タレコミ屋のミヤ
七月二十日。
クーラーの温度を最低にして、風量マックスのガンガンに冷やした部屋で俺はネットを見ていた。
見ているのは、ペット殺しの記事だ。五件目の被害が出たとかで、それなりの騒ぎになっているようだ。
犬猫を殺して何が面白いのやら、犯人の思考は俺にはサッパリだった。
しかし、同じ事件が五件も続くとなると、ネタとしてはかなり面白くなってくる。誰もが、こんな残虐な事をやっているのはどこのどいつだと気にする頃だろう。小さくため息をつく。
――まったく当てが外れたな。
この俺、宮島幸太はネタを売る自称『タレコミ屋』だ。
かっこよく言うと情報屋とかになるんだろうが、どうにもクサくて好きになれない。俺はタレコミ屋って呼び名に愛着を持っていた。
綺麗な言葉よりも、ザラついた言葉のほうが信頼されるというのも持論だ。
俺はペット殺しの情報を仕入れるためにある仕掛けを施していた。と言っても、気まぐれに仕掛けたちょっとした遊びのようなものだ。例えるならヒマが出来たから、一円パチンコでも打つか、みたいなノリのもの。
だから、期待はしていない。当りがきたとしても、それが対したネタになるとは考えていなかったのだ。
そんなある日――、
今から数えて約二週間前に青い首輪を着けた黒猫を見つけた。どうやら放し飼いにしているようだ。
これだけペット殺しの事件が起こっているのに、自分の家の子は大丈夫とかそういう事件は遠い世界の話くらいにしか考えていない飼い主なんだろう。
まさに、この黒猫はペット殺しの格好のマトではないだろうかと考えた。
そこで、俺はその黒猫をなんとか呼び寄せ(コンビニで買った魚肉ソーセージをエサにした)、ひっ捕まえてから首輪を確認した。首輪には住所も名前も書いてない。
どこの飼い猫だか、これでは分からない。オスのようで、去勢もされていなかった。
まぁ飼い猫の活動範囲ならそこまで広くはないだろうし、この辺りに飼い主の家もあるんだろう。周囲は住宅地で多数の家が軒を連ねている。
少し歩くと高校、水処理所、病院。それから廃棄された工場なんかがある。貯水池の傍には小さめながらも立派な芝生が敷き詰められた公園があり、天気のいい日はマットを敷いて日光浴を愉しむ人もいる。坂を下っていくとバイパス線に出て、レストランやら居酒屋なんかが並んでいる、住みやすい地区だ。
さて、ネコだが、俺はこのネコの首輪に特性のマイクロGPSロケーターを忍ばせた。スマホのアプリを立ち上げるとネコの居場所がマップ上に表示されるというワケだ。このネコをまんまとペット殺しが誘拐してくれれば、しめたものだ。
犯人は、五件ともペットを殺している。ノラは狙わないらしい。
それから、殺した後は飼い主の家の近所に遺棄する。対象は小型の動物。ネコが多いのは攫いやすいからだろうか。
そういうわけで放し飼いのネコが狙われるのではないかという推論の元、俺はまさにピッタリのエモノを見つけたわけだ。戦果の期待は七割ってところだろうか。自分で言うのもアレだが、その時は来ると言う予感があった。
GPSを仕掛けた後は、そのネコの行動パターンを確認した。どうも夜から朝にかけては、本来の飼い主の家で過ごしているらしく、朝から昼は少し移動した先のアパートの駐車場で昼寝をしているらしい。その後夕方頃には、ウチのマンション付近をうろついてから、また自宅へもどるという活動パターンのようだった。
俺は定期的に確認を行うために、ウチのマンション付近に来た時に魚肉ソーセージを上げ、餌付けを行っていた。
『ネコ』というのもアレなので、一応名前をつけた。我輩はネコであるから頂戴し、『夏目』と名づけた。
それからは、GPS確認をヒマなときに行っては異常がないかを調べていた。
夏目には何事もなく今日まで時間は過ぎていく。ペット殺しは夏目には手を出さず、別の家のネコを殺したらしい。
――こいつは失敗だったなと思った。
そして、次に黒猫がここにやってきたら、GPSは外してしまおうと考えた。
そんな具合にスマホのGPSアプリで異常がないことを確認した時に、スマホに着信があった。
画面には宇津木と表示されている。宇津木は俺のお得意様の探偵だ。とはいっても、カタギ向けの探偵ではなくちょっとした裏の人間向けの探偵だ。なんでも木村組とかいうヤクザとパイプがあるらしく、俺に求めてくる情報もブラックな情報ばかりだった。
「はい、まいどタレコミ屋です」
「よう、ミヤ。ちょっと聞きたいことがある」
神経質そうな声が聞こえてきた。
「ええ、イイですよ。それじゃあ、いつもの喫茶店で」
それだけ告げて通話を切る。電話でアポを取り、実際の商談は会って行う。これは相手が宇津木だからというのもある。要するにお得意様対応というわけだ。
駅の傍に構える個人経営の喫茶店『じゅげむ』にやってきた。マスターのおやじとその奥さんでやっている小さな喫茶店だ。俺はここの常連で、商談をするのも大抵ここでやる。
マスターは俺が何者なのかも知った上で、ここに居つかせてくれている。たまに、俺と客の仲介なんかやったりして、まるで昔のハードボイルド小説のキャラクターのような状態だった。
