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Cold Hearted  作者: 花井有人
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眼差しの理由

 僕は握り締めていた右手の力をほどいた。

 手を開くとそこには小さな小ビンが、手汗に汚れていた。


 小ビンの中には土が入っている。

 ――駄目だったじゃないか。

 小ビンを見つめて力なく批判してやった。


 いいや、自分でも分かっていたことだ。僕のような男らしくもなく、魅力もない人間に惹かれる訳が無い。


 そう、僕は同じクラスの女子に告白し、みごとに玉砕した直後だった。


 明日から夏休みだ。フラれても問題ないように、今日を選んだ。

 夏休みは長い。きっとこの期間が告白したなんて事を笑い話にしてくれる。


 僕は告白の場所に選んだ視聴覚室で、しばらく動けなかった。


 女性に対してこんなに胸を熱くする事は生まれて初めてだった。

 彼女の事を思うだけで、しんしんと締め付けられるような切なさに苦しんだ。苦しんでいたが、幸せな感覚であった。


 相手は自分の前の席の『橘田さゆこ』だった。


 梅雨のある日、急に振り出した雨に通学路途中のバス停に駆け込んだ。ぐっしょりと濡れてしまい、ガクランが重く感じた。

 このまま雨宿りで雨脚が弱まるまで待つか。

 しかし、その気配はまったく感じられない。もうここまで濡れてしまったのだ。これ以上濡れたって変わらない。ならいっそ、雨の中気にせず家まで歩くのもいいか。

 そんな事を考えていたが、バス停に先客がいたのに気がついて僕は緊張した。それは同じ高校の女子だった。

 セーラー服は自分と同じにぐっしょりと濡れてしまっており、肌に張り付いている。

 肩のあたりまである黒髪も濡れそぼっていて、頬に張り付いた一筋の髪がなんだかすごくオトナっぽく見えてドキリとした。

 少女はかばんから黄色のタオルを取り出して髪を押さえつけて拭きはじめたが、こちらに気が付きその動きを止めて、まじまじと僕の顔を見つめた。


 なんだか、こちらが見ているのが悪い気がして顔をそむけた。

 そのまま雨に濡れる道路を眺めながら、隣の少女の事を思い出していた。


 自分と同じクラス、しかも目の前の席の『橘田』だった。

 席は前だが、まったく会話なんてしたことはない。精々、消しゴムを落としたときに拾ってもらって「ハイ」「どうも」くらいしか言葉を交わしてない。

 どうにも、気まずいような感覚になった僕はバス停から飛び出そうと決意した。


「佐藤くん、コレつかう?」

 隣から言葉をかけられた。それどころか名前を呼ばれた。

 まさか、自分の名前を知っているとは思わなかった。眼中にないだろうと思っていたからだ。


 橘田へ向き直ると、さきほどの黄色のタオルを差し出していた。

「あ、ありが……と」

 なんとかお礼を言えた。タオルを受け取って、濡れた顔に押し付けた。しめったタオルだったが、なんだかいい香りがするような気がした。

 顔だけ拭いて、タオルを返そうとして、一瞬悩んだ。

 ――洗って返したほうがいいのだろうか。

 逡巡していると、橘田のほうから右手を伸ばして手を開いてきた。

 その手にタオルを手渡した。手を差し出してきた橘田の姿が網膜に焼きついた。


 雨で冷えていたはずの身体が不思議に熱く感じる。


 橘田さゆこは、この世の誰より可愛らしいと感じた瞬間だった。


 それから約一月が流れ、一学期の最終日に視聴覚室に橘田を呼び出し告白したが、その回答は「ごめん」であった。


 告白をするのに、どれほどの勇気をふりしぼったか。

 自分を奮い立たせるために、新聞部の校内報に書いてあった『おまじない』までやった。そのおまじないが右手の小ビンの土であったが、効果はなかったようだ。


 自分に自信がなかった。だから、告白してもフラれて当然だと覚悟はしていた。

 それでも1%でも望みがあるならとその1%に勇気をそそいだ。結果はダメだったが……思いを伝えるという目標はやり遂げた。


 それに、彼女は自分をあざ笑ったりせず、「ごめん」と謝った。そこもまたいい子だな、フラれてもまだスキなんだなと改めて自分の恋慕の強さを知ったのだ。


 自分には姉がいるが、例えば姉が告白されてそれがまったく意中外の人間だったら、姉はきっと相手を嘲り笑うのではと思っている。姉はそういう人間だ。


 帰ろう。僕のことを好きでなくてもかまわない。

 彼女に対して、自分は何の接点も無い人間ではないのだということを知ってもらえただけでも価値があると思えたのだった。


 帰宅途中に、学校内掲示板を見ると、随分ハデなポスターが貼ってあるのを見つけた。

 迷いネコを探しているという内容のもので、連絡先は『橘田』とあった。


 そういえば、さっき告白の際に橘田は「ネコのこと?」と聞いてきた。

 知らなかった。告白前にこのポスターを見ていれば、また別のアプローチ方法もあったのでは。

 例えば、ネコを見つけてあげて、そこから進展していく関係というのもあったのではないだろうか。


 それを自分は告白することばかりを考えていて、相手の事を思いやれてなかった。

 好きな女の子のことなのに思いやれなかったのか、それではフラれて当然ではないか。


 これですっかりと諦めがついた。自分は彼女には相応しくない。思いあがりも甚だしいバカな男だったのだ。


 帰宅していくと、途中の電柱にもポスターが貼っていることに気が付いた。本当に必死で探しているのだろう。


 見つけてあげたい。

 もう恋愛の材料のためなどではなく、ただ彼女のために何かしてやりたいと思っていた。

 ネコを探すことを決意したのだった。


 そうは言っても、ネコ探しなんてどうやればいいのだろう。ネコのことなんてさっぱり分からない。

 その日は、家に帰ってからパソコンでネコ探しについてを調べてみた。


 PCは家族で共有なので、リビングに置いてある。無料で貰ったノートPCだった。その代わり、プロバイダ契約を二年間続けるという条件があったが。


 僕も父もネットはずっとやりたかったので、母を説得し、我が家にやっとオンライン環境が整ったのだ。

 母が言うにはケータイでネットも見れるのに、どうしてPCでネットをやるのだという理屈だった。姉に至ってはそもそも興味がないらしい。


 リビングでキーボードを叩いていると、姉が帰って来た。

「で、どうなったん?」とニヤつきながら聞いてくる。

 告白の結果を知りたいらしい。


 告白の前に姉に女性のことで相談をしたのが間違いだった。

 そういうところにだけ、勘が鋭い姉は、僕が告白をするつもりなのだと見抜いたようだった。その後はズルズルと相手はだれだとか、お前じゃぜったいフラれる、賭けてもいいとか好き放題に言われた。


「別に」とモニタを見つめながら返した。

「あー、やっぱダメだったんだ、カワイソ」

「……」

 何も言い返さない。結局姉にはノーリアクションが一番賢い対応なのだと、この十六年生きてきて学んだ。

「勉強したら。またお母さんに怒られるよ」

「うるせ、ドーテイ」

 姉は自室のある二階に上って行った。


 厄介払いをしたところで改めてネコの事を色々と調べ始める。

 ネコのテリトリー、迷いネコを探すには、捕獲方法、相談掲示板などなど。調べていて気が付いたのが、近頃この街で起こっている「ペット殺し」の情報だった。


 なるほど、橘田さんが必死に探しているのはこれもあるのかもしれない。

 記事を追うと最初の事件は三月に起こっているらしい。ネコの死骸が刺し傷だらけの状態で発見された。飼い主の痛ましいコメントがその悲惨さを伝えている。

 気分の悪くなる事件だ。もし、橘田さんも同じように悲しむことになったらと思うと、自分まで凍りつくような思いに囚われた。


 スマホを開き、迷いネコのポスターに書いてあったQRコードから登録した橘田さんの電話番号とメールアドレスを眺めながら僕は気持ちを引き締めた。


 気が付くと日付は変わり七月二十八日(木)になっていた。

 父がパソコンを使わせろというので、仕方なく譲った。

 あとは自室でスマホで調べることにしたのだが、スマホは操作をしにくいぶん、ストレスが溜まっていった。


 結局疲れ果て、僕はそのスマホのアドレス帳を開き、橘田さゆこのメールアドレスを眺めた。

 メールアドレスというのは、持ち主の個性が出る、橘田さんのメールアドレスは、kosayu0729-peperonti-noというものだった。

 ペペロンチーノが好きなのだろうかと、想像してまた胸がきゅうっと締め付けられる感じになる。


 頭のkosayuというのは、あだ名からだろう。その後の数字は……何かのゴロ合わせか?

