君達の社会へ
与那覇文は、眼が覚めた。
とは言っても眠っていたわけではない。
近頃気が付くと、まったく見に覚えのない所にいることがあった。
夢遊病というらしい。自分に意識はなく、フラフラと出かけていて、今のように眼が覚めると全然知らない場所にいるのだ。
最初は恐ろしかったが、最近は段々と慣れてきていた。
それから、自分の意識がない時は一体どうなっているのだろうと考えるくらいの余裕はできるようになった。
まず、周囲の反応だが、自分が出かけた時の事を尋ねると、ハッキリとした意識があって、出かけたという。
家を出るときには「行って来ます」と挨拶もしたらしい。
勿論、与那覇にはそんな覚えはない。
最後に覚えている光景は自室にてスマホで友人と会話をしていた事だった。
ともかく、まずは状況を確認しなくては。
周囲を見回すと、どうも何かのどこかの駐車場のようだ。
だが、そこまで確認したところで自分の足元に何かが転がっているのに気が付いた。
悲鳴を上げそうになりながら慌てて飛びのき、それを確認したとき、今度こそ声にならない悲鳴が漏れた。
それは人間だった。男性が身体を折り曲げて倒れこんでいた。
逃げ出したくなる気持ちを押さえつけ、男の様子を伺ったが、動かない。
こちらに背を向けているので顔が見えないが、気を失っているのだろうか。
「あ……あの……」
与那覇はか細い声を絞り出し、男に声を投げかけたが反応はない。
近づくのは躊躇われた。
自分の中でこれまでにない警告音が鳴っている。ここにいるとマズい。という漠然とした恐怖だった。
もう一度だけ声をかけようと口を開きかけた時、後ろから男の声がした。
「これで仕事は終わりか? ニイヤマ」
与那覇はガチガチに身を固めて首だけ声のほうへ動かした。
ニイヤマとはこの倒れている男の名前だろうか。
後ろの男は年齢二十歳付近で、整った顔立ちをしていたが、どこか普通ではない空気を纏っていた。
そのまま、倒れている男のほうへ顔を向け、「終わったんだな」とこぼした。
与那覇は変わらず、固まったままだった。
何がどうなのか、さっぱり理解できていない状況が恐ろしかった。
「あ、あなたは……?」
なんとかそれだけ声に出せた。
すると、男はきょとんとした表情を浮かべ、与那覇の顔をまじまじと見つめた。
「おいおい。消えるとは聞いたが、なんの挨拶もなしか。アフターケアくらいはしてほしいものだぜ、ニイヤマさん」
どうも、ニイヤマというのは自分のことを指しているようだと文は認識した。
「す、すみません人違いです。私はニイヤマではありません」
「あー、そうだね。分かってる。ええと、確か……与那覇文、だな」
与那覇は自分の名前を知っていた男に驚いた。どこかで会ったことがあるだろうか。
いや。ない。初対面のはず……と考えて、改めた。もしかしたら、自分が夢遊病の時に出会っているのかもしれない。
「驚いているな。無理もないが。今、どんな調子だ? 頭痛はあるか」
男は与那覇を気遣うというより、与那覇の今の状態を知っておきたいという好奇心から尋ねている口調だった。
「あなたは誰ですか、ど、どうなってるんですか。このヒトはだれですか!」
与那覇は徐々にパニックになり始めていた。
「……やれやれ。まず、俺はタレコミ屋のミヤ。そこで死んでいるのはペット殺しの犯人さ」
死んでいる、という言葉にぎょっとした。そして、また身を固めるばかりになった。
はぁはぁと与那覇の息遣いは荒くなり、恐怖で思考がまとまらない。
「現状を大雑把に説明すると、その男を殺したのはお前だと言う事だ」
まさかとは思っていた。意識のない自分、足元に転がる男性。
自分の意識がない時に、何をしでかしたのか?