店に入ると、すでに宇津木は奥の席でアイスコーヒーを飲んでいた。夏らしくタンクトップにハデなピンクのシャツを羽織っている。下はカーゴパンツとパッと見たらチンピラにしかみえない。
俺はそのまま宇津木の席に同席し、マスターにはブレンドを頼んだ。俺は夏でも冬でもコーヒーはホットしか飲まない。ただのこだわりで、意味は無い。
「こんちは。今日はどういう話で?」
宇津木は俺の顔を切れ長の眼でじろっと見てから、「<フレーメン>って聞いたことあるか?」と聞いてきた。
<フレーメン>……。たしか、ネコ科の動物が臭いを嗅ぐ時の行動だかなんだかだったと思うが……。宇津木がそんな事を聞いているのではないと察しは着く。
「すいませんが、<フレーメン>だけじゃ、どうにも」
「クスリだよ」
つまり違法ドラッグの名前か。残念だが、<フレーメン>なんてドラッグは聞いた事がない。
俺は首を横に振った。
「ガキの間で回ってるらしい。特に女だ」
女に……? 珍しい話だ。
「どういうクスリなんですか?」
「ホレ薬って話だ。ただ、これは相手に飲ませるんじゃなく、自分で飲むタイプだ」
「飲むってのは?」
錠剤なのか、粉末なのか。口に含むのか鼻から吸うのか。ドラッグも使い方は色々だ。
「言葉のアヤだ。正直、どんなクスリかさっぱり分かってない」
宇津木はめんどくさいといった表情で、眉間の皺を増やす。
「あるのは確かなんですか?」
「女子高生が、フラフラと夢遊病のように出歩いてって、夜サツに補導された。その女子高生の様子が情緒不安定で薬物中毒者に特有の言動をするって事例がここ一ヶ月で三件出てる。それでマル暴に痛くもない腹を探られることになってるんだよ」
なるほど……。宇津木が厄介になってるヤクザのシマでワケの分からないヤクが出回ってるから、調べてバイヤーを締め上げたいのだろう。
「その服用者に聞いてみたんですよね?」
「ああ、知らないの一点張りだ。それにどうもウソをついてるようには見えねえ」
宇津木はそう言って、資料を鞄から取り出しこちらに渡した。資料はその女子高生のものだった。
名前は森川詩織。十八の高校三年生か。すぐそこの高校の生徒だ。写真を見るとずいぶん地味な顔の女だ。
こう言ってはなんだが、クスリをやるようなタイプには見えなかった。しかし、話ではホレ薬と言うことだし、そう考えると女子高生なんて生き物はどいつもこいつも欲しがりそうな物だろうか。
おっと、こいつは偏見だな。偏見はよくない。情報が曇ってしまうからな。
「<フレーメン>って名前はどこから出てきたんですか?」
クスリの通称としてはなんともしっくり来ない名前だと考えていた。
「出所は不明なんだが、その女子高生はそういう名前のドラッグがあるとウワサを聞いたとか言ってたぜ。ウワサは結構広まっているらしい。主に若い女の中でな」
ウワサのドラッグね……。なんとも胡散臭い話だが、そういうことであれば、確かに俺の出番だろう。
「ともかく、このシマでクスリが出回ってるなら、情報を仕入れろと言われてる。なんでもいい情報を集めろ」
「クスリの正体とバイヤーですね。お任せを」
宇津木から封筒を受け取る。中身は依頼料だ。俺は料金前払いで仕事をしている。結果が出せない場合は料金は返すと言うスタンスだ。こんなカタチでもそれなりに商売としてメシが喰っていけているのは、やはり俺の情報に対するプライドと信念があるからだと思っている。このタレコミ屋は職人業なのだ。
宇津木と別れ、情報を集めるためにどうするか考える。若い女に人気なのであれば、やはりそのあたりから情報を仕入れる必要がある、とりあえずナンパでもするか。
これでも容姿には自信がある。情報を仕入れるためには見た目というのは実に大事であるからだ。
それから声をかける対象は頭の悪そうな女だ。その辺の街路樹と比べて頭が悪そうだなと思った女に声をかけるのがベストだ。
駅付近にはゲーセンがある。そこのプリクラコーナーが狙い目だ。男性だけの入場禁止、ナンパ禁止などと注意板が置いてあるんだが、大体ここで女が釣れる。
俺は体が目的ではないからだろう声をかける女性は素直にこちらの相手をしてもらえる。そのままの通り話を聞きたいだけなのだ。がっつかないのが大事だ。
だから、女性に「少し聴きたいことがあるんだけど」と尋ねてみると、次々と話を聞かせてくれた。女はやはりウワサや流行に敏感だ。
案の定、そこで三人組の女子高生グループに出会った。もうすぐ夏休みも近いし開放的な気分になっているせいだろう。簡単にナンパに乗ってきた。
少女達三名にさっきの服用者の少女『森川詩織』の名前を出し、知っているかと尋ねる。
三名のうちの三名とも知っていると言う。同じクラスだと言う。
ということはこの三名は三年か。三年の夏にゲーセンで遊ぶ余裕があるとは流石に俺が眼をつけただけはある。
ともかく、知っているなら話は早い。<フレーメン>について、聞き込みを行わせてもらおう。
「その森川さんだけどね。<フレーメン>ってクスリをやってるって聞いたんだけど」
「あーうん、そうそう。そんなウワサになってるよね」
茶髪セミロングの少女が言う。
「でも、あいつそんなのやるタイプじゃないっていうか、オタクだったよね。正直意外なんだけど」
少し太めの金髪が下品に笑いながら言う。