 0729……お、な、に……と考えてから慌てて首を振り乱した。

 まずい、なんか変なことを考えてしまった。僕はなんて愚かな男なんだ。自分で自分を罰したくなった。


 じゃあこの数字はなんだろうと考えたが、この手の四桁の数字で思いつくのは、誕生日じゃないかと思い至った。

 だとしたら、誕生日は七月二十九日か。なるほど、祝ってあげたいな、なんて想像をしてそれができないことに少し寂しくなった。


「アッ!?」

 とたんに、僕は跳ね上がった。七月二十九日は……二十四時間後に迫っているじゃないか。


 僕の彼女の為に何かしてあげたいと言う気持ちはまさにピークまで上り詰めた。

 誕生日まであと二十四時間。

 僕はこの二十四時間を彼女の為に行動すると決めた。



 0:00

 普通なら眠気も出てくる時刻だった。しかし、今の僕は完全に覚醒していた。

 彼女の為に何ができるかを考えることにした。


 まず思いつくのはネコ探しなのだが、色々調べては見ても、イマイチこれだという良いアイデアに繋がらない。

 一つ思いついたのは、調べるなかで見つけたペット探偵という事務所への相談だ。

 どうしたって、素人が出来る範囲は高が知れている。ならば、ペット探しのプロに助言を請うのは的確だろう。


 しかし、それでいいのだろうか。

 自分の力で彼女の為に行動するから意味があるのでは? プロにお金を払って見つけてきましたというのは何か違うのではないか。


 だとしたら、どうするべきだろう。

 僕にはまるでいい考えが浮かばない。周囲に女性の為に何をしたらいいかと質問できる相手はいない。

 姉にだけは絶対相談できない。できれば、僕と彼女の事を知らず、それでいて女性の事を分かり、遠慮の無い意見をくれる人物でもいれば……。


 そんな都合のいい人物などいない。何より、また自分は人に頼ることを考えていた。

 告白の時だってそうだった。自分の力だけでは、不安だから『おまじない』に頼ったのだ。

 人や物に頼ることで、失敗した時の責任転嫁にできるから。保険をかけたくて、そういう心のよりどころを求めているのだ。情けないことこの上ない。

「はあ……」

 大きくため息をつく。


 自分も姉のように能天気に無遠慮に生きていければと思ったことは何度もあった。

 この間もそうだ。突然知らない男の人に「おまじない」の話をしろと言われて付き合わされた。会ってみたら、すごくかっこいい人だった。知性をカンジさせる男性で、ああ、姉はこの人にホレているんだな。自分をダシにして得点を稼ごうというつもりなのだろうと想像した。


 なぜこんなイケメンが学校のウワサのおまじないを知りたがっているのか分からない。

 姉に聞いても、そんなのどうでもいいだろとしか言わなかった。

 確かにどうでもいい。男性はしきりに<フレーメン>というものを気にしていた。違法ドラッグの名前だというウワサらしい。それをやったのが、三年の森川という先輩だと姉が僕に告げてきたが、僕の知ってるうわさと内容が少し違っていたので、訂正をした。

 ドラッグではなく、恋のおまじないだと。


 姉はギャハギャハと笑ったが、僕の周りではそう聞いている。それがどうも、不良の中ではドラッグとしてウワサが広まっているらしかった。

 男性こと宮島はおまじないの詳細な話を知りたがった。

 二年生の二人がおまじないをやったという事実を詳しく調べ、どういう『おまじない』をしたのかを調査したいと言った。


 その時の僕も、告白を考えていて「おまじない」の方法を確立させたかった。だから、協力を申し出た。


 二年のおまじないをした先輩のうちの一人、与那覇文は部活の先輩だった。部活は卓上遊戯部という。なにそれと言われることが多いが、トランプやボードゲームなどのテーブルゲームで遊ぶ部活だ。最近の部のブームはTRPG(テーブルトークRPG)と人狼だ。

 ゲームのことは今は関係ないので省くが、その与那覇先輩は非常に明るく楽しい先輩だった。

 二年の先輩が言っていたが、去年はとても内向的で打ち解けるのに苦労したと笑っていた。今の彼女を見るとそんな様子は、まるで感じられない。

 五月のゴールデンウィークまでは、何もおかしいことはなく話しやすい先輩だと思っていた。


 ところがゴールデンウィーク明けから、部活を休みがちになった。二年の先輩に聞くと学校には来ているが、途中で早退することが増えたそうだ。それも、普通の早退ではなく、気が付くとフラリと消えてしまっているらしい。

 つまり無断早退をしているらしい。


 そんなことが多発し始めた頃、与那覇先輩は夜、警察に補導されたと聞いた。

 部活は活動停止になった。まったく関係がないのに、連帯責任と言われ僕らは一学期中の放課はヒマを持て余すことになった。

 部活メンバーで与那覇先輩と話し合いの場を作ることになり、そこで色々と問い詰めることになった。

 その時の与那覇先輩は、明るい先輩ではなく、疲れきった表情をしていて、目はうつろ。話も聞いているのかいないのか、生返事しか帰ってこなかったのを覚えている。

 そんな様子を見て、まるで麻薬中毒者のようだと誰かが言っていたのを思い出した。


 なるほど、ウワサの発端は意外と僕らだったのかもしれないとぼんやり思った。


 ともかく、彼女の豹変振りはみんな驚いていた。親すらも困惑していた、なにが原因なのか、まるで分からない本人も分からないという。


 それから数日後の六月のある日、『おまじない』の話を新聞部掲示板で見た。


 宮島の話を聞いて、おまじないのお祈りを具体的にどうやったのかを知る必要ができた。

 おまじないをやったと新聞に書いてあったのは三年の森川、二年の与那覇、海棠の三名だ。新聞にはイニシャルで名前がぼやかされたが、ちょっと調べればすぐ分かった。


 どの三人も最近、情緒不安定で学校を休みがちになっているようだ。

 おまじないでモテたあと、魔法が解けてしまったのではと新聞はグリム童話のような締めくくりをしていた。


 その新聞も、教師によってすぐに剥がされてしまったらしい。しかし、学校内ではすでにウワサは広がっていた。


 有益な情報は与那覇先輩の友人から仕入れることができた。与那覇がおまじないをした時に傍にいたと言うのだ。

 何をしていたかを尋ねると、小さな鳥居の周りの土を小ビンにつめて持ち帰ったという。


 そこで、他の二人も土を持ち帰ってないかを尋ねて回った。三年の森川は鞄にアクセサリとして小さなカプセルをぶら下げていたようだ。その中身はどこかの砂だか土だかだったと情報を仕入れ、二年の海棠は野球部のマネージャーらしく、甲子園の土を持ち帰る球児の話を、やけに詳しく話していたという。