倒れた男をもう一度見ると、近くにペットボトルが転がっていた。
このペットボトルはなんだろう? もしやこれに毒でも入れていたのだろうか。
混乱の中、ミヤと名乗った男はゆっくりと言い聞かせるように、低い声色で話し始めた。
「まず、キミには二つ選択肢がある。今のこの状況を忘れて、これから何もなかったように日常に戻ること」
ミヤは人差し指を立てる。なんだか、気取った態度で間が抜けていた。
「次に、俺から情報を買い、状況を全て理解して、非日常を見つめていくか」
次に中指を立て、ブイの字をチョキチョキと動かして提案をした。
与那覇はそんな提案はどうでも良かった。
なぜ、こんなことになっているのか、自分は無事に家に帰れるのか、それしか考えられなかった。
「助けて……」
それだけを吐き出せた。
ミヤは困った顔をした。
「おいおい、俺はキミを貶める気はないんだぜ。この場から逃げたいなら、逃げればいい。ここであったことや見たことをスッパリ忘れてしまえばいいさ」
随分と砕けた口調でそう言われて、与那覇は少し気持ちが落ち着きだした。
――どうも、このミヤという人物は現状を理解しているらしい。
詳しく聞くべきではないかと、思い始めていた。恐怖の色が薄らぎ始めたのだ。
「この、倒れてるヒト、死んでるん……ですか?」
「ああ、キミが殺したと言ったが、正確に言うとニイヤマが殺したというべきかな?」
「ニイヤマって……?」
先ほどから気になっていた『ニイヤマ』とは誰の事なのか? おそらく自分であろうとは推測しているが、はっきりとさせたいと考えた。
「おっと、それ以上は有料だ。それに聞いてしまうと、この先厄介事に巻き込まれるかもしれないぜ」
そういうワリに、ミヤは少年のように楽しそうな表情を浮かべていた。
「私は、私のことを分かっておきたいです……。私の夢遊病のことを知ってるんですよね?」
ミヤは頷く。やはりどこか楽しそうな表情だ。面白い推理小説を読んだあとに、トリックのネタばらしをしたがってるように見えた。
「でも、その有料って……お金を取るんですか?」
「ああ、十万で売るよ」
十万……? 流石にぱっと出せる金額ではない。それもこんな不確かな状況で。そもそも、今自分はサイフを持っていないようだった。
「そんなお金、出せません」
「だったら、諦めてこの場から立ち去り、見たことは忘れてしまえ」
ミヤはスッパリと言う。こちらとしては、何でもいいから状況の手がかりが欲しい。
「毎月、一万ずつなら……いえ、二万でもいいので、少しずつお支払いします。お願いします」
「ローンを組むって? ダメだね。一括でしか認められない」
与那覇は黙り込んでしまった。そんな与那覇を見たミヤが、まるで欧米人のように大げさなジェスチャー混じりに語りかける。
「ただ、俺の情報はクーリングオフができる。聞いた情報が気に入らないなら、金は払わなくていい」
ミヤはニヤっと笑い、与那覇を伺う。
そんな条件で情報を売っていて、稼ぎになるんだろうか。
聞くだけ聞いて、金は出せないと言えば客としては無料の情報提供と変わらないではないか。そもそも、この人物はどこまで信用できるのだろう……自分よりは状況を掴んでいるのは間違いないとは思うが。
「怪しんでいるんなら、こちらから一つ教えてやると、これからあんたに話す情報には、『証拠』がないのさ。証拠の無い情報は金にならない。だから、聞いた上で信用できないと判断すれば金なんて払う必要は無い」
与那覇は意表を突かれた。まさか、あっちの口から情報の証拠はない、信じるに値しないと言われてしまうと思わなかった。
「分かりました。では、十万でその情報を買います」
それを聞いてミヤは少年の笑顔で応えた。それを見て、ああ、この人は単に喋りたくてしょうがなかったんだなと分かった。少し目の前の人物が可愛らしく見えた。
「まいどゥ。まず、そこで死んでいる男は『山田博』、調べではフリーターとなってる。駅前のコンビニでバイトをしてるようだ」
テンポよく情報を語り始めるミヤ。
「で、その正体は、ここ数日多発してたペット殺しの犯人だ」
与那覇は足元の男の死体を見下ろした。この人物が『ペット殺し』……。
「そいつは、ニイヤマに殺された。ニイヤマというのは、お前に合わせて説明するなら、夢遊病状態のお前の名前だ」