「オタクだったんだ。アニメとか好きだったのかな」
「そうみたい。アニメとかゲームのキャラの色んなグッズ持ってたよね」
近くにあるクレーンゲームの景品を眺める。
『アイドル☆ライブ!』というタイトルポスターが筐体に張ってあり、景品にはフィギュアが並んでいた。フィギュアのキャラクターの名前は『橘田エリス』という。この作品の中では不人気キャラだという情報を持っている。
別に俺がオタクとかアニメ文化が好きなわけではなく、情報として知っているだけだ。……誰に言い訳しているのだ、俺は。
「でも、あいつオタクのくせに最近やけにモテてなかった?」
……と、三人目の女子が口を開いた。黒髪ストレートだが、ハデに胸元を開き、短いスカートからは男を誘う脚を伸ばしていた。なんというか、援助交際やってますという見本のような女だと思った。これも、偏見かもしれないが。
「それってやっぱ<フレーメン>の効果じゃないのー?」
「モテてたってのはマジなのかい?」
「うん。間違いないよ。六月になってからやけに男子から声かけられるようになってさ。あれ、そういえば……<フレーメン>のウワサも六月くらいからじゃなかった?」
「違うって二年の頃からあったってば」
「二年はねーよ。四月の……新学期からだと思う」
……いつからウワサが広まったのか……か。それは重要かもしれない。
「そのウワサに詳しい子、いないかな」
三人とも顔を見合わせる。
「あたしらは分かんないけど、詳しい子いると思うよ。分かったら報せて上げようか?」
太めが言う。利用させてもらおう。
「頼めるかな? 連絡はこれにくれると嬉しい」
俺は太めに名刺を渡した。電話番号とメールアドレスが記載されている。ちなみに『タレコミ屋』とは書いてない。『タレコミ屋』の名刺は作っていない。今渡した名刺のアドレスなどは、使い捨てのアドレスなのだ。
「やり~! あたし、佐藤一美ね。ヒトミでいいよ」
太めこと佐藤は頼んでいないのに自己紹介までしてくれた。どうも、眼をつけられていたようだ。どちらかといえば、茶髪のミドルが好みだったのだが。いや、ナンパは目的ではなかったが。
結局そこまで分かったことはない。少々状況を整理しよう。
分かった事は<フレーメン>というクスリの話はウワサ程度に聞いたことがある。どうやって手に入れるのか不明。
でも急にモテるようになった子がいるのは確か。本人にはクスリを使ったという自覚がないらしい。
宇津木も言っていたが、クスリをキメた人物に、使ったという自覚がないというのは、ヒントになりえる。
つまり、薬品を摂取するような行為を必要としないのかもしれない。注射器を使ったり、口や鼻から摂取していないが症状が発生するということか。
それとも、本人の意識のないうちに薬物を打たれたか。しかし、その可能性は考えづらい。
結局この日はろくな情報は入手できなかった。
ナンパした女、佐藤一美は分かり次第連絡をくれると言っていたが、期待はまったくしていなかった。
自宅に戻って来る途中、自宅前の空き地に夏目がいないことに気が付いた。この時間ならいつもここで俺のソーセージを待っているはずだったが。
アプリを立ち上げ、GPSを確認する。少し近くの集合住宅地付近にいるらしい。
いつもここに来るという分けでもない。雨の日は行動範囲が狭いこともある。まぁ、今日は晴れだが。
そこまで気にしなくてもいいだろうと俺はクーラーで冷えた自室恋しさに、その日はそのまま帰ることにした。
◆
七月二十一日。
<フレーメン>の情報を集めることに集中するため、行動を本格的に行うことにした。
薬剤系の情報を仕入れ、現役のバイヤーからも話を聞いてみたが、<フレーメン>のことは分からなかった。
次に<フレーメン>を使ったと目されている少女達の周囲、友人や近隣住民に接触を取った。
現状で分かったのは三名。一人は森川だが、残りの二名もやはり同じ高校の女子だった。
周囲の人間の話ではどの少女も近頃、異性に非常にモテるようになったのは間違いない。それから、行動的になったとのこと。またフラフラと出かける事が増えたと言う。それは主に五月あたりからと言う情報を仕入れた。
どういうことだろう。クスリで言えばアッパー系か。
一つ閃いたのは、香水だ。異性をひきつける香水というのは実際にある。そこで香水をつかったことはないか調べ上げてみたが、香水を利用したという記憶もないらしい。麻薬中毒者はクスリの臭いが体にこびりつき、それらしい香りを漂わせているが、そういう香りを感じたこともないと周囲の人間は言っていた。
当人達に直接会って話すのもいいが、当人達が揃って記憶にないというのだから、真実を隠しているにせよ、ただ話しを聞きに行くだけでは情報は得られないだろう。
結局クスリの影すらつかめない。
そんな折、昨日の女から電話があった。太めの佐藤だ。
「もしもし、宮島です」
「あ、幸太ー? あたし、ヒトミ」
……いきなり呼び捨てとは身体だけでなく神経も図太い。しかも下の名前だ。内心呆れながら冷静に対応する。
「やあ、昨日は済まなかったね。何か分かったのかい?」
「<フレーメン>の事は全然ダメェ。ほんとにそんなのあんのってカンジー?」