 答えは土だと推理した。それを宮島に伝えると「ありがとう、何かお礼をしなくてはね」と言ってくれた。

 その後は自分も、鳥居の土を小ビンに詰めたのだが、残念ながら効果はなかった。

 だから、宮島に伝えた答えは間違っていたのだと僕は思っている。


 そんな回想にぼんやりとしていると、時刻は二時。俗に言う丑三つ時になっていた。つい物思いにふけってしまっていた。

 さっきは眼が覚めきっていたのに、今はとてもまぶたが重かった。まだ、何もアイデアは浮かんでいないのに。

 何か考えなくては……何か考えなくては……橘田さんのために……。



 ガチャンバタンという音で眼を開いた。

 玄関のドアが開閉される音だ。

 はっとして飛び起きた、いつの間にかベッドで熟睡していた。


 時計は七時十五分だった。

 今の音は父が出勤して行った音だろう。

 くそ、なにやってるんだ。ほんとに情けない! 寝ている場合ではないはずだ。


 自室から出て階段を下る。

 リビングで母がテレビを見ていた。朝のニュースだ。

「おはよう、パンとゴハンどっちがいい?」と聞いてきた。

「パンかな……」

 母は立ち上がり、キッチンへ向かった。

 全身が気だるい。朝から暑いせいだ。はやくも蝉が鳴いている。

 冷蔵庫からアイスコーヒーを取り出し、グラスに注いだ。それをガブ飲みしてから、もう一杯注いだ。


「はー」

「つかれてんなら、寝てれば? 夏休みでしょうが」

 母は僕にはあまり手厳しい事を言わない。たぶん、姉がダメダメなお陰で僕は手の掛からない良い子としてみているからだろう。

 そういう意味では、姉は役に立っているなと思った。

 しかし、寝ている場合じゃない。何か行動をしなくては。


 朝食のトーストと目玉焼きを食べた後は特に考えも無く家を飛び出た。

 時刻は八時。社会人は夏休みなんてないから、バス停にはスーツが固まっていてバスを待っているようだった。

 バス停を見ると、いつもあの時の橘田さんが再生される。橘田さんと出会ったバス停はここではないが。


 そう考えて、あの時のバス停まで足を運んでみようかと思い立った。学校の傍のバス停だ。このまま通学路を通っていけば良い。


 少し歩いて違和感に気が付いた。

 その違和感が何かつかめなかったが、学校付近の交差点で赤信号に引っかかったとき、思い出した。

 迷いネコのポスターが無いのだ。昨日はここの電柱に貼り付けてあった。

 まさか、もう見つかったのか? このポスターを貼り出したのは昨日の事ではないか。貼ってその日に見つかったと言うのか、想像よりもこのポスターの効果は大きかったのだろうか。