「私がニイヤマだと、名乗っていたんですか? 意識の無い間に」
一番、聞きたかった事だった、その部分を詳しく知りたい。与那覇は、目線をまたミヤに戻しまっすぐに答えを求めた。
「そうだ、与那覇文の意識はニイヤマによってコントロールされていた。ニイヤマはこの一ヶ月ほど、ずっとお前の身体の中にいて、ときおり目覚めては、己の目的のためにその男、山田を捜し回っていたのさ」
「なぜ?」
「ニイヤマは、その山田が『世界の敵』なんだと言っていた」
なんだって? 世界の敵……? まるでゲームかマンガの中で出てくる単語だ。
「生存を許されない存在、愛情の無い人間<コルドハーテッド>抹殺を目的にしていた」
ミヤは楽しそうに話してはいるが、その眼は真剣だった。面白おかしく話を作っているのではなく、こんなとんでもない事実がお前に信用できるか? と、胸を躍らせる少年の瞳だった。純粋だと感じたのだ。
「そのニイヤマも、こうして無事に任務を遂行し、消滅した」
「信じられないというか、ふざけるなという感情のほうが大きいです」
与那覇は鵜呑みはできないその話に、口ではそう答えた。そう答えるのが模範解答だろうと思いながら。
「どうやって殺したんですか。見たところ外傷はないように見えます」
「それは俺もわかってない。ただ、その死体の検分は好きにさせてもらえると思うから、調べてみようかと思っているよ」
ミヤは死体に近づき、なにやら色々と調べまわる。
「ただ、おそらくだが。この死に様は、ウィルスで死んでいる。病死さ」
死体の顔を掴み上げて、ミヤは男の口を開き、中を覗き込んでいる。与那覇は、死体の表情を見るのが恐ろしく、眼を背けていた。
「病死……? 殺害、ですよね? 生物兵器のような殺害方法だとでも」
「動物には免疫ってのがある、このフツウに吸っている空気すら、色んな病原菌が漂っているんだ。だけど、免疫によって人間はそれを防いでる。おそらく、ニイヤマはその免疫をゼロにしたんだろう。簡単に言うと、空気が毒になる体にさせられたんだ。世界で生きる条件を剥奪したってワケだ。それこそが<フレーメン>の本当の能力なのかもしれない」
「<フレーメン>?」
どこかで聞いたような気がする。だけど、思い出せなかった。ネコが笑うような表情をする時の事をフレーメンと呼ぶと聞いたような気もするが、はっきりしない。
「トキソプラズマが自らの力を名づけたのさ。愛情があるって証拠だよな」
ミヤは、こちらを見て、クスっと笑った。与那覇は素直に意味が汲み取れず、首をかしげた。
「よくわかりません」
「いや、今のは分からなくていい。つまり、ニイヤマは世界が生み出した抗体であり、世界から不要と判断された
<コルドハーテッド>は世界で生きていけない身体に変貌させられ、死亡したってことだ」
「……その情報に十万を払えと?」
ばかげた物語にしか聞こえなかった。
「だから、言ったろ。信用できないなら金はいらない」
「そのニイヤマは、私の中から本当に消えたんですか?」
これだけはハッキリさせておきたい。もう二度と自分の意識が勝手に奪われ、好きにされたくはなかった。
「俺にも分からない。ニイヤマ自信がそう言ったんだ。だから、これから数日間、キミに不審な動きがないか
もう少し観察させてもらうつもりだよ」
「そうしてください」
与那覇は、ミヤに当然のようにそう言った。言われたミヤは少し眉を上げた。
「おや、いいのかい。君の私生活をジックリと調べさせてもらうという事だよ」
わざと、台詞回しを嫌らしくしてミヤは与那覇を舐めるように見た。
「私の夢遊病が消えているなら、それで私はもう満足です。それを証明してくれるのなら、かまいません」
与那覇は、そう言いながら、これまでになく自分の頭がクリアになっているのを感じていた。
今までのような思考がすりガラスに覆われた感覚がなく、夢遊病が出る事はないような気がしていたのだ。それでも与那覇は、このミヤという人物に『証拠』を提示して貰いたいと考えた。
「分かったよ。じゃあ、もう行くといい。もうじきここには怖いおじさん達がやってくるんでね」
「お金、どうやってお支払いすればいいですか? 今はサイフも持ってないので」
ミヤは与那覇の申し出に、とても間の抜けた表情を見せてくれた。