じゃあ、なんで電話して来たんだ。期待をしていなかったとは言え、こいつは本当に調べたのかよと疑いたくなった。電話をさっさと切ろうと、「今は忙しい」と告げようとしたところ、
「でもサ、ちょっと面白い話聞いてサ~。ねえ、気になるっしょー?」と佐藤が馴れ馴れしく聞いてきた。
「……それが<フレーメン>に関係あるならね」
「じゃあさー、今から会えない?」
……なるほど、話をタネに俺に会う口実にしたのか。どうも、俺は彼女に完全にマークされたらしい。面倒でしかない。会ったところでその面白い話がどの程度のものか……。
「確認するけど、その面白い話って言うのは<フレーメン>に関係があるんだね?」
「<フレーメン>の事は分かんないってゆったじゃん。そうじゃなくて森川のこと」
「森川……<フレーメン>服用者の?」
……どうも、それなりに行く価値はありそうだ。結局、俺は彼女と駅前で待ち合わせる事になった。
夕方の十八時と言うのに日はまだ落ちず明るい。駅の南口、階段付近まで行くと佐藤が居た。その姿を認め手を上げるとあちらから寄ってきた。
「待ってたよ。暑いからどっかはいろ」とさっそく自分のペースで勝手に決める。
しかし、暑いのは同意する。結局俺は行きつけの『じゅげむ』へ行こうと提案した。
「オッケ。……ほら、いくよ。何してんの」
彼女は後方へ振り向いて声をかけていた。すると日差しの影に隠れるように制服姿の男子高校生が棒のように立っていた。
……意外だ、まさか連れが居たとは。しかも男とは。てっきりこの佐藤は俺とデート気分で俺を呼び出したのだと思っていたからだ。
「彼は……?」
佐藤は男子に向かい「挨拶しろよ」と命令した。どうも佐藤の方が立場が上らしい。男子は目線が終始、下を向いていた。
「コイツ、あたしの弟。善久」
弟だったのか。まったく似ていない。弟はスマートというか、寧ろガリガリといった体系だ。しかしなぜ弟が出てくるのか。
佐藤弟はペコリと頭を下げるだけであった。
『じゅげむ』に入り、適当な席で腰を下ろした。
「さっそくで悪いんだけど、話の内容を教えてくれ」
「ホラ、ヨシ。おまじないの事、話せ」
おまじない……? 俺は弟の顔を見直した。ずいぶんと童顔だ。高校の制服を着ているから高校生だと分かるが、私服だと中学生にも見えないかもしれない。
「ええと、ウチの高校に、恋のおまじないが、あるんです」
弟はぽつりぽつりと語りだした。
「通学路に使う、遊歩道があるんですけど、そこの道端に小さな、鳥居が、あるんです」
……何の話をしているんだ、このガキは。俺は<フレーメン>の情報を聞きに来たのではなかったか。
「すまないけど、何の話だ? おまじないってどういうことだ」
佐藤姉に確認した。
「森川がね、そのおまじないやってたんだって」
俺の眉がピクリと動いた。なるほど、脈絡はあるわけだ。俺は右手を差し出し、「どうぞ続けて」と弟を促した。
「その、小さな鳥居にお祈りすると、恋愛がうまく行くって、ウワサが学校内で広がってるんです」
……ウワサ……。<フレーメン>も元々ウワサだ。つまり、この符合は意味があるかもしれない。
「それで、そのおまじないを始めてやったのが、三年の森川って……聞いてます」
「そのおまじないを、森川がやったのはいつの話しか知っているか?」
「春休みだって、聞いてます」
少し考えながらもハッキリと回答してくる佐藤弟。どうも、こいつはこの『おまじない』のことに関して、随分詳しいようだ。この手のウワサは女子のほうが詳しいかと思ったが……この姉弟に関しては性別が逆のほうがお似合いだったのではないかと思われた。
「どういうおまじないなんだ」
「小さな鳥居に、おいのり、するってことしか……」
「お祈りって具体的に何をするんだ」
「さ、さあ? 分からないんです。ただ、お祈りするとしかウワサは聞いてません」
肝心のところになってくると曖昧になる。実にウワサ話の典型だ。結局はっきり分からないところは個々で脳内補完を行い、そしてこんなハンパなドラッグのウワサやら『おまじない』やらに繋がるのだ。
「それを試した人間はどのくらい居る?」
「分かりません……。でも面白半分でやってる人はよくいるみたいです」
「おまじないってのは、効果覿面なのか?」
その質問をすると、佐藤弟は苦笑した。その仕草はまるで乙女で、隣に座る姉とつい見比べてしまう。
「その、僕が言い出しといてなんですけど、おまじないなんて、効くとは思ってないと思います、みんな。でも、告白するときとか、何かに勇気を貰いたいというか、願掛けしたくなるじゃないですか」
「……つまり、おまじないの効果はない、というわけか」
佐藤弟は首を横にゆっくり振った。
「まるっきりないとは、言えないです。現にそれでモテたって言ってる人がいますから。それが森川先輩です」
「他におまじないでモテるようになったってヤツはいるんだろう? そうじゃないと、ウワサにならんはずだ」
「は、はあ……。他には二年の先輩が二人、おまじないで人が変わったようになったって……」
それは俺の嗅覚に、ツンとくる一言だった。
「どんな風に変わった?」
「自信が湧いたとか、前向きになったとか、人付き合いがよくなったとか、そんな感じの事を聞いてます」