 これでますます僕は途方にくれた。彼女にしてやれることは何もないのだ。

 彼女の誕生日まであと、十六時間。

 絶望した。あと十六時間で何ができるのか。いや、そもそも、何かするにしてもどうやって彼女に顔を出すのだ。僕は昨日フラれているのだ。


 ノコノコ出て行ける立場じゃない気がする。


 家に帰ろう。大人しく引っ込んでいよう。僕にはそれがお似合いだ。しかし、せっかく出てきた以上はアイスくらい買って帰るか。

 そのまま駅のほうまで足を伸ばし、コンビニに行こうと考えた。


 駅の方へ歩く途中、電柱の前で鞄を抱えてなにやら作業をしている女の子を見つけた。

 ここからだと後ろ姿で顔が見えない。どうも、電柱に貼り付けたポスターを剥がしているようだった。

 そのポスターは、橘田さんの迷いネコのポスターであることに気が付いた僕は、はっとした。


 彼女の私服姿を始めてみたからだ。

 白い半そでのパーカーで、手首には輪ゴムがまかれていた。下は黒いスカートでふわふわとした感じの涼しさをカンジさせる格好だった。

 靴はブルーのスニーカーで、なんというかすごくラフな印象を受けた。


 彼女は左手首に巻きつけていたゴムを(後で知ったがシュシュというらしい)手早く外して肩まで伸びていた髪をくくり上げ、持ち上げた。

 ポニーテールのお陰で、首筋が白く輝いて見えた。その動作の最中、僕の目線に気が付いたのか、眼が合った。目が、合ってしまったのだ。


 対して僕の格好はガラがプリントされたTシャツにGパン。足元は素足にサンダルだった。こんなことなら、もっとちゃんとして出て来れば良かった。


 ポカンとお互い見つめあう。その時間は何分も続いたかのような錯覚を覚えた。

 先に口を開いたのは僕だった。

「おはよう……」

 半身の身体をこちらに向け、彼女は眼を丸くしたままだった。

 鞄の中身が少し見えた。どうも、貼っているポスターを回収しているようだった。

「ポスター、もう剥がしてるんだね。見つかった、のかな」

「あ……うん……、や、えっと……ちがくって……」

 橘田さんはどう整理をつけていいのか分からない様子だった。僕はしばらく、次の言葉を待った。彼女にも気持ちを落ち着ける時間が必要だと思ったからだ。

 しかし、彼女の言葉は僕の予想を大きく外れたものだった。

「……昨日はごめんね」

 次は僕が混乱した。てっきり、ネコの行方の回答が来ると思っていたからだ。

 なぜ彼女が謝るのだろう。どちらかというと、こちらが謝るべきではないだろうか。

「そんな……そんな、こっちこそ」と、自分でも分からず、謝り返した。

 少し不思議だったのは、自分が思ったよりも落ち着いていると感じた事だ。今は寧ろ、彼女の方がテンパっているように見える。

「えっと、どこかいくの?」

 橘田さんが恥ずかしそうに尋ねてきた。その声も表情も仕草も、やはり可愛らしくて僕も照れた。

「いや、別に大したもんじゃないけど、そこのコンビニに、アイスでもって」

「あ、駅前の? 私もそこ行くんだ」

「えっ、あ、じゃあ、一緒にいく?」

 僕の声は一オクターブ上がった。

「あ、でも私、これやってるから……。いいよ先に行って」

 これというのは、ポスター剥がしだ。

 ポスターは剥がれないようにしっかりとめたせいか、随分と剥がすのがタイヘンそうだ。

「て、てつだおっか」

 おずおずと申し出た。

「悪いよ、いいから佐藤君はコンビニ行っちゃって。じゃあね」

 彼女は少しぎこちなく笑い、手を振る。そのまま、ポスター剥がしを再開した。

 この時、僕の脳内には選択肢が浮かんでいた。


 A、手伝う。

 B、言われたとおりにする。


 Bを選ぼうとする意思が僕の足をゆっくりと動かした。

 だけど、直前の彼女の言葉「じゃあね」が、彼女の横を通り過ぎる刹那に僕を立ち止まらせた。「じゃあね」ってどういう意味だっけ。別れの挨拶と言うのは分かるんだ。でも別れの挨拶もサヨナラとまたね、ではまた意味が変わってくる。

 サヨナラはもう会わない可能性を感じる。またねは、また会えそうな気がする。

 じゃあねって何だっけ……。

 それじゃあね、という言葉だ。それじゃあ何だ? それじゃあさようならなのか、それじゃあまたね、なのか?

 コンビニに用事があると彼女は言ってた。コンビニで待っていれば彼女はまたやってくる。また会えるじゃないか。

 それでどうなる? どうにもならない。あの雨の日から、今日まで学校で何度も話しかけようとした。でも出来なかった。

 その理由は分かっている。一歩が踏み出せなかったのだ。


 彼女の隣で足を止めた僕の一歩はどっちに踏み出せばいいのか、答えは出ていた。


「手伝うよ」



 時刻は九時を過ぎていた。

 ポスターは二人掛りで手早く作業していくことで、次々と回収できた。

「これで街の電柱に貼り付けたのは最後。後はお店に貼らせて貰ったのを回収するだけだよ」

「そっか。じゃ、行こうか」

「……じゃあ、駅前の喫茶店に行こう。暑いし、ちょっと飲もうよ」

「あ、うん。うん」

 なぜか、二回頷いてしまった。


 喫茶じゅげむ。何度か足を運んだ店だ。

 寡黙なマスターとよく喋るおばさんのウェイトレス二人だけの小さな喫茶店だ。

 中に入り、まず橘田さんはウェイトレスにポスターは剥がしてくださいと告げていた。

「見つかったのかい、よかったねえ」とウェイトレスが嬉しそうに言った。

 レジのカウンターにポスターが貼られているのを見つけた。そのまま窓際の席に案内された僕らは、対面に腰掛けた。

「私、アイスティー。佐藤君は?」

 朝、コーヒーをガブ飲みしたので、コーヒー以外が飲みたかった。でも、紅茶はちょっと好みじゃない。

「オレンジジュースかな」と発言してからしまったと思った。

 好きな女の子の前でオレンジジュースを飲む男が何処にいる。これではお子様扱いされてしまっても文句は言えない。唯でさえ童顔で小学生まで女の子と間違われていたくらいなのに。