「え? 払うの? 十万」
「はい。なんとかします」
与那覇は、この信じられないふざけた話に呆れていた。そして、このどこか子供っぽいミヤという人物にも同様の感情を持った。
だが、それと共に『おもしろい』と思ったのだ。
与那覇の所属する卓上遊戯部は、TRPGで遊ぶ事が多い。TRPGとは、ロールプレイを愉しむゲームだ。
つまり、与那覇はごっこ遊びが好きだったのだ。
自分ではない何かに変身し、物語を体験していく。そこが何より面白かった。
しかし、与那覇は自分の意識を奪われて、別の何かに変身していたという事実を聞かされた。
その無意識の体験を自分が知らない事が『もったいない』と思ったのだ。だから、彼女はミヤに対してアプローチを行った。彼は、語り手。ゲームマスターだと思ったからだ。
「だったら……提案がある」
ミヤはしばらく考えていたが、与那覇の口元をじっと見つめて提案してきた。
「キミの観察も兼ねて、俺の仕事を手伝って欲しい。肉体労働で返してくれればいいさ」
与那覇は少し困った。運動はそこまで得意な方ではないからだ。ボンドガールのようなモノを求められているとしたらハードルが高いと思った。
「でも私……何もできません」
「何、難しいことは要求しない。ほんの数日、恋人のフリをして欲しいんだ。どうしても俺を諦めさせたい女がいてね」
与那覇は想定した事よりも、あまりに俗世的な内容に思わず笑った。そして、気構えなく、素直な言葉が口から出た。
「あなた、思った以上にゲスなんですね」
「あっはっは! 言うね、気に入った。好みだよ」
ミヤはまた気取りながら言う。気取り方がベタベタで、そこも少し面白いと思った。
「分かりました。恋人のフリですね。ただ、身体を許したりはしませんからね」
「キスくらいは、いいかな?」
ミヤは、与那覇の唇を見つめて言った。与那覇は、別にキスくらいならいいかと思った。中身はともかく見た目は悪くないのだから。
「……場合によります」
「交渉成立」
与那覇は足元の死体を見下ろして、思った。なんにせよ、自分は事件に関わったプレイヤーなのだから、エンディングまで見届ける義務があるのだと。そしてもしこれが長編ならば、おもしろくなりそうだと思わずにはいられなかった。
※ ※ ※
「橘田さん! 橘田さん、大丈夫!?」
橘田さゆこは身をゆする少年の声で、意識を覚醒させた。
「佐藤、くん……」
「急に様子がおかしくなって、すごい速さでどこかに行くから、僕心配で……必死に探したんだよ」
「え……どうして?」
「どうしてって……」
自分を抱く少年の顔を眺めながら橘田は思い出した。
そうだ……自分はあの時、声を聞いたんだ。
「<コルドハーテッド>を発見した。本体である君が、素直に心を解いたお陰で<フレーメン>の探知機能が働き始めたお陰だ。君が異性を惹きつけていたのは、<フレーメン>の能力だ。能力が消えれば、元に戻る。元に戻ると言うのは、中学生の頃の内向的な橘田さゆこに戻るということだ。異性を惹きつける能力もなくなる」
橘田さゆこの脳裏に佐藤の顔がよぎる。
佐藤が自分に惹かれたのは能力の影響だ。
その能力が消えてしまえば、彼の想いも消えてしまうのだろうか。
今の彼女には、佐藤は大きな存在になっていた。
ほんの数時間の関係であっても、その想いは、自分の中の感情はまさにこれまでにない変化だったのだ。
――ナツメさんが謝っていたのはそういうことだったのだと理解した。
「<フレーメン>は行かなくてはならない。君の身体を使わせてもらう。負けることはない。安心して欲しい。だが、<フレーメン>が影響を与えたものは夢のように消えてしまうだろう。覚悟を決めてくれ」
「行きます」
橘田さゆこは<フレーメン>として、決戦に臨むことを決意した。
その理由はもう単純でしかなかった。
彼が言ってくれたのだ。
変わる必要はない。私はもう逃げない。
彼女の瞳がエメラルドグリーンに煌めいた。
<フレーメン>が発現し、<コルドハーテッド>の追跡を始める。疾風の如く、彼女の肉体は駆け出したのだった。
そうだ。<フレーメン>の力で全ては動かされていたんだ。だけど、それでもよかった。にゃーまに近づけると思ったから。
橘田はそう考えていた。今こうして自分を心配してくれている佐藤の想いも、自分の魅力ではなく、異能の力だったのだと。
