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帰還命令

2018年7月8日 誤字、変な改行を訂正。

私が小学校5年の11月 父方の祖父が死んだ。

病気はあったが、突然の訃報であった。急いで愛知県に向かう。つい夏三ヶ月前にあった祖父は、眠るように横たわっていた。

 父は喪主を努めていた。忙しそうだと子供心に思った。

 出棺し、焼き場に着く。最後の別れをすませ、待機室へ。

大人たちはそれぞれ思い出話に花を咲かせる。子供はやることがない。

私は将棋盤をみつけ、一人で遊んでいた。そこに現れたのが安城じいちゃんであった。

「おまえ出来るんだろ、じいちゃんに教えてくれ」

私は幼稚園の頃から父の友達と将棋をしており、年の割には強い自負があった。

流石に年の離れた兄には始めは勝てなかったが、次第に私が勝つようになると将棋で遊んではくれなくなった。

安城じいちゃんはルールが曖昧な用で、時々駒の動かし方を忘れていた。教えながらやっていると、私が勝った。

「わかったぞ!!まあいっかいだ!!」

二回目の対局は長引いて、安城じいちゃんが勝った。私は楽しくなった。

「じいちゃん、もう一回やろう!」

と言ったが、じいちゃんは

「時間だ。行っといで」

と、駒をしまった。

「何処に行くの?」

「骨拾ってくるんだよ」

背中を優しく押された。なぜか優しそうな安城じいちゃんの顔が印象的だった。


◇◇


昭和二十年十一月十日


寝ているところを突然起こされた。何事かと聞くと、 両日中に東京へ向かい出発するから全員散髮せよ、とのロスケの命令だという。” 待ってました。帰るのは一日でも早い方が良い"と薄暗いランプのもとで、散髪と髭そりを始めることになった。夜中11時頃のことである。


昭和二十年十二月十九日


待ちに待った帰還命令だ。夕方六時発表で”明朝七時迄に収容所門前の広場へ整列せよ、というのだ。三日分の糧秣を全部握飯にするため、徹夜仕事となるも帰れる嬉しさに一同張り切っていた。


昭和二十年十二月二十日

五時頃には幕舎もはずし清掃完了。六時三十分集合終る。七時から装具検査が始まった。八時半頃平壌駅へ向い出発。空は鉛色で小雪がチラチラするも、皆元気一杯だ。


・外衢を遠く離れて平壌へ

 今日の嬉しさ如何にたとえん


夜、貨物列車に乗り込む。三十トン貨車へ六十名乗ることになった。


昭和二十年十二月二十一日


平壤駅発。しかし2日過ぎても3日過ぎても目的地成與港に着かない。

理由は朝鮮人の機関手も不馴れであろうが、石炭が無い、水が無いといって、駅毎に

半日も一日も停車しているからだ。

この分だと何日港へ到着するのか全く不明である。正月迄に内地へ帰れると喜んで

いた一同も断念せざるをえなくなった。


上弦の月は冷く貨車の窓


昭和二十年十二月二十八日


やっと興南駅着。道路はつるつるに凍っている。”船が入港するまで”といわれて元日本窒素の社宅に入った。私達上り先に三合里を出発した大隊もまだここにいた。

一棟一個大隊のため、4棟で四千名いる訳だ。部屋の割当があり、六畳一間になん

と二十四名寝ることになった。

それでも三合里と違い、畳の上で電灯もあるので気分は良かった。


昭和二十年十二月二十九日


早速炊事用の薪取り使役が出る。三合里では水と便所に困ったがその点は有難い。水道はいくらでも使え、大きな入浴場もあるそうだ。

正月も三合里より余程気分がよいと慰め内地の正月はあきらめた。

将校室は昨夜寒くて寝られなかったということで,今夜から当番の私達四名。将校室で寝ることになった。毛布が一人一枚なので四人行けば八枚になるから暖かくなるからである。


昭和二十一年元旦


各中隊ごとに遥拝式を行なう。終戦後初めての正月、浦和にいる親父や兄姉はどのような正月を迎えたであろうか。また大連の兄弟はどうしているであろうか。

私が朝鮮で元気に正月を迎え、畳の上で牛飯を食べていることは知らせることも出来ないが、皆元気でいてくれと願う。


・清らかな水屠蘇までも有難く


昭和二十一年一月三日


今日薪取り使役から帰った者の話によれば、向うの山麓に内地人が大勢いる。食糧が無いため毎日多数の死者が出る。みんな栄養失調で、死人を埋める穴を掘る元気な者がおらず、雪だけ掘って死体を入れ、雪をかけて帰るということであった。

地方人は終戦以来、私達の想像以上に苦労しているようだ。

私達には食糧の支給があるので餓死するような事はないが、地方人は誠に哀れである。


昭和二十一年一月十三日


今日病人の代りに薪取りに行き、内地人の葬列と会った。葬列といっても、スコップ左担いだ者が四名、戸板に乗せた死者を運ぶ者が両側で八名、男ばかりである。

死者の膝から下が見えていたが、骸骨が皮を着ているように見えた。

運ぶ者も死者と余り変らないような身体をしていた。

敗戦のためにこうして故郷を夢に見つつ異国の土になった日本人の犠牲者はどの位いるのであろうか。


昭和二十一年一月十五日


興南へ来て今までの使役は、自分達の薪取りと、便所用の穴掘り位であったが、今日からはロスケの使役が始まった。


昭和二十一年二月十一日


紀元節の今日、早朝から引張り出された。七時集合"午前中に終わるから"と言われて昼食も持たずに五百名が港へ出発した。

作業は弾薬を満載した四千トン級の貨物船からの荷揚げだ。

口スケの話によれば近いうちにアメリカと戦争を始めるから、弾薬が多数必要になる“とのこと。小銃弾、迫撃砲弾,高射砲弾,爆弾等驚く程の数量だ。

昼食抜きで夜十時頃まで使われたが、交替の者が来たのでやっと帰ることが出来た。空腹と重労働のため、皆フラフラになり、重い足を引きずって十二時頃収容所へ着いた。


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