 取り消そうとした時には橘田さんが、ウェイトレスに「アイスティーとオレンジジュース」と注文していた。


 その後、しばし沈黙が続いた。

 今度は橘田さんから口火をきった。

「ほんとに、つき合わせてごめんね。ここ、奢るから」

「え、いや良いよ! 出す、出す」

 思わずリアクションが大きくなりすぎた。

「でも、見つかって良かったね! いや、早く見つかってよかった」

 取り繕いながら僕はしどろもどろに言った。でも、その言葉を受けた橘田さんは苦笑いを浮かべるのみだった。

 また沈黙が訪れた。どうしていいのか、分からない。

 ウェイトレスがドリンクを運んできてから、飲むという目標ができて、少しほっとした自分が情けなかった。

 僕はオレンジジュースをストローでちゅうちゅうやっているが、橘田さんはアイスティーにまったく手をつけなかった。何かを考え込むように、虚空を見つめているようだった。


 からん。と氷が崩れた。


「あのね。私、ずっと逃げてたんだ」

 橘田さんはそう切り出した。何のことだろうと思ったが黙って聞くことにした。

「昔からね、大事なところになると、逃げ道を探したり、何かで身を守れないかって考えたりするんだ」

 その気持ちは良く分かる。僕もいつも何かのせいにできるよう、生きてきたような気がする。


「だから、いつも真剣に、まっすぐにぶつかれなかった。ぶつからないように避けてたの。ぶつかって痛い思いをしたくないから」

 僕は言葉は返さず、ひとつ頷いた。

 橘田さんは、アイスティーの氷をじいっと見つめている。

 その表情はとてもつらそうに見えた。この話を続けるのが彼女にとって苦痛なら、話さなくてもいいのにと、思ってしまうほどに。

「私、ずっと後悔はしたくないって考えてて、必死に頑張ってたの。……でも、後悔することってどういうことかって気が付いたらね、それは結局傷つかないように逃げ道を探してただけって気が付いたの」

 震えた声だった。何か言うべきか。でも彼女にはまだ話さなくてはならない言葉があるんだろうと感じたので僕はぐっとこらえた。

「私、()()()()()()()()()()()()()んじゃなくて、()()()()()()()()()()()()()()()()()