「ねえ、ホントに何があったの? あっちの人は、知り合い?」
向こうでは女性と中年の男性が話し合っていた。
島村と彩城だった。
「なぜ、こんなムチャをしたんだ。本当に死ぬつもりだったのか」
彩城は島村に激しく叱責した。
島村は表情を落し、詫びていた。瞳は汚れた床を写していた。
「ごめんなさい。彼が言ったことが、図星だったので……私怖くなったんです」
「彼……山田博のことかい? 何を言われたんだ」
「同じ眼をしているって。私も、飼い主とペットの再会シーンに憧れているって」
島村の言葉に彩城は普段の柔和な表情からは想像もつかなかった険しさで、島村を叱咤した。
「……その意味はまるで違うんだ。君はキミだ。君がそんな理由でヤケになって死んでしまったら、君を愛している人たちはどうなる」
彩城の声が工場内に響いた。島村はそれでも、顔を彩城には向けられなかった。
「そうですね……。でも、私、たまに思うんです。私が死んでも、この世界にはなんの影響もないんじゃないかって。私の価値はそんなに大したものでないなら、使いどころを大事にすれば、誰かの役に立てるんじゃないかって」
自分は世のためにできる事があんまりない。そんな自分が、少しでも人の為に役に立つタイミングがやってきたとしたら、そこに全部を投げ打っても良いのではないだろうか。
「島村君。使いどころなんて言葉は、おかしいんだよ。何よりも、価値というのはそこにいるだけで生まれてくるんだ。君がここにいる以上、それだけで価値があるんだよ。動物の命もそうだ。命は物じゃない」
「せんせい……ごめんなさい」
島村は彩城の胸に埋もれ泣いた。緊張の糸が切れたのだろう。
「でも、山田を逃がしてしまった」
「大丈夫だ。情報屋の彼が追ってくれている」
「じゃあ、彼女たちは……」
島村は、橘田たちを見た。
橘田は断片的ながら、状況を理解した。
<フレーメン>のことも、<コルドハーテッド>のことも。
橘田は佐藤をじっと見つめた。そして、覚悟を決めた。彼には、伝えなくてはならない。逃げるという選択肢は思い浮かばなかった。
「佐藤君、聞いて欲しいの」
「うん」
佐藤は「何を?」と尋ねなかった。ただ、彼女の言葉を受け止めるつもりだったのだ。
「佐藤君が私を好きになったのは、<フレーメン>のせいです。その気持ちは作り変えられた私に惹かれたもの。本当の私に惹かれたわけではない。だから、もう一度、冷静になってほしい。自分はそんなにたいそうな女ではないんです」
橘田は、両手を強く握り締め、そう告白した。そこまでの力を必要とした告白だったのだ。人に告白する事がこんなにも勇気のいることなのかと思い知った。そして、今まで告白してきた人たちから逃げてしまっていた自分はなんという残酷な事をしてきたのだろうと痛感した。全てに対し申し訳ない気持ちが溢れた。
佐藤はそんな彼女を見ていた。
確かに、今の彼女はどこか虚ろで、消えそうなほどカラッポだった。
キラキラと輝いていた彼女はいなくなってしまった。
まるで、舞台から降りた女優のように、そのオーラは消えてしまったように見えた。
「たしかに、可愛い可愛いってずっと思ってたけど、今はそんな風に感じない。<フレーメン>の影響というのは、よく分かった。視聴覚室で告白した僕なら諦めてたと思う」
佐藤は橘田に飾りなく伝えた。そして、彼女だけに告白させるのは、ずるい事だと考えていた。
「僕からもひとつ言っておくことがあるんだけど、視聴覚室で告白した僕も、<フレーメン>に頼っていたんだ。だから一緒だ。同罪だよ」
橘田は「そうじゃない! そうじゃないんだよ、佐藤君」と泣き出しそうになる。しかし、佐藤は橘田の硬く握ったこぶしに手を添えてゆっくりと解かせた。
「でも、僕は喫茶店で告白したんだ。もう<フレーメン>なんて関係なかった。僕の告白に応えてくれたキミの言葉は<フレーメン>の言葉だったのか?」
首を振る橘田。目じりからキラキラと光がこぼれた。
「私、あなたが好き」
島村はそんな二人を見て、思った。
社会はつまらないと思ってしまえば本当につまらない。だけど、きっと見える人には見えるのだ。色づいた美しい社会が。
そしてそれは、誰にとってもやってくるものであって欲しいと強く願った。
◆