<フレーメン>の症状と一致する。
「しかし、効果が無かった人間もいるんだな」
「はい……おまじないの仕方が違ったんですかね……」
おまじないの、仕方か。具体的に何をしたのかをハッキリさせたいところだ。
「ちなみに、弟くん。キミは<フレーメン>ってのは知ってるのかい?」
「知りませんでした。昨日、ねえちゃんから聞いて、初めて知りました。でも、その<フレーメン>のウワサの話を聞いて、僕の知ってるウワサと似てるなと思って、このおまじないの話をしたんです」
「あたし、おまじないとか、キョーミないからさ」
佐藤姉は下品に笑いながら云った。ああ、そうだろうなと俺は内心相槌を打った。
これはひょっとすると、学校内で『モテる』というウワサが広がり始めて、それが『おまじない』というオカルト系と<フレーメン>という都市伝説系に分かれたのではないだろうか。
結局俺は、喫茶店でのお茶もろくに味わわず、その鳥居に案内するよう佐藤弟に頼んだ。佐藤弟は承諾し、佐藤姉はなぜか自慢げな表情で俺見てニヤついていた。
そこへ案内してもらうと確かに道の脇に小さな鳥居が設置してある。この汚い鳥居にお祈りをすればいいらしい。
「ふうん、なんでこんなものにお祈りをするんだか」
俺は鼻で笑った。
事実、こういった鳥居はゴミ捨て禁止やイヌのフンを持ち帰れというような、警告文の代わりに設置している。別に神様が祭られているとかそういうのではないのだ。信心深い人間には、鳥居があるだけでそこは神聖な場所と認識し、ゴミ捨てなんかやってるとバチがあたると思い込んで、ゴミを捨てにくくさせるという目的のために設置されている。
ここの場合はおそらく糞害に悩んで設置したのだと思われる。この遊歩道はイヌの散歩道として、飼い主がよく散歩をさせているからだ。
つまり、この鳥居はクソまみれの看板というわけだ。なぜこれが恋愛のおまじないになったのかは分からないが、なんとも滑稽だ。
しかし、実際はこの鳥居に祈ることで<フレーメン>の症状がでている。
「この鳥居は結構有名なのか。試した人間はどのくらいだ」
「そこまで有名じゃないかと。最近できた話題みたいで、うちの高校だけのジンクスっていうか、遊びみたいなカンジです」
ここで『おまじない』をした人間のうち三人が<フレーメン>症候群を発生させている。情報を掘り下げるためにも、より具体的な情報が欲しい。
「<フレーメン>の症状が出た三人の少女がここで具体的に何をしたのかを知るべきだな」
「どんなお祈りをしたのかってこと?」と弟が話しに乗ってきた。
姉の方は興味がないらしくケータイを弄っている。正直、姉のほうはもう用無しだろう。俺には弟の方が利用価値がある。上手い事利用してみよう。
「そうだ弟くん。詳しい『おまじない』が分かるかい?」
「ちょっと時間をくれたら、僕調べます」
佐藤弟はずいぶんとやる気になっている。少し気になった。なぜこの少年はここまでこの『おまじない』に食いついているのか。
「コイツ、今度クラスの女子にコクるつもりなんだよ、マジうける」
聞かずとも姉が勝手にネタバレをしてくれた。弟は顔をしかめるも、姉に反論はしないらしい。姉に言い返しても負けると分かってのことだろうか。
しかし、彼の動機は分かった。あわよくば彼もその恩恵に肖るために、そのおまじないの方法を確定させようというのか。だが、分かっているのだろうか。これは<フレーメン>症候群を発生させるということを。ハマりすぎると、ヤバイものだということを。
とは言っても、まだこれが<フレーメン>と関係するかは分かっていない。こちらとしても検証は必要だ。彼をモルモットにするというのは悪くない。
「よし、頼む。さて、こちらも悪魔の証明の準備をはじめるとしますか」
「悪魔の証明?」
弟が首を傾げる。俺はその汚れた鳥居を見下ろしながら歌うように気取って教えてやった。
「悪魔なんていない、とは誰も証明できないということさ」
◆
七月二十二日。
『おまじない』の線は佐藤に任せ、俺はやはりドラッグの線を探っていく必要がある。これは宇津木への報告のために必要なことだ。
つまり、今回の騒動は『ドラッグが原因ではない』という証明をするための材料集めだ。フレーメンの使用者を診た医師の診断では、薬物依存症のような精神疾患が目立っているが、体内に薬物反応はないという診断だった。血液検査を行っても異常がないのだという。
しかし、彼女の心身の異常は明らかであり、どこかに異常が見られないと不自然だという。つまり、正常なことが不自然というのだ。
まるで、トロイの木馬のようなウィルスが人体に潜んでいるようなカンジをうけるという。
医者でも不明確な状態というのはすなわち、やはり特異性があるということだが、これでは結局分からないことだらけになってしまった。行き詰ったところで気分転換に夏目のGPSを確認してみた。
「……?」
動いていない。夏目の反応は昨日確認した場所から移動していないのだ。
もしや、誘拐されたか? 当初、GPSを仕掛けた目的を思い出していた。
そうなると、この場所がペット殺しの犯人の居場所かもしれない。もしくは、すでに死んでしまって捨てられているか?