 彼女の言葉の意味は分からなかったが、彼女の胸の中は感じた。

 心が締め付けられるような感覚が聞いていた僕にも伝わってきたのだから、きっと、彼女はもっともっと苦しいのではないだろうか。

 そこで彼女は一息つくように、アイスティーのストローに口をつけた。

 からん。と氷が鳴る。僕は彼女の口元を思わず見つめてしまい、ごくりとオレンジジュースを飲み干した。


「だからね」と彼女は姿勢を正しながら言う。

「私、昨日の佐藤くんの顔、ぜんぜん見てなかった。見れなかったの。逃げ道を探してて」

 僕はいきなり自分の話が出てきたので、眼を白黒させた。

「さっき、一緒にポスターを剥がすの手伝ってくれた時、私、初めて佐藤君の顔を見たような気がする。変だよね、ごめん」

 作業中に……僕の顔を見ていたのか。気が付かなかった。僕はただただ、彼女の力になれることを見つけて、それに夢中になっていたから。

「佐藤君って、こんな眼をしていたんだなって、思ったの」

 どんな眼だ!? 僕は彼女にどう思われているのか分からず、何度も瞬きをしてしまう。

「眼差しっていうのかな、まっすぐで……なんかうまく言えないんだけど」

 僕は真っ赤になっていた。でも、それは彼女も同じように見えた。

 夏の暑さで二人ともやられてしまったのだろうか。だけど、グラスの中の氷はとてもひんやりしていた。からん。と気持ちのいい音を立てる。


「佐藤君。たぶん、私すぐには変われないかもしれない。また逃げちゃうかもしれない」

 そうだろうか、きっとそんなことはないと思う。僕は黙って彼女の眼を、見つめた。

 キラキラしていた。今まで、僕は彼女のことを可愛い、可愛いと思っていた。人を好きになるってこういうことかと、舞い上がった。


 だけど、今見つめた彼女の瞳は違った。なんて力強さなんだと感じた。

 そんな彼女なら、きっと逃げたりはしないのではないだろうか。そう思わせてくれた。

 だから、僕は彼女の言葉に始めて返答した。


「変わらなくていい。橘田さんは、もう逃げないから」

 彼女は変わらなくていい。だって僕はその瞳の橘田さんが好きなのだから。そう、はっきりと思い知らされたのだから。

 彼女はぽろぽろと涙をこぼした。驚いたような顔でぽろぽろと。


「橘田さん。好きです。僕と付き合ってください」

「……はいっ……」

 彼女の泣き笑った顔は、僕を男にしてくれた。僕も変わったのだ。だから、二人でやって行きたいと改めて思う。

 六月のお返しに今度は僕がハンカチを差し出した。


 ふと静かな店内を見るとカウンターの向こうでウェイトレスがサムズアップを送っているのが眼に入った。



 時刻は十一時に差し掛かり、残っているポスター回収の為に、僕と橘田さんは駅や店舗を回っていった。

 告白を受け入れてもらった僕は、正直のぼせ上がっていた。

 なんだか、世界がこれまでと違って見えた。

 橘田さんも、恥ずかしそうにしながら、共同作業は進んでいった。

「あとは……どこかな?」

「残りは学校の掲示板だね」

 橘田さんはそう言った後に、「あっ」と声をあげた。

「えっ、どうしたの?」

「学校に行くのに、制服着てこなかった……」

 いくら在学中の生徒とは言え、学校に行くときは私服は禁止されている。どうやら、彼女はうっかりしていたらしかった。

「学校のは慌てて回収しなくてもいいんじゃない?」

 僕はそう提案した。

「それもそうだね」と橘田さんは笑う。

 彼女の笑顔をこれまで離れたところから見ていた。こんな風に面と向かって彼女が笑っているのが、夢のように感じられた。

「じゃあ、とりあえずポスター回収はこれでおしまい。手伝ってくれてありがとう、佐藤君」

「あ、いや。こっちこそ」

 そうか、これで用事は終わってしまったのか。僕は少し物悲しい気分になった。もっと彼女と一緒に居たい。

「えっと……」

 橘田さんも、所在なげに視線を泳がせていた。

「そ、そう言えば佐藤君、コンビニでアイス買わなかったよね」

「え、ああ、ほら、喫茶店で飲んだし、もういいかなって」

「あ、そっか。うん、そうね。へへ……」