八月一日。――喫茶店『じゅげむ』
「ね、天地魔って知ってる?」
茶髪に染めたミドルの少女が隣の太った金髪の少女に話しかけていた。
「あ、知ってるソレ。なんか超ユウメイジンでしょ」
「テンチマ? なにそれ、あたし知らない」
向かいの席の黒髪ロングのミニスカートが二人に尋ねる。
「しらねえの? マジ有名なのに」
茶髪がロングに眼をむいてわざとらしく驚いてみせる。
「知らない。何、俳優?」
「違う違う、この街の伝説の不良。それが天地魔。めっちゃ強いらしいよ」
茶髪が興奮気味に語る。
「天地魔のマークあるよね。シュリケンみたいなの」
金髪も話に乗ってきた。
「へえ、どんな人? トシは?」
「それが、プロフィールはナゾに包まれてんの。一切不明、伝説は色々あるんだけどさ」
「ナニソレ。伝説ってどんなの?」
「例えば、ヤクザ相手に独りで戦って勝っちゃったとか、組を乗っ取ったとか」
「超イケメンって話だぜ」
茶髪が会って見たいわと盛り上がっている。
「アタシは今、コータがいるから男は足りてるけどね」
「だれそれ」
「こないだ、ゲーセンでナンパされたじゃん」
金髪が忘れたのかよという表情で憮然とする。
「ああ、あのドラッグのウワサ知りたがってたヒトね」
「あんたあのヒトとまだ、連絡取ってんの? なんかヤバくないアイツ」
茶髪は侮蔑の目線を金髪に向ける。
「全然ヤバくないって。天地魔よりはマシだって」
「あ? 天地魔のほうがイイ男にきまってんだろ」
金髪と茶髪の間に険悪な空気が流れ出したのを察知してロングが言う。
「で、その天地魔が何なの? なんかあったの?」
「そうそう。そんでさ、こないだのドラッグの話、あれってかなりやばかったらしーんだ。なんでも、ここらのヤクザとは無関係のヤツが勝手に広めたって話で、ヤクザもサツも必死になって追いかけましてたんだって、そのバイヤー」
水を得た魚のように茶髪はペラペラと舌が回り始めた。
「へえ? もしかしてそのバイヤーが天地魔だったの?」
「らしいよ。で、警察とヤクザ相手に大乱闘してどっちも叩き伏せたとか」
「ないわー」
ロングは呆れかえった。警察とヤクザを相手にして無事に済むなんてどんな喧嘩の強いヤツでも不可能だと思ったからだ。いや、しかし、その天地魔とか云うのが実は政治家であったりして、そういうのにパイプがあるなら権力でねじ伏せたりできるのかもしれない。
「いや、マジだって。天地魔が出た証拠もあるんだから」
「証拠?」
「そう、病院の駐車場にスプレー缶で『卍』がでっかく書いてあったんだよ」
「シュリケンのマークね」
金髪がコースターに『卍』を落書きしてみせる。
「このマークが天地魔のマークなの? ルパンの『お宝はいただいた』みたいなヤツ?」
「うん、このマークが残っているとそこで天地魔が暴れたってことなんだぜ」
茶髪が自慢げに話す。しかし、ロングはまだ胡散臭いと思っていた。
「ふうん。こんなの誰でもかけそうだけどね」
そんな会話が店内に響き渡る中、店の奥の席では三十路を過ぎた男が二人、対面に腰掛けていた。
ペット探偵の彩城陽平と、アウトロー探偵の宇津木徹夫だった。
「助かったよ。宇津木の情報屋紹介のお陰でペット殺しの事はどうにかなった」
「そっちの依頼主が姐さんじゃなかったら無視していた」
彩城は宇津木に、情報屋こと『タレコミ屋のミヤ』を紹介してもらった件について感謝を述べていた。
宇津木は当初乗り気ではなかったが、依頼主が木村と知り仕方なく協力を申し出た。木村は宇津木の世話になっている組長の妻だったのだ。
「山田はどうなったんだ」
「天地魔のシワザになった。それ以外は全て闇の中だ」
彩城は右手前から聞こえる少女達の噂話に目線を投げて、なるほどと言うように一つ頷いた。
「彼は知りたがるのだろうか」
「かれ?」
「タレコミ屋の彼だ」
彩城はタレコミ屋と数度接触し、彼がかなりピンポイントな情報を持っていた事に驚いたのだ。
「ああ。……あいつは知っているだろうな。彩城、今回は紹介してやったが俺とお前はもう住む世界が違う。これで終わりだ」
宇津木は席を立とうと、伝票に手を伸ばそうとしたがそれを先に彩城に奪われた。
「住む世界が違う……か、本当にそうなんだろうか。世界とは思った以上に小さいかもしれないぞ」
