碁、将枇、花札、トランプ等、全部手製で各部屋とも遊ぶことに一生懸命である。将校室では句会も開かれたので時々参加した。
コックリさん(占いの一種)を呼ぶのが流行したのもこの頃のことだ。
毎日1回ある女医の巡視の時間には皆、雛人形の様に坐った。誰を裸にして、シラミ検査をするか判らない。入浴は1週間に一度であるが、三百人程が1度に入れる大浴場があり、水道も自由に使えるので、余程の不精誉でない限りシラミは居らなかった。
・猫柳たむけて英霊に春を告げ
・春風に変りはなけど柵のうち
昭和二十一年四月二十九日
天長節の今日、各中隊毎に遙拝式が行われた。夕方から柵外に3メートル間隔位にロスケの兵隊が立った。平素は四隅の望楼に四名なのに今夜はうようよいる。
「何事か?」と聞くと”日本人は何時もミカドのことを考えているから、今夜は何を始めるか判らない、危いから歩哨を増員した"という。
私等はロスケの馬鹿野郎と笑っていたが、彼等は本気で考えていたようである。
昭和二十一年五月二十日
十六大隊の火事。朝の点呼最中に、二階から出火、僅か二、三十分で全焼してしまった。原因は漏電と判り、送電を止められ今夜からランプ生活となる。
雨降りでも雪降りでも、毎朝夕、ロスケの点呼は、一時間から二時間位かかった。頭の悪い奴が四千名を数えるのだから無理もないが全く嫌になってしまう。
これも、元をただせば十七大隊から逃亡者が出た事から始まったことだ。
一人は成功したようだが、次の者は柵の側で望楼の兵隊に射殺され、続いて一人は足を撃たれて病院へ収容されたと聞いた。
昭和二十一年六月四日
発熱のため舎営本部の病室へ入ることになってしまった。四十度位の熱で寒気を感じた。軍医は、”マラリヤ"だと言って、キ二ーネを飲ませてくれた。
昭和二十一年六月五日
熱は三十八度五分まで下ったが、食欲が全く出ず、終日寝て居た。
昭和二十一年六月六日
”ヤポンスキー 東京 ダモイ”とロスケの兵隊が大声で何回も言っている。
十時頃命令が出て昼頃出出発らしい。朝から港へ作業に出でいる者、放馬に行った者もいる。ロスケの命令はいつも不意に出るから困る。
炊事では早速携行食を炊き始めたが、整列時間に間に合はず、そのまま放置した。
大隊命令では入室患者の私達は残留と定められたが、藤宮中尉が私のことを「少しは無理でも連れて行く」と頑張ってくれたお蔭で、元七四部隊の者と行助を共に出来るようになった。装具は戦友に頼み、ふらふらの身体で港へ向った。
二日前の高熱の日ならば残留と定ったであろうに有難い。昨年暮に帰るといって三合里を出てから六ヶ月。この半年年ロスケは本当に内地へ帰すのだろうか。それともどこかへ連れて行くのだろうかと誰に聞いても判らず、<コックリさん> にも度々尋ねて見たが判らなかった。
しかし、いよいよ判明する日が来た。
ロスケは”ヤポンスキー 東京 ダモイ ハラショー”を連発しているが果たして本当か?
将校には三合里収容所へ入る時に取り上げた日本刀を渡し帯刀が許された。これを見て間違いなく帰れるという者が相当いた。
午後七時頃か、乗船完了。三千トン級の貨物船に四千名近い者が乗り、むせかえる様な船倉へ入った為にふらふらとなる。
ロスケは乗船直後に将校の日本刀を全部没収した。船中の落書「この船は内地へは行きません。ソ連領の一寒村ポセットヘ行きます」先に興南を出発した者が書き残したのであろう。