 橘田さんは、ぎこちなく笑いながらまた視線を泳がせた。僕は、そんな橘田さんを見つめていて、幸せを感じていた。彼女が愛おしくてたまらなかった。


 そう言えば、結局明日の彼女の誕生日、何をプレゼントするか決まっていなかった。

 今となってはカレシカノジョの関係なのだ。プレゼントをするのは、自然な状態だと思った。

 彼女にプレゼントは何が欲しいか聞いてみようかとアイディアが浮かんだ。

「橘田さん、何か欲しいものってある……?」

「へっ? な、なんで?」

「橘田さん、明日……誕生日、だよね?」

 僕の言葉に橘田さんはものすごく小さな声で「……なんで知ってるの……?」と真っ赤になって言った。

 メルアドから推測した、なんて言ったらキモいと思われるかもしれない……。

「た、たまたま聞いちゃって……」

「そ、そうなんだ。まなみと話してた時かな……」

 彼女は恥ずかしさにつぶれそうになっていた。さっきの喫茶店での告白の時、彼女がこういう雰囲気に弱い事は聞かされた。もしかしたら、今も彼女は必死に踏ん張っているのかもしれない。そう想うと、僕は彼女を抱きしめたくなった。もちろん、そんな事はしない。僕が恥ずかしがっていたら、彼女はもっと恥ずかしくなってしまうかもしれない。


「何かプレゼントしたいんだけど」

 僕はできる限り、自然な風を装い彼女に聞いてみた。

「そ、そんな、いいよ。気にしないで!」

「僕が、橘田さんにプレゼントしたいんだ。橘田さんを喜ばせてあげたい……」

「うううううううううう」

 橘田さんは熱で倒れてしまうのではないかというくらい、真っ赤になって見えた。表情はカチコチに固まっている。

「じゃ、じゃあ、佐藤君は何して欲しいですか?」

 なぜか橘田さんは敬語で聞き返してきた。

「えっ、僕は別に誕生日じゃないから……」

「さ、さとうくんの、誕生日……私、知らない……」

 橘田さんはもう支離滅裂だった。会話がどんどんあらぬ方向に飛んで行く。

「僕は、四月五日が誕生日なんだけど……」

 もう今年の誕生日は過ぎていた。

「過ぎてるじゃん!」

「う、うん」

「私、祝えなかったのに……」

 当然だ。四月五日はまだ高校に入学すらしていない。

「そ、それは仕方ないじゃない」

「仕方なくないから! 今から祝うから!」

「お、おちついて、橘田さん」

「佐藤君は何して欲しいの!」

 ダメだ、橘田さんは熱暴走してしまった。ともかく、どうにか落ち着かせるしかない。

「僕は、橘田さんと……ずっと一緒に居たい……」

「~~~~~~~!!!!」

 だめだ、もっとオーバーヒートしてしまった。もしかしたら、僕は彼女とは不釣合いなのかもしれない。

 このままでは、橘田さんがショートしてしまいそうだった。

「橘田さん、ごめん。無理には……その祝わないよ……。これじゃ喜ばすどころか困らせちゃってるし……」

「ううううううううう」

「ね、ねえ。そろそろお昼だし、お腹空かない? ゴハン、食べに行くのはどうかな」

 どうにか、この場から救済の道を導き出すために、僕はなんとか空気を変えなくてはと焦った。

「ペペロンチーノ、好き?」

 その僕の言葉に、橘田さんはまた小さな声で言った。

「……なんで知ってるの……」

 僕は失敗したな、と今度こそ反省した。


 結局それから、ファミレスに入り二人でランチを愉しんだ。

 橘田さんもどうにか、落ち着いてくれて改めて僕に語りかけてくれた。

「あ、あのね。ホントに誕生日プレゼントなんて、気にしなくて良いんだけど……、その……欲しいもの、ひとつ思いついたの」

 橘田さんはものすごく恥ずかしそうだ。その姿も可愛らしいと思ったが、そんなことを伝えると彼女はまたショートしてしまう。僕がしっかりしなくちゃ。そんな風に考えた。

「うん、何でも言って」

 彼女と居ると、僕は男になれたと実感できた。これまではいつも影に隠れて、主役になれず、誰かに譲っていた僕が。彼女の前だと、落ち着いて、護りたいと思えるのが不思議だった。

「……その……佐藤君の……使ってるものが欲しい」

「ふぁっ!?」

 素っ頓狂な声が出てしまった。

 ぼ、僕の使っているもの……?