牛のような瞳の彩城が蛇のような瞳の宇津木に、にこりと笑いかけた。
宇津木はそのまま黙って背を向け、店から出て行った。
彩城は、旧友にこの店の会計を奢ってやったぞとほくそ笑んだ。
「次は奢ってもらうからな、宇津木。また会おう」
◆
――世は全てこともなし。
今日も街は変わらない。
天地魔卍により、社会はひとまずのエンディングを迎える。
いつの頃からだろう。このオレ、天地魔卍の紋所で決着が付く様になったのは。
街ではああして天地魔の話題が一人歩きを始めて、一人の巨大なナゾの人物を生み出した。
天地魔はこの街の守護神のように、どこからともなく現れて、どこへと知らず去ってゆく。
異常な出来事は全て天地魔が拘わっている。いつしかそんな状態が当たり前のように語り継がれた。
噂は尾びれを伸ばしていく。
街にとって都合のいい人物、天地魔。
それはオレのちょっとしたお遊びから始まった。
天地魔卍と言うのは、自分で名前をつけたオレの名前だ。親につけられた名前をモジらせた。いわゆるアナグラムというヤツだ。
中学の頃によくある、悪ぶってみたかったという衝動はご多分にもれずオレにもあったのだ。
オレは街の廃工場に入り込める事を知り、あそこの立て看板にでっかく名前を書いてやろうと思った。
天地魔卍参上とスプレー缶でデカデカと書き記した時は、胸がスカっとしたのを覚えている。
その落書きを書いた翌日、あの廃工場で殺人事件が起こった事を知るまでは。
街で殺人事件があったということで、巷は騒然となった。
田舎ではないが都会でもない。至って平凡なこの街で大事件が起こったのだ。それもオレが廃工場に入り込んだその日、その場所で。
そして、殺人の容疑者に『天地魔卍』の名が上がっている事に更に驚いた。
警察は天地魔卍を必死に探したそうだが、見つからなかった。
結局殺人犯も捕まったのか捕まっていないのか分かっていない。事件は一年すると風化し忘れられた。
おそらく警察はまだこの事件の調査を行っているのだろうが、オレの元に警察がやってきたことはない。
それから、数年が経った今日まで、この街で起こる事件の現場に、いつも『卍』の印が落書きされることになる。
オレが落書きをしたのは、たった一回。あの廃工場の看板だけだ。
それ以降の『卍』の印は誰が書いているのかなど知りもしない。
ヤクザの抗争の現場に残されていたとか、不良のドラッグ押収現場に残っていたとか、この街の『事件』現場に『卍』が記されるようになった。
おそらく書いた人物はそれぞれ別だ。事件に関係ある人物かもしれないし、全然無関係の人物かもしれない。
みんながみんな、面白がって始めたのだ。あの事件は、卍がやったらしいぜという噂話と共に。
この『卍』印は急速に噂になり始めた。まとめサイトなどまで出来る始末だ。
オレはそのまとめサイトの掲示板の常連になった。
今日はどこで卍印が発見されたとか、そこでこんな事件があったとか書き込まれている。
まるで、自分で創作したキャラがアニメになって動き出した気分だった。
まとめサイトによると、最初の卍は廃工場の看板で間違いないということになっていた。
その通りであるが、よく調べたものだ。感心する。
そこは『卍』の聖地として一部のコアなファンたちの間で有名になった。
自分の生み出した天地魔卍が、さまざま人物によって二次創作されていく。一部の有志がマンガを書いてまとめサイトに投稿した時は正直笑った。
マンガの中の卍はかなりのイケメンだったからだ。リアルのオレとのギャップ差に笑ったのだ。
ともかく、面白い事になったとオレは思っていたのだが、たった一つだけ気に入らない事があった。
それは、周囲が天地魔の事を『テンチマ』と呼んでいる事だ。
天地魔卍は、『アマチママンジ』と読むのだ。そうでなければ、アナグラムにならない。
オレはこれからも、外見と中身を使い分けて生活していくだろう。
本当の自分が気に入らない。好きな女も抱けない情けないオレは、己の偶像を生み出し己で崇拝するしか心を満たせないのだから。
初めて彼氏ができたというその女の幸せそうな笑顔を見ながら、オレは仮面をかぶりこう言うしかできなかった。
「おめでとう、こさゆ」
はにかむ彼女の笑顔はまるでネコのフレーメン反応のような、どこか愛嬌のある表情だった。
――終