捕虜の行軍
母から聞く祖父忠三郎は、シベリア抑留から生還した人だという印象が強い。
逆に結婚し、父となった後の祖父の話は聞く機会があまりなかった。
なんでも家の穴から顔を出したネズミを木刀横薙ぎ一撃で仕留めるほどの運動神経だったらしい。従軍中の銃剣術は優秀だったとか。
他、母たちが玄関に置きっぱなしだったランドセルを玄関から放り出し、
「ちゃんと片付けられんもんは邪魔だろ」
と言い放つしつけ方法だったとか。
若かりし頃の祖父の話は、病気でどんどん痩せていく姿を見るとなんだか悲しく思えてきたのだった。
◇◇◇
昭和二十年八月二十六日後日談
朝鮮二五〇部隊跡の雑草生い繁る空地の中で唯一人、大の字となり雲の多い空を眺めながら、先程聞いた明日の”武装解除”のことを考えた。
また自分の入隊当時、いや待ちに待った召集令状を受取った当時の事を思い浮かべた。
盡忠報国を誓い、一死報国の念に燃えて、勇躍家を出た自分であった筈だ。
敗戦
無条件降伏となり、明日には武装解除されると聞く。そのあと自分はどうなるのであろうか。”捕虜だ”捕虜以外には無い筈だ。
捕虜になった者がおめおめと家へ帰れようか。日本へ帰り「捕虜帰り、捕虜帰り」と、死ぬまで白眼視されつつ暮らすよりも、いっそのこと今此処でひと思いに死のうと思った。いよいよ自決する覚悟を定め、東方遥拝を終え、自決寸前、
「こら何をするッ!」と飛んで来て、往復ビンタを取ったのは渡辺班長であった。
「何をする積りだ」
「何もしません」
「何を考えているのだ」
「何も考えておりません」
「嘘をつけ。解っている。お前が初年兵として入隊した当時から教育かかりとして、また戦友としてずっと隣に寝ていた俺だ。お前の気持ちはよく判るが、馬鹿なことはやめろ、犬死はよせ。お前はそれでいいかも知れないが、家族のことを考えてみろ、親兄弟のことを考えたことがあるか。
俺達はこの先どうなるか判らん。シベリアへ連れて行かれるのか、日本へ帰れるのか、何も判らん、誰にも判らないのだ。
日本へ帰るにしても、昔と違う、戦争中と違うのだ。お前は沃川で聞きもらしたかも知れないが、陛下はあの放送の中で俺達軍人を、昔の捕虜のような扱いはしないと言っておられた。何も心配するな。よいか、なにも心配することはないのだぞ。お前の行動は俺が何時でも見ているぞ、生きて帰り新しい日本の捨て石となり働くのだ、良いな」
翌日、武装解除され、5日後には中隊全員が捕虜として三合里収容所へ入った。
昭和二十年八月二十七日
軍人の魂と教えられたるその銃は
山積とされ雨にうたるる
最後の日が来た。軍人としての価値が消滅する武装解除だ。
初年兵として入隊以来何よりも大切にしてきたこの銃、九九式短小銃三一四六番。今日はこの銃の菊の紋章を鑢で削り落とした。兵器かかりの「壊すと五月蝿いから」と言う注意も聞かず撃針を折り、銃としての価値をなくす者が続出する。今日の我等の心を知ってか天も涙を流す。武器有るが故に力のある軍隊なのだ。
関東軍の”虎の子”部隊といわれて来た満州独立自動車第七〇大隊もいよいよこれで最後だ。
昭和二十年八月二十八日
今後いつ何処へ移動するようになるかわからないからと聞き、見廻り品の整理をする。
糧秣も被服も山のようにあるので、缶詰等は各人好きな物を持出して喰い放題。被服も洗濯する者は一人もいない。毎日新品と取り替える生活となった。
理由は、残して置いてもソ連軍に没収されることが明白であるからだ。