「ご、ごめん! 今のナシ! 忘れて!!」

 橘田さんが掴みかかる勢いで取り消してきた。しかし、僕は驚いたけど、嬉しかった。

「いや、いやいや。いいよ、僕の使ってるもの……シャーペンとかでもいいのかな?」

「うん……。私、佐藤君のこと……全然分かってないから、知りたいの」

「そ、そっか。でも、どうしよう、何を上げようか悩むな。何かリクエストはある?」

「…………毎日使ってるものかな」

「まいにち……。歯ブラシとか……」

 と、言いかけて物凄く恥ずかしい事を言ったような気がして口をつぐんだ。

「あ……あのね。……まくら……が欲しいって言ったら……気持ち悪いよね」

 彼女は消え入りそうな声でプレゼントを提示してきた。まったく気持ち悪いとは思わなかったが、まくらを欲しがるとは想像もしてなかったので、かなり驚いてしまった。

「えっ、まくら? そんなのでいいの?」

「うん……」

 彼女の表情に少し影が差したように見えた。なんの理由もなくまくらが欲しいと言った訳ではなさそうだと考えた。

「いいよ。まくらだね。明日持って行く」

「ありがとう……」

 彼女は力なく笑った。

 その表情は、今までの恥ずかしさで浮き足立っていた彼女ではなく、もっと深い何かを感じさせた。それが何かを知りたい。彼女のことは全て知りたいと思う……。これが自分のエゴだとは分かっていた。

 それでも、今の彼女の表情は、あまりにもはかなかった。支えたいと思ったのだ。


「何か、理由があるのかな?」

 聞いてしまった。自分の欲求に耐えられなかった。自分はまだ……かっこいい大人には程遠いと思った。

 橘田さんは、笑っていた。薄氷のように。

「ポスター、回収してるのはね、見つかったからじゃないんだ」

 彼女の告白は、震えていた。

「うちのネコね、死んじゃったんだ」

 僕は、言葉がでなかった。てっきり見つかったのだと思い込んでいた。どんな言葉をかければいいか、さっぱり分からない。彼女はどんな気持ちでポスターを剥がしていたのだろう。

 僕が舞い上がっている時に、彼女はどんな想いを抱いていたのだろう。


「ごめん」

 それしか、言葉を出せなかった。

「佐藤君は謝らなくて良いよ。私、ポスターを剥がしてる時、にゃーまのお葬式をしてる気分だったの。誰もお線香なんて上げてくれない、私とにゃーまだけのお葬式」

 ――橘田さんは、喪主として、懸命に葬式を頑張っていたのか。

「私、独りでやるつもりだったんだ。にゃーまはあんまり大勢にお葬式して欲しくないんだって感じたから」

 そんな大事な事を僕がズカズカと入り込んで行ったせいで壊してしまったんだ。

「でも、佐藤君が手伝ってくれて、私分かったんだ。お葬式って死んだ人のためのものじゃないんだね。残された人の為のものなんだって気が付いた。佐藤君が懸命に手伝ってくれた時、ありがたくってしょうがなかった」

 ……彼女は笑顔だ。崩れそうな笑顔だった。絶対に泣かないと、強く誓っているのだと、なんとなく感じた。

「にゃーまってね。いつも寝るとき、私の布団で一緒に寝るの。私もなんだか、にゃーまがいないと眠れないんだ」

 僕は彼女が真っ赤になっていると思っていて気がついてなかったのかもしれない。

「……眠れなかったんだよ」

 彼女のまぶたは泣きはらしたのだろう。少し赤く染まっていた。

 そうか、彼女がまくらを欲しがったわけは、猫の代わりが欲しかったのかもしれない。自分とは違うぬくもりのこもった、一緒に眠れるパートナーが。


「うん、分かった。僕のでよければ、よろこんで」

「うん」

 僕と橘田さんはまだ付き合い始めて数時間の関係だ。

 それでも、二人はもう何にも負けない引力で引かれ合っているのだと信じてやまなかった。

 夏の昼下がりは過ぎていき、僕らは時間を忘れるほど、互いの事を感じあった。


 いつしか夕方になっていた。流石にそろそろ帰ろうかと、二人で夕暮れのバイパス線を歩いていた。

 明日もまた会う約束をした。「また明日」そう言って別れるだけのはずだった。


 僕らの歩く歩道の横を紅いレクサスが走りぬけた。随分とスピードを出しているようにも見えた。

 その時、並んで歩いていた橘田さんの足が止まった。

「どうしたの?」

 僕は橘田さんを振り返る。

 彼女の表情は『無』であった。無表情というのではない。人形のような眼をしていた。

「橘田さん……?」

 橘田さんは、ぽつりと何かを呟いた。

 周囲は車の通りが激しく走行音でその声ははっきりと聞き取れなかった。

 しかし、馴染みある単語は耳に残った。

「<フレーメン>」

 彼女はそう呟いた。

 すると彼女の瞳がエメラルドグリーンに煌めいたように見えた。ただ夕日の照り返しがそのように映しただけなのかもしれない。

 だが、彼女はその途端、恐るべき脚力で跳ねるように駆け出した。

 僕は何がなんだか分からなかった。


 分かったのは今の橘田さんは何かおかしいということと、<フレーメン>という単語だけ。


 宮島という人物の顔が一瞬浮かんだ。彼は<フレーメン>を調べていた。何か知っているのかもしれない。

 僕は橘田さんを探すべく、駆け出した。行かなくてはならない、そう感じたからだ。


 その時の僕を突き動かしたのは、<愛情>という能力だと、後ほど、宮島さんは僕に言ってのけた。

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