俺は急ぎその場所へ向かった。
そこは区民会館として使われている建物のある小さな公園だった。人が住まう場所ではないということだ。周囲を探してみると、青い首輪が落ちているのを見つけた。
「ちっ、感づいて外してから誘拐したか?」
おそらく、ペット殺しが誘拐するにあたり、首輪に着いていたGPSに気が付き、首輪を外して捨てたのだろう。
これでペット殺しの事を追う手立てをつぶされた。しかし、ペット殺しの情報集めは、まだそこまで重要ではない。今の俺には<フレーメン>の方が重要事項だ。ペット殺しは、ちょっとしたヒマつぶしのための材料集めでしかなかったのだから。
俺は首輪を回収し、家に帰った。
その夜、佐藤弟からの報告で『おまじない』の具体性を確認したという。どうやら、三人の少女はみな、鳥居の土を持ち帰ったそうだ。まるで甲子園の土を持ち帰る球児のように、持ち帰れば何かご利益があるかもしれないという行為だったそうだ。
鳥居ではなく、周囲の土。
ソファに身をうずめて考えをまとめながら、夏目のために買っていたソーセージを齧った。意外に美味くて一本ぺろりと食ってしまった。
なるほど、夏目が病みつきになったのも頷ける。……夏目はいつも夕方頃にウチのそばにやってきていた。
このソーセージ目当てでやってきていたのだろう。あいつの行動範囲はチェックしていたが、この時刻なら本来は飼い主の家で寝ている頃だ。
持ち帰った首輪をぼんやりと見つめていると、何か心の中にざわつくものを感じた。自分がムカついているのだと気が付いた。
……ふと、俺は一つ思いつき、呆けていた思考回路をつなぎ合わせる。
ソファから体を持ち上げて窓から外を見回す。パソコンのモニターはネコの事に関するネット記事で一杯になっていた。俺が夏目に出会ったのは、偶然ではなかったのだろうかと夜景を見ながらほんの少しだけ感傷に浸った。
◆
七月二十三日。土曜日。
夜、俺は夏目の行動範囲内を調べて回っていた。日付も変わろうかという時刻に、女を見つけた。
その女は帽子をかぶり、顔がはっきりとは見えなかったが、そのウデに抱きかかえる黒猫を見て、「やはりな」と思った。
女はそのネコを抱きかかえ、廃工場へ入っていった。人気のいない廃工場の中に入ったときに俺は彼女に声をかけた。
「あんたがペット殺しの犯人かな」
相手は答えないが、こちらの声は届いたようで振り向いた。こちらの様子を伺うように俺をジロリと観察する。
「いいや、違う」と女は返事をした。感情を感じさせない声だった。
明かりの点らない廃工場で、俺の持っているペンライトが、相手を照らした。
その顔を認めて俺は驚いた。その顔に見覚えがあったからだ。それは森川詩織だったのだ。
「森川詩織だな?」と確認を行った。
「私の名前はペトロニウス。ピートと呼んでくれ」
帽子の女はそう名乗ったが、明らかに森川詩織だった。だが、その雰囲気は異質だった。口調には抑揚がなく、どこか機械的だった。人間味がまるで感じない表情をしている。
俺は『ピート』と名乗る少女が抱く黒猫を見つめながら、
「だったら、俺はチェシャネコとでも呼んでくれ」と相手に合わせた自己紹介を行った。
ともかくは、話を続けることが大事だ。俺自身、現状の把握はサッパリ出来ていなかったが、スキを見せるのは性に合わない。俺はなんでも知っているんだぞという衣装を着込むことが大事なのだ。
「ペット殺しは、いつも日曜の朝に死体が飼い主の自宅傍で見つかっている。土曜の夜から近場を張ってれば会えると睨んでいた」
余裕の笑みを見せつけながら、相手の出方を待つ。しばらく沈黙が続いた。
「……そういうことか。発想は悪くないが、少し遅かったな」
あちらも随分と上から目線な返答だった。
「遅かったって?」
「この黒猫はさきほど、殺した相手が遺棄した。それを私が拾い、運んでいたのだ」
「それは……なんでかな?」
女は表情を変えず、口元を機械的に動かし喋る。正直不気味だった。表情に汗は見せないようにしたが、シャツの中の背中はびっしょりと濡れていた。
「この黒猫の遺志だ。誰にも自分の死体を見つけて欲しくないといっていた」
「あんたはネコの言葉が分かるのか?」
帽子は頷いた。電波な会話だ。実にナンセンス。イっちまってる。これでは薬物中毒というより、思春期を拗らせた病の方が頷ける。
「このネコは死ぬ間際まで自分がこの世界に対し、何も影響を与えないようにと考えていた」
俺が若干呆れ始めたのを余所に、帽子の『ペトロニウス』は語り始めた。
「自分が死ぬことで世界が変わることを嫌ったのだ」
帽子の『ペトロニウス』は目線を胸の傷ついたネコに落し、それでも表情は変わらなかった。
「彼は世界が好きだったのだ」
帽子の『ペトロニウス』は良く分からないことを言う。
「言ってるイミが分からないな。そういう言い回しはキライじゃないが」
あの太めの佐藤と話すよりは、という前提がつくが。
帽子の『ペトロニウス』はまなざしをこちらに投げて、一呼吸の後、言った。
「愛情だよ」
『ペトロニウス』は機械であり奇怪な音で、もっともこの場に似つかわしくない単語を吐き出した。
「俺にはまったく理解できない類の言葉だ」
「キミにも愛情があるはずだ」
思わず俺は吹き出した。
「へえ、あんたはネコだけじゃなく、俺のこともわかってると?」
「愛情がなければ、ネコに名前をつけたりはしない」
ギクリとした。なぜ、俺がその猫に夏目と名づけた事を知っている。俺は一度だって人前で夏目の名を呼んだことはない。唯一、猫に対して話しかけたときを除いて。
「……お前、そのネコと俺のことを知ってるのか」
「知っている、見ていたから」
見ていた? 見られていたのか? そんなことはないはずだ……。しかし……。
「どういうことだ、お前はなんなんだ? <フレーメン>でパーになってんじゃないのか」
今だって十分異様ではあるが、ドラッグ依存症の人間のそれではない。
「<フレーメン>とは、私が広めた言葉だ」
「お前が? だが、聴取では<フレーメン>なんて知らないと」
「この体の娘は知らない。『ペトロニウス』は知っている」
これは……、まさかその言い方からすると……。
「さては二重人格者ってやつか?」
「二重人格とはなんだ」
マヌケな返事が機械声で再生された。表情は変わりない。口の筋肉だけ動かしているような感じだった。
「同じ身体のなかに二つの精神が宿っている人間だよ、お前みたいなヤツのことだ」
「私は多重人格ではない。的確な表現をするなら私はヤドカリだよ」
ヤドカリ……なるほど、宿借か。そうなると、俺の推論は当たっていたということか。
「悪いけど、お前のことはあまり興味がない。そのネコをどうするのかを知りたい」
「処分する。燃やし、骨にし、埋める」
「それは困る。俺はそのネコの死骸を調べなきゃならない」
「それはならない」
言うと、帽子女が人間業とは思えないアクロバットさで建物の中を跳ねた。三角跳びのように、部屋から部屋へ飛び、あっという間に俺から距離を取った。
「待て!」
廃工場内を追いかけ、建物の三階奥の部屋まで辿り着いた。帽子女はネコを抱いたまま、こちらに向き直った。このまま逃げ去るのかと思ったが、意外にもヤツは待ち構えていた。
「なぜ、ネコを追う」
彼女の声には凄味があった。だが敵意は感じなかった。殺意と言い換えてもいいかも知れない。こちらに対し、攻撃を仕掛けようという意思を感じなかったのだ。
俺は落ち着き、ゆっくりと回答した。
「そのネコが<フレーメン>だと気が付いた」
そのネコ、夏目こそがウワサのドラッグであり、おなじないなのだ。
「<フレーメン>の症状がでた三人の少女の共通点は、遊歩道の小さな鳥居の土を持って帰ったことだ」
佐藤弟の調査で、三人の少女は小さな小ビンに鳥居の周りの土を詰めて持ち帰ったと云う事が分かった。帽子女は黙って聞いている。
「そして、彼女たちは異性にモテはじめ、随分と明るく社交的になっていったらしい。そこで閃いたのが、この状況がとある症状と似ているということだ」
帽子女は黙ったまま動かない。俺はまた急に逃げ出さないかと油断は出来ずにいた。一呼吸の後、俺は真相を語り始めることにした。
「それはトキソプラズマ症ってもんだ。トキソプラズマというのは寄生体で、人間にも取り付く。人間にトキソプラズマが取り付いたときに、その人間の性格を変えてしまうらしい」
よどんだ空気が二人の間に流れていた。ぬるく、じめじめとした嫌な感覚だった。俺は背中に汗が伝うのを感じながら言葉を続けていく。
「男性はモラルが低下したり暴力的になったりするが、女性は男性にモテるようになり、社交性が増す。そして重要なのが、このトキソプラズマに感染するのはどういう場合か」
俺はポケットに忍ばせていた、昼間に回収した、あの鳥居の周りの土を詰め込んだ小さなビンを取り出した。
「トキソプラズマは、まず最初にネコ科の動物に寄生する。そしてそこで卵を産んでネコの糞などから外界に解き放たれるわけだ。あの小さな鳥居は、動物の糞害対策だった。あそこでフンをしていたのは、そのネコだったんだよ」
俺は夏目をあごでしゃくった。
「GPSでそこを通り道にしていることを確認した」
変わらず、帽子女は黙り込んでいる。こちらの話をきちんと聞いているのかも不安になるほど、反応がなかったが俺は話を続けるしかない。
「ただ、今回医者でも分からない症状だったこと。その症状の威力のすさまじさ。そして、今のお前、『森川詩織』を見ればもう良く分かった。そのネコのトキソプラズマは異常だ。特殊変異したスーパートキソプラズマとでも言うべきかな」
さっき『ペトロニス』は『ヤドカリ』だと表現したことから間違いない。おそらく『ペトロニウス』は異常なトキソプラズマだ。ヒトに寄生し、思考をいじる。その突然変異体に違いない。
「だから、そのネコの死体は調査しなくちゃあならない。<フレーメン>の正体ということでね」
帽子女の空気が変わった。また跳躍して逃げるつもりなのかもしれない。
「それは許されない。私は私のしなくてはならないことをする」
逃がすわけには行かない。こいつはまさに『核』だ。今、この周囲に起こっている事象の元凶だと思われる。おそらく逃がせば捕まえることは二度と出来ないのではないかと直感した。
「それはトキソプラズマに寄生したそのネコを処分することか?」
俺は何とか話を引き伸ばそうと考えた。そちらに手を出すつもりはないというアピールのために、その場に胡坐をかいて座り込んで見せた。
「……いや。それはこれまで世話になったネコの為に行ってあげることであり、私達の使命ではない」
「なに?」
俺は帽子女を見上げ、視線はその口元を捉えた。相変わらず機械的な動作で開口を行う。
「私たちの使命を果たすことが出来れば、<フレーメン>の特異性も消える。そうすればこのネコを調べようと、宿主の少女を調べようと、何も検出はされない。全て元に戻ると約束しよう」
「わたしたち? お前はなにかのチームなのか」
「そう考えてくれていい。このネコはキミのプライドを高く評価していた。頼む、このネコを処分させてくれ。世界に影響を与える前に。それがこのネコの願いなのだ。私はそれを叶えてあげたい」
夏目が俺をそんな風に見ていたというのか。俺は夏目に対して何も想っちゃいなかった。そう思う。
――愛情が無ければ名前などつけない、とヤツは言った。そうなのか。俺は何も想っていないわけではなかったのだろうか。
「使命とはなんなんだ?」
「敵を捜している」
「敵? 何かと争っているのか」
ペンライトの頼りない明かりすら闇に溶けていく中、帽子女は冷徹な声で告げた。
「世界の敵だ」
「そんなもの、いくらでもいる」
普通なら寝言は寝て言えと笑ってやるところだが、相手が相手だ。超常的な存在の『スーパートキソプラズマ』の敵とは何なんだ?
「いや、世界の敵はごく少数のみだ。この世に生きていてはならないものだ」
「それを捜しているのか。見つけて殺せば<フレーメン>の特異性が消えるというのか?」
「そうだ。目的が果たされれば私達は消える」
まるで感染症に対するワクチンのようだなと感じた。
「面白い。まぁこっちとしては悪魔の証明ができれば依頼は達成なんだ。ここで手を引いてもいいさ。だが、その世界の敵ってのは興味があるね。場合によっては手伝ってもいいぜ?」
帽子女は少しの間思案しているようだった。
「お前はそのネコから、俺がプライドの高い人間なんだと聞いたんだろう。その言葉は正直に言って嬉しいのさ。気分がいいから、サービスしてやると言っているんだぜ」
その言葉を聞いた帽子女は、跪いて俺の目線と合わせて「分かった。いくつか協力して欲しい」と柔らかい声で応えた。今までのマシーンの様な『音声』ではなく、温かみのある『肉声』に俺は目を瞬かせてしまった。
「まず、このネコの死体を飼い主に見せようと考えていた。しかし、死体は渡せない。だから、ネコの死体の写真を、飼い主に送りつけて欲しい」
その声はもう、機械的なものに戻ってしまっていた。俺はまた呆気に取られながらも質問を返した。
「なぜだ? そのネコは関わりを絶ちたいんだろう。飼い主にもその死自体ヒミツにしたいのではないのか」
「確かにその通りだ。しかし、私達はいま悩んでいる。敵の正体についてだ」
彼女は抱いている夏目に目線を落した。眼を伏せた彼女の表情はどこか申し訳なさそうに見えたが、表情は変わっていなかったかもしれない。すでに暗黒の廃工場では、彼女の表情がよく見えなかったのだ。
「その敵を判別するために、どうしてもネコが死んだと言うことを飼い主に知らせ、その反応を確認したい」
「……その真意はなんなんだ。そもそも敵と言うのは何者だ。判別するということは何かそれで特徴が分かるのか?」
飼い主にそのネコの死を知らせた時のリアクションで、敵が分かると言うのはどういう状況なのだろう。考えてみても、その答えは出てこなかった。
「特徴はただ一つ」
『ペトロニウス』はゆらりと立ち上がり闇を見つめこう言った。
「やつらには『愛情』がない」